ウソツキの生存確率について | なんのブログ~んざんかいが~

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「ホントよりも、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。」というのは、寺山修司の言葉だ。私はこの言葉を愛している。

「ずっと一緒だよ!」は、その瞬間には本気のホントだが、長期的にはウソだ。別れはいつか訪れる。心変わりが無かったとしても、いつか、どっちかが死ぬだろうから、別れは避けらず、結果的にウソになる。

『希望』なんてのは、もっとも美しいウソだろう。

「希望はもっぱら人をたぶらかすものだが、それでも、人生の終着点まで楽しい道を通ってわれわれを行き着かせることにおいて少なくとも役に立つ。」は、ロシュフコーの言葉。私の信念の一つだ。



ウルトラセブンの「ノンマルトの使者」を観た。号泣してしまった。
「ホントを言っちゃった!この後、生きてけないよ!」ってのが、痛くて痛くて。

前にも書いた「怪獣使いと少年」の中にも出てくる、ウルトラマンを作った金城さんの書いた話だ。

怪獣使いと少年



沖縄をイメージして書いてるんだと思うと、ダメだよホントを言っちゃ!ってなって、書かざるを得なくなった気持ち、書いちゃった後の後悔、真一くんに言わせたセリフ、そういうの全部自分に思い当たる節があり過ぎて、うわぁぁぁって、言語化するのに苦労する感情の嵐ってのも久しぶりだ。

何がスゴイって、私のこういう状態に、ダンナも息子も「ちゃんと付き合える」ってことなんだけど、それは今は置いておく。


ホントを言ってしまったら、辛過ぎて生きていけないってなっちゃうことが、ある。


意識的にも、無意識的にも、脳科学的にも、
「生存にジャマなホントは消去される」機能があると思うぐらい、「ホントの編集」は人間には重要な問題だ。
(忘れられない、ってのが一つの障害になり得るというのはホントなのだ)

金城さんは、「希望というウソ」をカタチにして、ウルトラマンが生まれたんじゃないだろうかと私は思う。

けれど「希望というウソ」では、救えないものがたくさんあるのも、見えてくる。
誰かの「希望というウソ」は、別の誰かを踏みつけると知る。
その痛みは、圧倒的だ。
痛みの予感に「ホントを消去する」も起こり得るし、余りの痛さに「どうでもよくね?」ってなるのも理解出来る。
ニーチェが言う「ニヒリズムからのデカダンス」ってのは、この辺りの感じなんじゃなかろうか?と思う。


ウソをつかないと生きていけない状況ってのは、ある。

理想ってのも、ウソとホラとフィクションで出来ているんだけど、そこに「自分の血と肉で感じたホント」がないと、脆いのだろうと思う。そこのブレンドの過程は、やっぱり血の味がするように思う。


生存に必要なウソが、自分の生存を脅かしてくるってのも、ある。

そうしないようにするには、やっぱり「血と肉で感じたホント」を味わう必要があって。



私はウソツキが好きなので、ウソをつくなとは言わない。

「ウソをつくなら、自分のホントをなくさないようにしろ」
「バレた時の覚悟を持って、つけ」

だって、ウソは、生存戦略だから、禁止したら生存が危ないってのあるじゃない?

ウソとホントより、生存確率の方が、私には重要事項なのだ。