エホバの証人の鞭問題…なかった事にはしないでね | エホバの証人ぴぃ~たんのブログ...目覚めてしまった...

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エホバの証人...目覚めてしまった現役エホバの証人ぴぃ~たんの日記

私は母親の愛を感じたことがない。

自分が愛されていると感じた事がない。

 


全ての母親が子どもを愛し、子どもの為に生きる事のできる生き物ではない。

 

 

私を産んだ人は自分しか愛せない人。

自分さえよければ、他の人がどんなに傷つこうが、きつい思いをしようが全く平気な人。

負けん気が異常に強い人。

謝る事を知らない人。

褒める事を知らない人。

口を開けは不満と陰口しか出てこない人。

 

 

幼い頃の私にとって、母親は命を脅かす存在でした。 ※ 私を産んだ人はエホバの証人ではありません

 


あの人はピアノが好きで、私がピアノに打ち込んだのは、確かに私自身が好きだったけど、それだけじゃなく、上手に弾けばあの人の機嫌がよくなる。

機嫌がよくなれば、その間だけでも身の安全を感じるから。

 

 

以前の記事の中で書いた事がありますが

あの人は夢の中でさえ、私を安心させてはくれませんでした。

 

 

夢の中……真っ暗な暗闇の中 

ひたすら私を産んだ人に追いかけられ

どんなに必死で逃げても、追いかけてくる。

 

 

電灯がある角を素早く曲がり、あの人はそのまま真っ直ぐ走って通り過ぎていく

 

 

やったやっと逃げることができた。

 

 

そう思った瞬間、角からあの人が顔をのぞかせていた

 

 

その瞬間、『ギャー』と悲鳴をあげてしまい、それは夢の中だけではなく、実際に声を出して悲鳴を上げ、自分の悲鳴で飛び起きる。

 

 

同じ夢を何度も見ました

何度も同じ夢を見てると、夢の途中で 

あぁこれは夢なんだとわかるんだよね

でも、何度見てもやっぱり最後には自分の悲鳴で目が覚めてしまう。

 

 

優しい“お母さん”を持ってる人が羨ましかった。

 

 

大きな大人を目の前に、力で敵うわけない相手に一方的に暴力を受け、罵倒され、自分にはなんの価値も無いと感じていました。

 

 

寂しくて、惨めで、怖くて、悲しくて、情けなくて、痛くて、存在価値を見出せなくてどんなに苦しかったか。

 

 

今だに“お母さん”なんて気持ち悪くて呼べない

 

 

いいこともありました。

私はあんたみたいな人にはならない。

子どもを恐怖で縛り上げるような子育ては絶対にしない

子どもの可能性を奪う事をしてはいけない。

そう学べた事。

 

 

だから、エホバの証人となってからも、子どもに鞭をしたり行動を制限したりせずに済んだこと。

 

 

以前にも書いた事がありますが

私は1歳半の時の記憶があり、皆を驚かせたことがあるけど...その記憶はとても断片的。

 

 

2歳の頃になると、記憶はもっとしっかりしている。歩き疲れても、あの人に抱っこをせがんではいけない、甘えてはダメな人。

 

 

いい思い出は1つも出てこない。

 

 

あの人が嫌いで憎くて

私はこれまで、いつか親殺しで全国ニュースに出るのではないかと本気で思うほど、何度も殺意を持ったことがあります。

 

 

エホバの証人の子どもたち知るまで、私は最悪の環境で育ったのではないかと思っていました。

 

 

エホバの証人の子どもさんは、宗教に膨大な時間を奪われ、行動の自由を制限され、人生をかけて崇拝する宗教を強制させられたんですよね。

 

 

『強制じゃなく、自由に決める事ができる選んだのは子ども自身…』そう言う人もいるのかな?

 

 

でも、だったらなぜ鞭で強制したのはてなマーク

鞭が嫌なら言う事を聞くしかないじゃない。

それが自由はてなマーク

自由に選択した事になるのはてなマーク

本気でそう思ってるなら、お話にならないわね。

 

 

しかし、親だけの責任ではないとい思うんだよね。

親は、唯一神の用いる地上の経路から出されるお言葉を信じ、そうしなきゃ子どもの命がかかってる!なんて言われたら…

子どもを愛している親はきっと必死になっちゃうよね。

その為に以前は鞭も推奨されてましたしね。

 なかった事にはしないでね。

 


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目ざめよ! 1974年10月22日

……子どもの命そのものがかかっているのです…放任されるなら神の恵みの外での死という結果にもなります…『むちを加へざる者はその子を憎むなり子を愛する者はしきりにこれをいましむ』箴13:24。そうです、しりをぴしぴしとたたくことを含め、自分の子どもを正すために親がなんでも手を尽くすことは、子どもに対する本当の愛の表れです。



ものみの塔 1982年10月15日

親は子供のために出来る限りのことをし…神の言葉から健全な教えを与える必要があります。(申命記11:19)その教えの一部は矯正の形を取るはずです。『愚かさが少年の心につながれている』と聖書は述べています。しかし『懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す』のです。懲らしめは、たとえお尻を叩くことが含まれていても、親の愛の表れです。



目ざめよ! 1982年12月8日   

……子供たちを訓練し、懲らしめるよう聖書が励ましていることを知っています。(エフェソス6:4、箴言23:13)これは時々子供をぶつということにもなるでしょう。でもカルメンは、「おしりをたたいても、しばらくするとまた母親のところへ来て抱き付きます」と言いました……

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これで、子どもたちは自由に選択したんでしょ!って言われてもねぇ…ショボーン

つくづく怖い宗教だなぁって思う。

 

 

虐待が社会問題化してくると、あからさまに鞭の話は表立ってしなくなり、集会でも大会でも、口を塞がれてトイレに連行される子どもを見ることはなくなった。



でもね…以前の行った事を何もなかったかのように振る舞うのはどうなのかな。間違っていたと認め雑誌等で謝罪の一文くらい載せてもいいのに。



何もなかったように、こんな立派な事を教えてますとアピールされても…

被害者は今でも苦しんだりするんだよね。

偽善者としか思えないよ。



心に受けた傷は治らない


鞭の被害者の傷付いた心には


時効なんてないんだよ…



鞭で子どもたちをまるで

家畜の様に

宗教も含めて教育する事を

推奨してきた過去がある…



過去の過ちを

公の謝罪もないまま

なかったことにはしないでね



……(o_ _)oパタッ  

(2020.6.13 初投稿)