6/7のつぶやき
「自分の寂しいはすごくしっかり感じられるのだけど。というか、むしろ、寂しいだけが感じられることで、他の条件はかんけーねーんだよぉ!ってなるんだね。私の寂しいは他の人とも条件とも関係なく私の中に在って、その意味においてはあらゆる人が不生不滅なのね。生きてるかどうかは無関係なんだな。」
「自分の寂しいは自分のモノで、相手の不在は私がどうにかできることと出来んことがあるわけで。それはそれ、これはこれ、だ。相手や状況や事情に対する山ほどの恨み言はつまり「さびしい」の4文字の感情だ。今までもさびしいは私の心の友だったので、きっとこれからもそうなんだろう。」
私が使う「サビシイ」は、私の感情の動きにつけた名前なので、他の人と同じ使い方なのかどうかは分からない。
私のサビシイは「あなたにここにいて欲しい・Wish You Were Here」だ。
英文の仮定だから過去形って知識とは別に、あなたはここにいた(確かにここ私の隣に居た)が重要だ。
隣にいて、笑ったり怒ったり泣いたり、いいことも、くだらないことも話してくれたし、聞いてくれた。
私にとって生きてる人と一緒にいる喜びは、反応があるということだ。
ある程度は予想可能でもあり、それでも予想を超えてくることもある、あの反応への喜びが得られない。
それは単純に「不在の問題」だ。
あなたがいない時、私はどうするか。
きっとこう笑ってくれるだろう、こう言うだろう、こうするだろうと、あなたらしさのぬいぐるみを私の中に作る。不安を慰めてくれる、最強のぬいぐるみが出来上がる。
再会が叶えば、ぬいぐるみは不要となり、再度の不在にはまた引っ張り出して来る。
再会が叶わない場合、ぬいぐるみはサビシイになって、私の中に在り続けることになる。
サビシイがあると、少し安心する。
忘れて消えてしまうのが怖い。
私はまだあなたを忘れていない。
待ち侘びているから寂しいのだ。
ぬいぐるみを確認して、生活に戻る。
いつかは会えるかもしれないとの可能性は否定せずに、待ち侘び続ける。
再会が叶った時の、みやげ話はたくさんあった方がいい。
弟を亡くしてから、ずっと、サビシイは、私の心の友だ。
この穴は、他の誰にも埋められないし、埋めて欲しくもない。
いて欲しいのはあなたであって、誰かではないのだ。
誰でもいいから、誰かにここにいて欲しいの、寂しさは、あんまり良く分からないのだ。
多分、寂しいの種類はいくつもあるんだろう。
別の感情の動きに、同じさびしいって名前を付けてたりするから、寂しいの話がズレたりもするんだろう。
サビシイのぬいぐるみは、見えないライナスの毛布みたいな、温存されてる私の幼児性。
ぬいぐるみを捨てろとか忘れろとか成長しろとか前向きにとか、そういうのは要らない。
オモシロいぬいぐるみだね、でしょー!?って遊んでくれる人は好き。
寂しさは消えないのだけど、慰められることはたくさんあるのだ。