「『南京虐殺』への大疑問」の著者であり、夏淑琴から訴えられ昨年から口頭弁論が行われていた松村俊夫さんが九月二十八日に亡くなった。八十六歳であった。

松村さんが南京事件に関心を持つようになったのは、定年退職して好きだった歴史の研究を始めだしたときである。南京事件については、虐殺があったとするものから、なかったとするものまで、さまざまな本が刊行されており、それらに引きずられ次第に没頭する。平成十年、それまでの研究をまとめて展転社から『「南京虐殺」への大疑問』として刊行した。

松村さんが研究を始めたころ、事件の被害者だとする中国人が日本に来て体験談を話していた。李秀英と夏淑琴である。すでに日本軍の行動が明らかにされており、とするなら、被害者だという人の行動も子細に検討されなければならない。松村さんは二人の証言に取りくみだした。その結果、証言に矛盾があるのは、質問者が意図的だからで、李秀英も夏淑琴もそういう質問者によって証言者にしたてられたのではなかろうか、と書いた。

この記述に対して翌年、李秀英が名誉棄損で訴えてきた。南京事件の貴重な証言者という人格を否定されたといい、東京地裁で裁判が始まった。松村さんの真摯な研究は訴訟事件という形で返ってきたのである。

松村さんはそれら主張に逐一反証したが、東京地裁では認められず、最高裁まで行って、五十万円の慰謝料を払うよう命ぜられた。それで終わったわけではない。平成十六年になって夏淑琴が、これも名誉が毀損されたとして南京の地方法院に訴えた。南京地方法院から召喚状が送られてきたが、日本と中国の間で相互保証はなく、松村さんが出廷することはなかった。南京地方法院では夏淑琴だけが出廷して一日で審理を終え、翌年、約五百万円の支払いを命ずる判決が下りた。五百万円とは法外であるが、日本と中国の間では判決を執行する義務はない。

これで終わったと思っていたところ、昨年、夏淑琴が五百万円の執行を求めて東京地裁に訴えてきたのである。夏淑琴が南京地方法院に訴えたとき、松村さんのほかに出版元の展転社も訴え、展転社にも約五百万円の支払い命令が出ていた。執行を求めた今回の訴訟では当然ながら展転社も訴えられた。

この訴訟を簡単に言えば、日本で刊行された著述に対し、中国人が中国の法廷に訴え、中国の法廷が判決を下し、その執行を求めて日本の裁判所に訴えた、というものである。

中国法廷で下った判決は合計約一千万円という法外なもので、もし執行が認められるなら、今後、中国で次々と訴訟が起こされ、法外な判決が下り、それが日本で執行されることになる。日本では、南京事件は言うまでもなく、中国に関する批判は一切できなくなるだろう。

この訴訟が重大であることは誰にでもわかる。昨年十月二十四日、産経新聞に載った「南京取り立て裁判の怪」という記事がそのことを指摘したこともあり、たちまち支援する組織「『南京裁判』展転社を支援する会」ができあがった。『「南京虐殺」への大疑問』を刊行してからの十五年間、このように松村さんは訴訟が相次ぎ、それに振り回された。『「南京虐殺」への大疑問』を刊行することになったとき、そんなことは思いもよらなかっただろう。

これら訴訟は、一見すると、日本と中国の間の問題のように見えるが、実際はそうではない。

李秀英や夏淑琴たちは、松村さんの「『南京虐殺』への大疑問」を読んで訴訟に出たわけでない。日本人が読んできかせ、李秀英も夏淑琴もその日本人の話に乗っているだけである。二人の代理人を務めている渡辺春己という弁護士がその人物である。松村さんは今年六月に入って体調を崩し、九月六日の公判に出廷できなかった。そのとき、支援者に送ったメッセージのなかで「この訴訟の実質上の原告は渡辺春己で、彼は売国奴だ」と書いている。

松村さんは亡くなったが、展転社に絞って訴訟は続けられる。

訴訟は松村さん有利のうちに進んでいるといえるだろう。口頭弁論は東京地裁第103号室で行われ、いつも八十人ほどが傍聴するが、そのうちの七十名は松村さんの支援者である。これからしても、訴訟の流れがわかるだろう。

次回の口頭弁論は十一月八日、東京地裁103号室で午前十一時から行われる。傍聴するためには入場券が必要で、十時四十五分まで東京地裁の正面の右の所定の場所に並び、入場券を貰って傍聴する。いつもだと口頭弁論は十五分ほどで終わる。終わり次第、近くの弁護士会館で弁護団による説明が行われる。

訴訟は次回の口頭弁論で結審し、残すのは判決と予想される。「『南京事件』展転社を支援する会」では、一人でも多くの人が傍聴にお越しいただくことをお待ちしている。