懲らしめのムチ棒の話ですので、閲覧注意でお願いします。m(_ _)m
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私が子どもをエホバの証人にさせるべく育てなかった事は記事にしたことがありますが…
集会って、子どもを連れて行くような場所ではない!と強く感じたのは、私が集会に出席し始めた時、親が子どもを脇に抱えるようにして手で口を押さえて連れて行かれる姿を見た時です。
血の気は引き、恐怖で怯えた顔、目には涙があふれていて…『お願い…助けて!』そう訴えているような目で私の横を通り過ぎて行く…
どうしてあげることもできなかった…
それがとても辛かった。苦しかった。
ちょっとウトウトしちゃった、集中が切れてゴソゴソしちゃった…そんなの子どもは当たり前。
しかし…たったそれだけで、トイレに連れて行かれムチ打たれる。
異様な雰囲気…子どもを連れて行くような所ではない!っと感じました。
実は私の司会者(聖書レッスンインストラクター)は私に、子どもが不従順な時はこれでお尻を叩くといいわよ!と、ガスホース をくれたのです
『物差し、靴ベラ…いろいろ試してみたけど、これが一番効くのよ』と言っていました。
体罰が今ほど問題視されていなかった時代だったのですが、それでも、言って分からなければ、体で覚えさせる!って、そんな怖い事をギラギラした目で平然と言える人って、ゾッとしました。
子どもは家畜じゃないんだからさ
それに、人それぞれ子育てのやり方、考えは違うのだから、鞭をする前提でガスホースをくれるって変じゃない?
物差しも靴ベラも痛そうだけど、ガスホースが一番効くって…そうかな??こんなのが?って事で興味本位で自分で自分のももたを叩いてみたんです…
骨にまで響いて、痛いってもんじゃないんです
声も出ないほど痛くて悶絶しました。
子どもたちが集会で鞭打たれるために泣き叫ばない様に口を押さえられ抱えられ連行されるわけがわかりました。
私自身、私を産んだ人からの虐待の経験がなければ、私も当時の姉妹たちの様に我が子を鞭打ってしまったかもしれない。
経験がなければ鞭打つことが正しいと…子どもを愛しているなら鞭打つべき…と自分より人生経験のある人から教えられれば、それを信じたかもしれない。
そう考えると、私の子どもの頃の壮絶な出来事は無駄ではなかったのかもしれないね。何十年経っても…今でも苦しむんです…そんな自分が情けないと思う。でもその繰り返し。
でもね 最近になって思う事…年をとって迫力は消え失せ 小さくなった 私を産んだ人が、心から『苦しめてごめんね』と一言だけでもいいから言ってくれさえすれば…
完全に許す事はできないとしても、今だけを見て過去のことは思い出さない様に忘れてあげる事はできそうな気がしているんです。
親子って不思議だなぁ。まぁ…絶対に…脅されたって絶対に言わない人なのはわかってるけど。今は諦めなんです。
しかし、ガスホースをくれたのは…
当時のエホバの証人は鞭全盛期、そんな時代に子どもに鞭をしない私への嫌味、圧力だったと思っています。
ものみの塔が出版物で信者たちに、子どもにムチ打つ事について何と教えていたのか……
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目ざめよ! 1974年10月22日
……子どもの命そのものがかかっているのです…放任されるなら…神の恵みにの外での死という結果にもなります…『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』箴13:24。そうです、しりをぴしぴしとたたくことを含め、自分の子どもを正すために親がなんでも手を尽くすことは、子どもに対する本当の愛の表れです。
ものみの塔 1982年10月15日
親は子供のために出来る限りのことをし…神の言葉から健全な教えを与える必要があります。(申命記11:19)その教えの一部は矯正の形をとるはずです。『愚かさが少年の心につながれている』と聖書は述べています。しかし『懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す』のです。懲らしめは、たとえお尻をたたくことが含まれていても、親の愛の表れです。
目ざめよ! 1982年12月8日
……子供たちを訓練し、懲らしめるよう聖書が励ましていることを知っています。(エフェソス6:4、箴言23:13)これは時々子供をぶつということにもなるでしょう。でもカルメンは、「おしりをたたいても、しばらくするとまた母親のところへ来て抱き付きます」と言いました……
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出版物でも鞭の必要性を教え、正当化をして
子どもの命がかかっているとか…
お尻をたたくことが親の愛の表れとか…
聖書が訓練 懲らしめはを励ましている。これは時々子供をぶつということにもなる…
なんて教えていたわけですから…
エホバの証人にとって鞭は珍しいものではなく、日常だった時代があるんです。それを目撃、体験、してきた者からすると、虐待が騒がれ問題視される世の中になると、大きく変わりましたね。
家庭ではわかりませんが、集会で鞭打たれるために、口を覆われ抱えられて連れて行かれる子どもの姿はなくなり、外へ散歩に出たりしている。昔では考えられない事。今の子はいいね…そう思います。
変わった事はよかったと思うのですが
精神的にも身体的にも苦しめられた子どもたち、組織の言う事を信じ、叩くのが辛いと涙を流しながら我が子のお尻を鞭打っていた姉妹の存在を忘れないでほしい…
見解を改めるなら、改める前に苦しんだ方々に、せめて謝罪くらいあってもいいのではないか…それが誠意ある行動ではないのかな?
親の責任だけではないと思うんです。
組織から出される情報は神から出されるのと同じ…だって地上で唯一、神の用いる組織、経路と言ってるんだし、その組織から出された情報を信者は信じてしまう。
鞭全盛期、『尻をたたくなんて組織の考え方やり方は間違ってます!』と、組織相手に言える信者はいないといってもいいくらいでしょう。今だって、組織の指示に断固、異議を唱えるなら背教者として要注意人物として扱われ何かあればすぐに排斥って事になるのでしょうね。
組織を神の唯一の経路だと信じ、神の経路から出される情報を信じた信者が、鞭をしてしまったのだと思います。子どもの命までかかっていると言われていたのですから。
神権家族だと逃げ場がないですよね。
私の配偶者は未信者だし、子どもは小さな頃から、そりゃ~もうおしゃべりで、ぴぃ~ちくぱぁ~ちく…凄かったんです。周りからも驚かれるくらいおしゃべりでした。
誰に似ちゃったのかしらね~
(´0ノ`*)オーホッホッホ!!
鞭なんてしたら、マシンガントーク炸裂で とぉーちゃんに絶対に訴えるはずで、そうなると私が研究(聖書レッスン)を続けることさえ難しくなる。とは司会者に伝えました。
子どもを集会に連れて来るように言われましたが、ムチの圧力を受けるのも嫌だし、ムチのために連れて行かれる子どもたちの姿も見せたくなかったし、制限付きの生活をさせる事も嫌だったので、未信者のとぉーちゃんを最大限に利用し、集会にも連れて行きませんでした。
エホバの証人以外、赤ちゃんでも滅ぼされる…って教理を信じていなかった私は縛りが多いエホバの証人になるのは大人になって家庭を持って子どもを持ってから、なりたければなればいい…と思ってました。
司会者は凄く不満な様子で、時々…なんなのよ!って態度示していましたけど。
その他は本当によくしてくれたんですけどね。
私の司会者、大迫力だけど面白いところもある姉妹だった。覚醒しているのかもしれないけど、覚醒してたら たのもしい人になってるんだろうな