集会に行くのをやめ、ものみの塔と距離を置くようになってからとしては、はじめて親族の葬儀に参加した時に思ったことなんだけど…
それまでのお葬式というと、気が重かったのです。
もちろん悲しい事なのだから、気は重いのですが、なんと言っても
親しかった人や、親族の葬儀に出席しない、ということもできず…
でも異教の習慣は避けなければならず…
何よりそれが一番 気が重かったのです。
どうしたら目立つ事なく手を合わせたりお焼香をしたりせずにすむか
お手伝いは、とってもいい逃げ場なので何かする事はないか…
いろいろ進んでお手伝いしてごましたり
そう…親しい人が亡くなっても
もちろん、悲しいのは悲しいんだけど、その人を偲ぶとかの気持ちの余裕はなく、常にしっかり立たねば!と、気を張っていたように思います。だって、一番に思う事は、手を合わせたり、お焼香したりを、回避する事。
葬式は試される場…みたいな感じがありました。
目つきも異様だったかもしれません。
それに、そんな事ばかり気になって、親しい親族が亡くなっても悲しい気持ちより、いかに異教の習慣から逃れられるか…というか気持ちの方が大きかった。
私を可愛がってくれた、感謝すべき祖母の葬式でさえ…
大切なのは、いかに偶像崇拝を上手に避けるか…よく考えたら自然の情愛を持つ人の気持ちではないですよね。
復活があるんだし…
何も悲しみに暮れることはない。
一番大切というか、葬儀の間の一番の関心事は、出来るだけ違和感なく華麗に異教の習慣、偶像崇拝、先祖崇拝、を避けること。
だから葬式の時には、お茶出しだとか裏方の仕事を率先して熱心にやる。カムフラージュになりますからね。
でも、人として大切な事を忘れてるよね。
JWから離れて
お葬式って、試練の場ではなく、こんなにも故人を偲ぶ大切な式なんだな…って、思いました。
亡骸に話しかける伯母。
いつまで昼寝をしとるん?
はよ〜起きんさん、みんな来とるよ。
辛かったろう…よぉ〜頑張ったなぁ。
疲れたから眠たいのはわかるけど、ちょっと寝すぎじゃない?
夜中も姿が見えないと思ったら、しょっちゅう棺の側に立って顔を見ながら話しかけてるの。
長年連れ添った夫婦…
〇〇ちゃん、〇〇ちゃん、と愛称で呼んで話しかけている。
昔からすごく仲のいい夫婦だった。
JWの教理では
死んだら無になるんだから、そんな…問いかけもムダなの。
でもね…それはただのJWの教理。統治体のおっさんが考え出した教理を心から信じんているのはJWの信者。何を信じるかは自由だけど、残された遺族の事を考えると、自分の宗教の教理を事情を押し付けるのは違う気がします。
押し通すことは、ある意味押し付けるのと一緒だと私は思う。
記憶の中で故人の
えがお
言葉
ぬくもりさえ
残るんですよね。
異教の習慣を信じる信じないは別として、相手の信じている事を尊重し、故人と愛する者を亡くし、悲しみにくれている家族親族の望むやり方で弔ってあげる事が大切なんじゃないかと思いました。
私が幼い頃、一時的に面倒を見てくれた伯父と叔母。
乳ボーロが大好きで、お味噌汁のお椀を抱えてきては、乳ボーロを入れてくれ!と、ねだっていたとか、父と私を生んだ人が迎えにきた時は、もう二人を忘れていて帰らないと大騒ぎした事…
お通夜にいろんな思い出話しをしたりして、亡くなった人を偲ぶ…
とてもいい時間でした。
あんな姿やこんな姿…走馬灯のようにいろんな記憶が浮かんでくる。
遺影や亡骸を見ては心の中で
“ おじちゃん…ありがとうね ”
何度も何度も言いました。
ものみの塔、エホバの証人の教理、地上の楽園での復活の教えは、とても聞こえのいいものに思えるけど…
とても冷たい気がしています。
今の命がなくなっても、復活がある。
大切な人から買って貰ったプレゼントが壊れてしまった。だから全く同じ物をまたプレゼントしてくれても、最初に貰った物の代わりにはならない。
どれがいいかな…と悩みに悩んで決めて、これ!と、実際に手に取ったもの。心のこもったもの。
遺品にしてもそう。
私の知り合いで、父親の形見分けでもらった財布を盗まれた人がいて、中身は要らないから財布だけでも返して!と言ってた人がいて、その人に『同じ財布を買えばいいじゃん!』って言える?そんな問題じゃないよね。
見た目も、性格も、記憶も、全く同じ人が現れても…それは亡くした人の代わりとなれるのかな?
限りある命…だからこそ大切。
貴重で尊いもの。
最近、他のブロガーさんも書かれていましたが、私も死んでもハルマゲドン後に楽園となった地上で復活し永遠の命を得る…という教えが残酷なものに思えてたんです。
たった数十年しか生きられない今の世での命より、地上の楽園での永遠の命の方が大切だと思うようになるだろうし、輸血拒否等、自分や他の人の今の命を軽く思う事にもつながりかねない。死んだら無になる。
追記: 死者は無になるんだし、復活して今度は楽園で暮らし、永遠の命を得るんだから…
だから、原爆ドームの前でカート奉仕中の方がジャンプして写真を撮ることすらできてしまうのではないのかな?
普通の感覚では、そこで多くの方々が犠牲となったその場所で、ふざけるのはムリですよね。
その場にはどれだけ多くの人の苦しみ、悲しみ、思い、怒り、が染み込んでいる事か…
死んだら無になる…何にもない。地上の楽園での復活し永遠の命を得る。
という教理は、人を残酷にしてしまうような気がしてなりません。
今ある命が全てではない…
という教えが、死にたくないと訴える子どもに対し輸血拒否して死なせる
そんな残酷な事ができるようになってしまう
by the way …
JW方式以外の葬儀についての考え方がわかる記事がありました。
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ものみの塔 1980年6月15日 P5〜7
……こうした事柄すべてを考えると,クリスチャンは外見の上で追悼の意を表すものとして喪服を着用するという習慣を模倣する気にはなれません。しかし敬虔な人は,死という悲しみの時に人前に出る際,品位のある服装をすることでしょう……
通夜の儀式も非とするものでしょうか。様々な宗教で行なわれているように,この慣行にはたいてい,一晩中哀傷歌を歌ったり泣き明かしたりすることがつきものです。これは遺族を重苦しい沈んだ気分にさせます。通夜は死者に対する恐れから行なわれるようになったようです……
しかし,遺族を訪問するのはふさわしいことでしょう。クリスチャンは非聖書的な見方や慣行に基づく通夜の因習にあずかりませんが,故人の遺体がまだ家にある時でも,そのような訪問を行なえます……
自分の親族を亡くした場合,悲しみをどのように表わしますか。クリスチャンは過度に嘆いたり,死者を恐れたりするようなことはしません。また,故人が生きている人の助けを必要としているとも考えません。クリスチャンはむしろ,死者が命によみがえらされるという希望を抱いています……使徒パウロは次のように語りました。「死んで眠っている者たちについてあなたがたが知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人びとのように悲しむことのないためです」。(テサロニケ第一4:13)ですから クリスチャンの悲しみは希望によって和らげられ 相殺されます。―ヨハネ11:24。使徒24:15。
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なんだかなぁ。
自分達の考え方を押し通すんですよね。
逆にそうされたらどう思うのだろう?
自分達はいいけど人はダメ。それじゃ自己中、自分勝手な宗教だよね。
(2019.12.12 初投稿)