「笑点」(日本テレビ)が60周年を迎え、1時間半の特番を放送していた。爆笑問題の漫才以外は異例の生放送、春風亭昇太は熱海五郎一座の公演を終えた新橋演舞場からやってくる、その様子を中継でつなぎ、三宅裕司や渡辺正行ら共演者たちが昇太と一緒に出てきたのもスペシャル感があった。昇太がいない日本テレビでは林家たい平が仕切り役を務めていた。やはり、残りのメンバーでは頼りになるのはたい平ということになるだろう。

番組では「笑点」の歴史をふり返り、歴代司会者の映像を流していたのだが、初代司会者の談志は映像がないのかと思えば、あとの大喜利のコーナーになってから流されていた。しかし、この映像は桂米丸が保存していたビデオのなかから発掘されたもののようで、日本テレビでは残していなかったのだろう。以前、日本テレビの「バズリズム」にグループ魂が出演したときに、グループ魂が「笑点」に出たときの映像が局には残されていないことがわかり、90年代でもまだそんなことがあるのかと驚いたが、90年代は「笑点」という番組自体にパワーがない時代だったのではないか。その時代に、荒療治のようにして、およそこの番組には似つかわしくないグループ魂やビシバシステムを登場させていた。若手お笑い芸人にしても、ちょっとオルタナティブすぎる人選である。今の時代からはわかりにくいかもしれないが、寄席芸人とテレビのお笑い芸人のあいだには大きな垣根があったのだ。


立川談志は1936年生まれ、「笑点」が始まった1966年には30歳である。最初の大喜利メンバーは、金遊(小円遊)、こん平、円楽、小痴楽(梅橋)、歌丸という5人だが、最年長の円楽と最年少のこん平には11歳の差があるものの、30歳前後の若い顔ぶれだったといっていいだろう。(二代目司会者の前田武彦、三代目司会者の三波伸介が、最年長の円楽より歳上であることも付け加えておきたい。さらに、三波伸介が司会の時代には、若い世代の楽太郎、夢之助が加入する。)

そこで思い浮かべるのは、先日、粗品が司会の「ツッコミスター」(フジテレビ)という番組が放送され、あの番組の出演者たちも30歳前後のフレッシュな顔ぶれだったが、もしかすると、「笑点」が始まったときにも「ツッコミスター」みたいなフレッシュな雰囲気がみなぎっていたのではないだろうか。あれは2000年代だったか、小朝が「六人の会」を結成したときに、談志は「雑魚は群れたがる」と言い放ったが、談志も若い頃には純粋に、同世代の仲間たちと一緒に売れていくことを夢見ていたのではないかと想像してしまうのである。



今年も「ハマフェス」に行ってきた。毎年5月最後の土日は「ハマフェス」と決まっていて、山下公園のメインステージで開催されるクレイジーケンバンドのフリーライブがここ数年は恒例になっている。正式名称は「ハマフェスY167」というのだが、この「Y」というのは開港150周年を記念に開催された「開国博Y150」から始まっている。つまり、今年は開港167年ということなのだが、「ハマフェス」ってなんだか最近始まったような気がしていたから不思議に思い、調べてみたら、「Y150」の翌年から「横浜セントラルタウンフェスティバル」というのが開催されていて、それが2020年から「ハマフェス」に改称されたのだった。ところが、2020年、2021年はコロナのために中止になってしまう。だから、「ハマフェス」がいつの間に開催されていたのかよくわからなくなっていたのだ。


私が「ハマフェス」に初めて足を運んだのは2022年だということも判明した。そのときに私は、瑛人、TEE、Crystal Kay のライブを観ている。瑛人はコロナ禍の2020年に「香水」がヒットし、その当時、横浜のハンバーガー屋でバイトしていたということも話題になっていたと思うが、その店は山下公園のすぐ近くにある。瑛人は翌年の2023年にも出演し、私はこれから毎年、この時期には瑛人の「香水」を山下公園で聴けるのかと楽しみにしていたのだが、2024年には出演者が替わり、瑛人は出なくなってしまった。「香水」という誰もが知るヒット曲が1曲あるだけでもすごいことなのだから、瑛人には出続けてもらいたかった。

クレイジーケンバンドは2023年から出演し、それ以降は「ハマフェス」の顔のようになっている。それ以前にも横山剣さんだけ出たりはしているようなのだが、いちばん長いのはどうやら Crystal Kay で、「横浜セントラルタウンフェスティバル」の頃からずっと連続して出演しているようだ。


「ハマフェス」はライブだけではなく、元町から馬車道まで、広範囲でいろんなイベントが行われていて、横浜ユーラシア文化館、横浜都市発展記念館、横浜開港資料館という3館が無料になるから最初の年(2022年)には私はひととおりまわった。街のあちこちにはスタチューのパフォーマーがいて、中華街では獅子舞たちのパレードも見物した。(確認してみると、2022年は春節にやるはずだったパレードが、コロナのためにこの時期に延期になったようだ。)

6月始めにはこれも毎年恒例の「横浜開港祭」があり、今年は「ハマフェス」と合わせて4日連続という異常事態になっている。私は仕事をするひまがなく、どうしたらやっていけるのかとあたまを悩ませている。いや本当に。





「田村淳のNewsCLUB」(文化放送)を聴いていたら、小原ブラスが阿部慎之助の一件について話していて、田村淳だって暴力はふるわないと今は自制ができるが、淳も歳をとってこのくらいの年齢になったらわからないというのだが、阿部慎之助よりも田村淳のほうが歳上だからどうも変なことを言ってると思って聴いていた。淳自身も阿部慎之助の年齢を把握していないんだろう。(まあ、そんな話はさておきですが)


このニュースが出たのは月曜日だったが、水曜の「伊集院光のタネ」(ニッポン放送)の生放送で、伊集院光がしゃべっていたことに私はいちばん共感した。現時点では憶測しかないからこそ、辞任を決めるのは早すぎないかということだが、そのとおり、判断を急ぎすぎているということに尽きるのだ。

私は野球を観ない人間だからわからないこともあるとは思うが、早い段階で監督を切るというのは球団の損害を最小限に抑えるための判断ではないのだろうか。守るべきは球団の経営であって、倫理的な判断はここにはあるのだろうかと疑いたくなる。しかし、ニュースは倫理的な問題として語られていくのであり、にも関わらず、デリケートなはずの領域にあまりにも無神経である。


この一件は暴力の問題ともうひとつ、AIの問題としてもしきりに語られている。そこで思うのは、暴力の問題についてもAIが答えるような意見を言う人間がかなり多いということなのだが、論理を突き詰めればそうなるとは思うものの、AIが登場するはるか以前に杓子定規という言葉はあるのに、この時代、杓子定規な判断が世の中に非常に増えていると感じられる。なぜならば、AIを使うようになった人間はAIに合わせた思考回路をもつようになるからだ。

テレビが登場したときには人間はテレビを模倣し、ゲームが登場したときにはゲームを模倣した(定規が登場したときには定規を模倣したのかもしれない。)。そして現在、われわれはAIを模倣している。それははたして、いいことなのか悪いことなのか。これからゆっくりとそれを判断していく時間があればいいと私は考えている。

「週刊SPA!」(扶桑社)に小沢一郎の独占インタビューが載っているのを読んだ。「高市政権は今年中にひっくり返る」と題したこのインタビューのなかで、高市政権の支持率が今は圧倒的に高く、誹謗中傷動画拡散のスキャンダルもありながら政権基盤が揺らぐ気配はないというインタビュアーの疑問に、小沢一郎は「「今は」な。」と答えている。

「細川政権なんて当初は70%以上の支持率だったんだ。支持率なんて脆いものだ。大勝したと言われている今年2月の衆院選も、自民党の比例票は岸田政権の頃と比べて大して増えていない。その後も地方選挙では負けが続いている。政権の支持率なんてタレントの人気投票のように移ろいやすいものだよ。」

「インフレが止まらず物価が上がり続ければ、政権の人気なんてすぐに崩れるよ。田中(角栄)先生のときもそうだった。政権発足時は支持率60%以上だったが、第1次オイルショックで狂乱物価に見舞われて人気を落としてしまった。」

「今年中には大きな政局が訪れると僕は思う。ごちゃごちゃになるから面白いんだよ(笑)。」


このインタビューのなかでは、小沢が「日本改造計画」(1993年刊)のなかで構想していた「普通の国」論についても語られていた。

「当たり前の自立した大人の国になれと。「自立と共生」が僕の政治哲学の柱だからね。」

「勘違いされているんだ。1993年に『日本改造計画』を出した後も「軍国主義を再来させるつもりか」と批判された。そんな話ではないんだ。他国が当たり前にやっていることを、軍備も含めて日本もやるべきだと言っているにすぎない。」

インタビュアーが、高市の熱心な支持者の一部にも「普通の国=軍備増強」との誤解があるように思うと言うと、

「高市君の支持者だけじゃないさ。日本人全体がわかっていないよ。民主主義においては国民のレベル以上の政治家は現れない。もし政治家が愚かだと思うのであれば、国民が愚かだということだ。そのことを日本人は自覚しなくてはダメだな。」


2月の衆院選のときに、TBSの選挙特番では高市の「意地悪やなあ」発言ばかりが有名になってしまったが、あの番組では、太田光がエンディングに改めて高市に長くアンサーしていたことはこのブログにも書いた。責任をあえて言葉にしないこと、それは日本の良さでもあるとしつつ、日本の政治のいちばん不安定なところでもあると太田は指摘していた。つまり、成熟していない国ということだが、それが憲法改正の話にもつながる。日本を「普通の国」にするというときに、その成熟していない国が普通の軍隊をもつことには危険を感じるということを太田は話していたのだった。

水曜の「大竹まこと ゴールデンラジオ!」(文化放送)に日本坂道学会会長の山野勝が出演していた。タモリが出した本の監修をしていて、「お江戸・東京 坂タモリ」というその本を私は本屋で目にしたことはあったが、一瞬、「ブラタモリ」の本かなと思ったのだが、なんの番組関連の本でもないようで、今まで「港区編」と「新宿・渋谷・目黒区編」の2冊が出されている。タモリは著書の少ないひとで、しかし、番組関連の本は多く、本人が書いているのかよくわからない本もいくつかあるのだが、タモリのまともな著書と言えるのは「タモリのTOKYO坂道美学入門」(2004年刊、講談社)だけだろう。(もう1冊あげるなら、松岡正剛と対談した「コトバ・インターフェース」は面白かった。)

日本坂道学会については、タモリがときどきテレビなどでしゃべっているから知っているひとも多いだろうが、会員は2名だけ、タモリが副会長、もうひとりが会長なのだが、この会長である山野勝という人物を私はよく知らなかったから、ラジオに出ていることに意外性があったのだが、検索してみるとウィキペディアに項目もある。今は講談社の顧問のようだが、「ヤングマガジン」で編集長をやっていたというひとなのだ。タモリとは銀座7丁目の小さなバーでたまたま出会い、お互いに坂道が好きだということがわかり、会うたびに坂道の話をしていたら、3年ぐらい経ったときに、タモリからなにか会を作ろうかという話になったというのがその経緯のようだ。山野勝は現在83歳、50代から坂道が好きになり、タモリと出会ったのは25年ぐらい前だと話していた。カルチャースクールの講師やオンラインサロンもやっているようで、きっちりビジネスにも結びつけている。


先日放送された「タモリステーション」(テレビ朝日)では「変貌する東京の巨大駅」の特集をしていた。工事が進む渋谷駅をタモリが訪れていたのだが、工事が始まったばかりの2008年にもタモリは「タモリ倶楽部」で潜入したことがあり、その映像も流される。タモリは九州から上京したばかりのときに渋谷駅で地下鉄を探したけどどうしても見つからず、銀座線が地上3階ぐらいを走っているのを見て、それが東京の地形に興味をもったきっかけだったという話をしていた。

タモリたちは4年前から始まった新宿駅西口の大規模工事の現場も訪れる。タモリたちが西口から、東口にあるアルタの跡地を眺める場面があったのだが、アルタがなくなって淋しかったかと訊かれると、タモリは「いやあ、別に…」「古いしね、あの建物」といって、じつにたんたんとしている。2035年に完成予定だという西口広場の完成図も見つつ、新宿の変化について淋しさは感じないのかと改めて訊かれると、「いやいや、私はないですね。見てみたいよ、こういうふうになるのを。」




日本演芸家連合という組織があり、年に一度、「大演芸まつり」という公演を開催している。以前は国立演芸場で行われていたが、国立演芸場が建て替えになってしまったから、それ以降は横浜にぎわい座で行われるようになっている。日本演芸家連合は、関東の10団体、関西の4団体により構成されている。ざっと並べてみると、落語協会、落語芸術協会、講談協会、日本浪曲協会、日本奇術協会、太神楽曲芸協会、漫才協会、東京演芸協会、ボーイズ・バラエティ協会、日本司会芸能協会、以下は関西になり、上方落語協会、浪曲親友協会、関西演芸協会、関西芸能親和会という計14団体である。
落語ファンならば、落語協会と落語芸術協会は知っているだろう。講談、浪曲、奇術、太神楽もそれぞれさほど説明はいるまい。漫才協会はナイツでおなじみ、浅草東洋館をホームグラウンドにしていることもだいぶ知られているだろうと思うが、浅草東洋館ではほかにも、東京演芸協会とボーイズ・バラエティ協会の公演がある。ボーイズは音楽を使った演芸だが、「ボーイズ・バラエティ」というくらいだから、この協会にはボーイズだけでなく、バラエティに富んだ芸種の芸人が所属している。知名度があると思われる会員では、グレート義太夫、さいたまんぞう、タブレット純がいる。米粒写経は漫才師なのにボーイズ・バラエティ協会に所属している。

今年、横浜にぎわい座で行われる「大演芸まつり」は5日間5公演、7団体が参加していた。そのうち、私は3日目に行われた東京演芸協会と日本司会芸能協会2団体による公演に足を運んだ。ほかには落語協会や漫才協会の公演もあるのに、なぜこの公演をわざわざ選んだのか、なぜならば、私にとってはこういうときででもなければなかなか観る機会がない、謎に満ちた2団体だからである。
この2団体による合同公演はこれが3回目になるようだ。チラシには「二団体夢の競演!」と書かれてあったが、この白昼夢のような公演のプログラムをまずは記しておこう。

出演者全員 野毛山節(ノーエ節)
口上 柳家小さん(日本演芸家連合副会長)・穂高五郎(日本司会芸能協会会長)・ベートーベン鈴木(東京演芸協会会長)/司会:牧野尚之
小太郎 曲独楽/司会:五十嵐一枝
フウフノカガミ コミックソング/司会:司ひろし
荒井家一本 何とかしてよ漫談/司会:喜久澤めぐみ
ジィーニー&スージィー&わがし&しろたにまもる 腹話術競演/司会:猪馬ぽん太
早川きょーじゅ おしゃべりヴァイオリン/司会:三条志郎
菊池しずえ&池慎弥 歌謡曲ナレーション合戦
優ゆう 歌唱/司会:旬香美知子
かわちゆみこ 歌唱/司会:平山紀美子
高田京子 歌唱/司会:池慎弥
仲入り(色紙販売)
猪馬ぽん太&寿亀子 軽いおしゃべり
元はじめ マジック/司会:旬香美知子
三遊亭絵馬 紙切り/司会:桂城吾郎
あさひのぼる ギター漫談/司会:三条志郎
ベートーベン鈴木 コミックソング
出演者全員 「日本全国酒飲み音頭」
フィナーレ 司会:三条志郎

ご覧のとおり、東京演芸協会の会員たちが芸を披露して、その合間に日本司会芸能協会の会員たちが司会をするという構成になっている。演芸会に司会者がいるということがかつてはあったのかわからないが、今ではまずない形態だ。
チラシには日本司会芸能協会の「応援団長」として毒蝮三太夫の写真が載っていたのだが、名前の下にカッコして「テレビ出演がなければ出演」と書いてある。今回はテレビ出演があったようで、こちらには出演しなかった。第7代会長、大木凡人の写真も載っているのだが、大木凡人は入院したというのでやっぱり出なかった。詐欺みたいなチラシである。出演者には有名人がまるでおらず、あさひのぼるがかろうじて演芸番組に出ることがあるくらいだろうか、しかし、ベートーベン鈴木は知らなくとも「日本酒飲み音頭」はものすごく有名だろう。ベートーベン鈴木と岡本圭司によるバラクーダーは、去年、35年ぶりにコンビで舞台に立ち、私はその公演にも足を運んでいる。だから、東京演芸協会の芸人はそのときにもひととおり観ているわけだが、日本司会芸能協会は私にはまったく未体験であった。
日本司会芸能協会にはホームページが存在せず、SNSもなく、ウィキペディアに項目もないから歴代会長もわからないのだが、当日にもらったパンフレットによると、昭和61年、コロムビア・トップが宮尾たか志の病気見舞いや葬儀に同業者が少ないのを見て、司会者の絆や情報、親睦を目的に発案し、発足したのが日本司会者協会、現在の日本司会芸能協会だということである。顧問には、徳光和夫、大沢悠里、綾小路きみまろが名を連ねている。しかし、パンフレットに載っている会員たちを見てみると、ほかの団体のどこよりも若い会員がぜんぜんいない。
こうなると、20年先、いや、10年先にも存続しているかはわからないのが現実ではないか。今のうちに観ておくこと、それも必要かもしれないが、それ以上に、今のうちに芸能史として残しておかなければならない部分があるのでは、さもないと、失われるものがきっとあるのではと思うが、ここに興味をもつ人間がいないからこの現状がある、残念ながらそういうことでもあるだろう。なんにせよ、私はまだ日本司会芸能協会に興味をもち始めたばかりだ。

月曜の「ラジオビバリー昼ズ」(ニッポン放送)を聴いていたらゲストが泉麻人だったのだが、泉麻人は今、亀渕昭信を中心にその当時のラジオのことを調べているようで、野末陳平に興味があるという話をしていた。なんでも、泉麻人が「ナウのしくみ」(最初の単行本が1985年刊)を出したときに野末陳平から封書の丁重な手紙をいただいたが、返事を出さなかったことをずっと悔いているのだという。泉麻人は現在70歳、1956年4月生まれだから、その当時は30歳手前というところだろう。

以前、このブログで、1955年前後に生まれた有名人を簡単に調べてみたことがあったが、さんまや桑田佳祐など大物が多く、いっぽうでは新人類と呼ばれた世代の上限にあたるのだが、しかし、泉麻人のような立ち位置のひとはいるようでいないという感じがする(強いてあげれば、泉麻人と共著を出した田中康夫は同じ1956年生まれだ。)。2歳下、1958年生まれになると、山田五郎、みうらじゅん、久住昌之、根本敬、しりあがり寿といったサブカルチャー界の大物豊作の年なのだが、あるいは、秋元康も1958年生まれだ。


野末陳平は現在94歳、この世代で元気なのはほかには五木寛之と山田洋次だけだと高田文夫は言っていたが、小林信彦もまだ元気である。放送業界の黎明期に活躍した放送作家第一世代とそれに近いひとびとということだが、じゃあ、ちょっといったん整理してみようかと思い、どのあたりまで入れていいかわからないが、以下、思い浮かぶままに簡単に一覧にしてみた。特になにかの役に立つとは思えないが、どうぞご参照いただければ幸いです。


生まれ年月

1929年4月 前田武彦

1929年4月 小沢昭一

1929年11月 向田邦子

1930年10月 野坂昭如

1931年9月 山田洋次(存命)

1932年1月 野末陳平(存命)

1932年3月 大島渚

1932年7月 青島幸男

1932年8月 小林亜星

1932年9月 石原慎太郎

1932年9月 五木寛之(存命)

1932年12月 小林信彦(存命)

1933年4月 永六輔

1933年8月 黒柳徹子(存命)

1933年12月 藤子・F・不二雄

1934年3月 藤子不二雄A

1934年3月 大橋巨泉

1934年6月 山田太一

1934年9月 筒井康隆(存命)

1934年11月 井上ひさし

1935年1月 倉本聰

1935年1月 大江健三郎

1935年9月 小澤征爾

1935年9月 赤塚不二夫

1935年12月 寺山修司


1955年前後に生まれたひとびと

フジテレビで放送された「ツッコミ芸人No.1決定戦 ツッコミスター」という番組を観た。簡単に言ってしまえば、「IPPONグランプリ」のツッコミ版というのがいちばんわかりやすい説明になるだろうか(しかし、簡単に言ってしまうことを拒絶するような感じがこの番組にはある。)、粗品を中心に据えたこの番組には、ある面では、「すべらない話」が始まったときの空気感を思い出させられもする。出場者たちは現在のバラエティ番組の水準からしたらおそらくかなり若い、粗品と同世代、ないしはそれより下の世代の芸人たちだ。お笑いファンにとってもあまりなじみのない若手も混じっているほどだから、一般的には無名といっても差し支えはないだろう。初期の「すべらない話」も一般的には無名だった宮川大輔やほっしゃん、メッセンジャー黒田らの活躍があった。このメンバーを売っていこう、あるいは一緒に売れていこうという意思が番組にはあったはずだが、「ツッコミスター」にもそれと同じような強固な意思がみなぎっていると感じられた。

しかし、いや、やはりというべきか、「ツッコミスター」という番組は松本人志的な思想の延長にあると位置付けられはするだろう。具体的には、芸人をジャッジできるのは芸人だけであるという芸人至上主義的な思想の延長(さらに、ジャッジできるのは自分だという粗品の自信)、そして、お笑いを競技化し、順位をつけるという能力主義も受け継いでいる(徒弟制度を離れた養成所育ち第1号である松本人志によってそれが推し進められてきた事実も付け加えたい。)。だから、けして粗品一代で産み出したものではなく、あくまでも松本人志が築きあげた土台の上に建てられたのが「ツッコミスター」という番組であるわけだが、今、「ポスト松本人志」という称号が与えられるとすれば、そこにはいい意味も悪い意味も含まれてしまうが、この番組の成功により、粗品がポスト松本人志の座に手をかけたことは間違いないだろう。それはまた別の視点から見れば、フジテレビがその座に粗品を指名したということでもある。


松本人志がそうだったように、ルールを作った人間は覇権を握るように世界はできている。それはつまり、カジノの胴元がつねに勝つようにできているのと同じことである。

「ツッコミ」をフォーカスすること、それ自体にも新鮮味はあったが、この番組では「ボケ」に対する「ツッコミ」という単純な理解を揺るがし、色、数字、図形といった「ボケ」ていないものへの「ツッコミ」が要求されていた。おそらく、「ツッコミ」とはなにかという根本的な問いから練られたルールだろう。例えば、かつて、アントニオ猪木はホウキが相手でもプロレスを成立させると言われたが、それと同じように、ホウキを相手に漫才を成立させられるかどうかをここでは試されているかのようだった。

(浜田雅功は犬と漫才をやったことがあるような記憶があったのだが、検索しても見つけられないから私の記憶違いなんだろうか。それとも、それに近いような企画がなにかなかったでしょうか?)

「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)を観ていたら、たしか、ナフサショックについて河野太郎が語っている場面だったか、斎藤幸平が「今の説明、すごい説得力あるんですけど、僕、河野さんのこと、どうしても信用できなくて」と切り出したから笑いが起こる。「じつは僕、河野さんにエックスでブロックされてるんですよ!」と斎藤が言い放つと、河野太郎は「それは悪いやつだから」だと返した。(ネットでは冗談と本気がいとも簡単に混同されるが、これは明らかに冗談のやりとりである。)


その3日前、木曜日の「大竹まことゴールデンラジオ!」(文化放送)のゲストも斎藤幸平だったのだが、この日は大竹まことの誕生日の前日だった。斎藤幸平は登場するなり、「大竹さあん、誕生日おめでとうございます! 明日ってうかがってますよお!」 大竹まことは苦笑しつつ、「斎藤さんのいいところと、まあ悪いところ…(笑)」といって、斎藤幸平には大学教授とは思えない軽さとチャラさがあると話し始める。

大竹「冗談にも乗ってくるし、まあこっちがね、ちょっと変なツッコミ入れてもうまく流してくれるっていうか、その軽さっていうのは子どものときからそんな軽いの?(笑)」

斎藤「やっぱりね、アメリカとかで暮らしてるのが長いので、いかにマイノリティとしても、友だちを作るかとか、そういうことを…。(略)やっぱりもっと陽キャにならないといけないっていうことで。左翼で、肩身狭いんですよ、最近(笑)。だからこうちょっとでもね、明るくしていかないと。」

青木理は「いや、斎藤さんはね、わざとやってると思いますよ。」といって、斎藤が「人新世の「資本論」」(2020年刊)を出した直後にインタビューしたときの印象を語る。青木理によると、そのときには学者然としてまじめに語っていた斎藤幸平だが、だんだん軽くなっていったということだ。

大竹「でも、もともとのなんか軽さみたいなのをお持ちですよね?」

斎藤「一応、そうですね、サッカー部で、やったりとかしてましたし。だからまあ、ちょっとやっぱりでもまじめにしたほうが、ちゃんとこういう話をするときに、ありがたい大学の先生が言ってくれてる話だと思って聞いてくれるんだみたいな、編集者が言うんですよ。あんまりこういう軽いふうになるんじゃないと。ただやっぱり、逆に軽くすることで、親しみをもってくれるところもあると思うんで。」

大竹「いやいやそうそうそう、とても小難しいことを考えてるひとが、ちょっと軽い感じのねえ、俺なんかはもうとっても気楽な感じが…」

斎藤「ただ、やっぱりそうですね、なんだろう、別に、気候変動とかの話っていうと、なんかすごい大きくて、なんか難しい話に聞こえるし、格差とか、いろんなマイノリティとか、でも、やっぱりそれって自分の話でもあるから、そういうことについて考えたり、アクション起こしたりするハードルを下げたいってのがあるんですよね。」


斎藤幸平は脱成長を掲げながらもそのふるまいとの矛盾を指摘されもしているのだが、そもそも、「人新世の「資本論」」は資本論を再解釈するという本だったはずだ。今度の本(「人新世の「黙示録」」)を私はまだ読んでいないが、別のラジオ番組では、斎藤は現状を受け入れるべきだという話もしていた。

あるいは、斎藤幸平は左翼のイメージの悪さをきちんとわかっていて、ことあるごとに自身を「左翼」と名乗り、それを笑いにしている。自分自身を客観視できるひとなのだろう。

2年前に「サンデージャポン」(TBS)に斎藤幸平が出演したときのエンディングだったが、一緒に出演していた大沢あかねが「ハリー・ポッター」の舞台の告知をすると、斎藤はたまたま今日これから観に行くのだという。「(「ハリー・ポッター」は)まだ一回も映画とか小説とか観たことなくて、なんのストーリーも知らないんですけど、革命とか共産主義の話だといいなと思って」 斎藤がそう言うと、太田光がすかさず「違うわ!」とツッコんだ。



ズーラシアの年間パスポートを購入していることは以前に書いたが、今回が3回目の利用である。3回は多いと考えるか少ないと考えるか、購入してからもう半年が過ぎてしまっているから3回は明らかに少ないのではと思うが、酷暑の夏を迎える前にまた何度か行かなければもう無駄になってしまう気がする。しかし、年間パスポートを買うようなことをしなければ、おそらく、私はまたずるずるとズーラシアから遠ざかることになるだろう。以前に書いたことをくり返すようだが、私はズーラシアと同じ横浜市旭区に住んでいる。バスに乗ればうちから30分ぐらいで着いてしまうのだが、なのに、その近さに長らく気がついていなかった。去年、年間パスポートを買うまでは、私はズーラシアには二十年前に一度行ったきりなのだった。ズーラシアに近いのにその恩恵をまったく授からずに過ごしていたとは。ああ、私は今までなんてもったいないことをしていたのかと、動物たちみんなに謝りたい気持ちになった。
だから、通算するとまだ4回目ということなのだが、いつも閉園に近い時間に行ってしまうものだから園内をすべてまわれずに帰ることになり、北側のエリアにはまだ一度もたどりつけずにいる。ズーラシアは広い。この広いズーラシアを私はどうすればすべてまわることができるのだろうか。知恵をしぼって考えてみたところ、その結果、ひとつ見つけた答えは早い時間に行けばいいということだ。早い時間に行く。遅い時間に行ってはだめだ。ズーラシアは早い時間に行くしかない。

私は正午過ぎにはズーラシアに到着していた。今回こそ、北側のエリアを優先的にまわってやろうと決意し、3月にきたときに園内を巡回するバスがあることがわかったからそれを利用しようかと考えていたのだが、バス乗り場に行ってみると、このバスは有料だということが改めてわかった。有料ならば話は変わってくる。私は過去2回の来園と同じルートで園内を歩き始めることにした。
インドゾウから始まる「アジアの熱帯林」のエリアから、ペンギンやホッキョクグマがいる「亜寒帯の森」を抜け、「オセアニアの草原」へと進む。土曜だから来場者は多く、けっこう混んでいたが、気候はやや寒い。動物たちはあまり活発ではないようだ。同じルートをたどっていても、動物たちが同じようにすがたを見せてくれるとはかぎらない。ズーラシアのインスタで紹介されていたキノボリカンガルーを見てみたかったが、今日は小屋のなかに入ってしまっているようだった。
少し近道を通り、「アマゾンの密林」のエリアから「アフリカの熱帯雨林」のエリアに進んでいく。前回はここまで進んで時間切れ、ズーラシアといえばオカピが有名なのだが、そのときは部屋のなかにいるガラス越しのオカピを見ただけだったが、今日は外に出ているオカピを見ることができた。その先の「アフリカのサバンナ」のエリアからはいよいよ初潜入となる。だだっ広い敷地のなかに動物を放してある野生そのものの環境がじつに壮観なのだが、ここでは数種の動物を共棲させていて、クロサイは柵で隔てられているが、シマウマとエランドとキリンは一緒にいる。一緒にいるといっても、シマウマたちがいるそのはるか向こうにエランドたちが見えるというふうで、エランドは近くで見ることはまったくできなかったが、日によってはここにチーターも共棲させることがあるようだ。今日はチーターは隔てられたところにいたのだが、チーターとシマウマを一緒に共棲させられるという知識がなかったからどうも信じがたく、その状態は一度この目で見てみたいと思った。シマウマは近くで見ることができたが、そのとき、1頭がぼとぼとと糞を始め、そのあとには石にお尻をなすりつけて拭いている。シマウマがそんな行動をするということも思いもよらないから、そんな場面に出くわしたことが面白かった。
サバンナのエリアをぐるっと一周していくと「バードショー広場」というのがあって、ちょうど、飼育員さんが鳥たちを使ったショーをやっている最中だったようだが、そこは定員制限があるようで、観覧スペースに入ることはできなかった。その先にはヒトコブラクダがぽつんと飼われていて、ラクダというやつはどこのエリアにも属せないものなのだろうか。あとは入り口のほうにはるばると戻ってくるのみ、これでついにズーラシアを初めてひととおりまわることができたが、まともにまわろうとすると2時間ぐらいはかかるということがわかった。休憩所はあちこちにあるものの、あらかじめ2時間は歩くつもりでいないとくたびれてしまうかもしれない。