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先月の「タイタンライブ」30周年で配布された全出演者の年表を見ると、始まった年、1996年12月の回にポカスカジャンの名前がある。ポカスカジャンも30周年だから、結成したその年にはもう出ているのだ。タイタンとWAHAHA本舗の関係性の強さなのか、WAHAHA本舗からはほかにも、梅垣義明、元気安、3ガガヘッズらの名前が確認できる。90年代のお笑いライブのお客はほとんどが若い女の子ばかりで、私みたいな男の客が通いやすかったのはオフィス北野や大川興業だったのだが、年表を見ると、北野の雨空トッポライポ(のちに〆さばアタルヒカルに改名)も初期の「タイタンライブ」にはよく出演している。
私は「タイタンシネマライブ」が始まって以降は、ほぼ毎回、映画館で観ているのだが、「タイタンライブ」の会場に足を運んだことは一度もなかった(先日のラインキューブが初めてだったのだが、いや、正確なことをいえば、1999年に本多劇場で公演された特別編は観ている。)。では、その時代に、私は爆笑問題をどこで観ていたのかというと、国立演芸場の「花形演芸会」なのである。「花形演芸会」では金賞銀賞に選ばれるとレギュラーとなり、年に3回は出演することになる(爆笑問題は今でも年に一度はゲスト出演している。)。当時の「花形演芸会」は立ち見ができて、立ち見はチケット代も安く、当日券立ち見で入り、通路に座って観るということをよくやっていたのだが、今からしてみると、ずいぶんおおらかな時代に感じられる。人気がある出演者がいるときには、通路、壁際までぎっしりと客が詰まっていたのだから大変な熱気だ。「花形演芸会」ではもちろん多くの落語家たち、なかでも、もっとも昇り調子だった頃の立川談春を追いかけられたことは思い出深いが、中川家のすさまじい漫才を観たことも強烈に記憶している。「花形演芸会」にはポカスカジャンもよく出演していた。いつ観ても台風のように客席を沸かせていくのがポカスカジャンだった。現在のようにお笑い界のマーケットがまだ巨大ではない時代のことだ。

連日の演芸会だが、今度は桜木町の横浜にぎわい座まで、「2代目ポカスカジャン襲名披露公演」を観に行ってきた。2代目ポカスカジャンとはなんなのか。知っているひとは知っていることだが、ポカスカジャンは2019年にメンバーがひとり脱退し、トリオからコンビになった。なので、そのトリオの時代を初代として、コンビになったポカスカジャンを2代目にしたというわけである。いや、そんな2代目があるのかと思うが、コンビになって7年が経つのになぜ今かといえば、今年はポカスカジャン結成30周年なのだ。結成30周年を記念して、2代目ということにしたのはどうやら喰始のアイデアらしい。
開演するとまず登場したのは、ゲストの桃月庵白酒だった。まずは白酒の落語だなと思い、どうということはなく観ていると、「三十石船」をやっている最中に高座の後ろを大久保ノブオが通りすぎる。ただの落語ではなく、趣向を含んだ落語だったのだ。ポカスカジャンがこの横浜にぎわい座で定期的に開催していた「ポカスカ寄席」でも、ゲストの落語家とよくコラボをやっていた。大久保ノブオのつぎにはタマ伸也が通りすぎ、最後は一斗缶を持ったアジャ・コングが、白酒の背後にいったん立ち止まりつつ、通りすぎていく。2階席から観ていたのだが、高座がやけに横に長細いと思ったら、後ろに通り道を作るためだったのか。白酒の落語は中断され、そのまま、襲名披露口上になり、ゲストの松村邦洋、真心ブラザーズの桜井秀俊も登場し、口上に並んだ。白酒が司会を務めるが、白酒以外は誰も寄席の口上をよくわかっていない感じで進んでいく。口上のあとには真心ブラザーズの「どかーん」を全員で歌い、「どかーん」のあとになにかひとことを言う大喜利になったのだが、大喜利というよりもこれは一発芸みたいなものだ。ほかではありえないような顔ぶれのこのゲスト陣だが、ゲスト陣の登場はおおむねこれだけで終わってしまった。
昨年10月には結成30周年の前夜祭的な公演があり、その公演のこともこのブログに書いたが、豪華ゲストが代わる代わる登場したそのときとは違って、今回はポカスカジャン30年の集大成のネタを披露する会なのだ。むしろ、独演会にしてはゲストが多いのである。(松村邦洋とのコラボネタもあったのだが、松村は立川談寛の披露目に向かうために第1部だけで帰っていった。白酒ももう一度、ポカスカジャンの衣装替えの時間をつなぐために喰始と一緒に登場した。今日の公演は喰始が演出している。)
序盤の説明がつい長くなってしまったが、公演全体の7割ぐらいはポカスカジャンのステージだった。考えてみたら、ポカスカジャンがコンビになってからすぐにコロナになってしまったから、コンビのポカスカジャンをこれだけたっぷりと観るのは初めてのことだ。コンビになってからのこの7年はおそらく、トリオのネタをコンビのネタに作りなおす期間だっただろう。いや、これは簡単にやっているようでも大変な作業だ。かつての代表作には脱退した省吾が中心のネタも少なくないのだが、ひさしぶりに絵描き歌を観ることができたのは今日いちばんのアツい場面という気がした。省吾のものまねネタなんかはもちろん難しいだろうとは思うが、それ以外にも、うまく作りなおせないネタがきっといろいろあるはずだ。そういう意味ではやはり、初代の芸を2代目がどうやって引き継いでいくかということになるのか。




浅草公会堂まで、浅草芸能大賞の式典の観覧に行ってきた。この式典を観覧するのは私はたけしが大賞を獲って以来、ベネチアで金獅子賞を獲ったあとの受賞だから1998年のことだ。観覧するには台東区のホームページから申し込むだけ、1998年のときには往復ハガキを出したような気がするが、無料の公演なのである。私が申し込んだことがあるのはこの2回だけで、どちらも当選しているから簡単に当選するんだと思っていたが、じつはけっこうな倍率だったようだ。
今年の大賞は爆笑問題である。大賞のほかに、奨励賞、新人賞があり、今年の奨励賞は安達祐実、新人賞は林家つる子が受賞した。これだけ見ても受賞対象者の幅広さがわかるというものだろう。爆笑問題は3賞すべてを受賞していて、新人賞を獲ったのは1999年、たけしが大賞を獲った翌年のことだった(その年の大賞は森光子、奨励賞は片岡鶴太郎。たけしが大賞を獲った年の奨励賞はナポレオンズ、新人賞は春風亭昇太。)。この浅草芸能大賞には42年の歴史があり、初回は田谷力三が大賞を受賞している。
浅草公会堂の前に「スターの手型」が敷きつめられているのを見たことがあるひとは多いのではと思うが、この式典では「スターの手型」の顕彰式も同時に行われる。毎年5組前後の手型が新たに加えられ、爆笑問題はこちらにも選ばれた。会場に入る前にその手型が設置されているのも確認したのだが、浅草公会堂前には何年か前からスペースが足りなくなってしまい、今では公会堂前の通り沿いに設置されるようになっていて、今年の手型は通りの向かい側にあった。これは知らないと見つけられないひとも多いだろう。
式典といっても、ただ式典をやって終わるだけではなく、式典の前には「浅草名人会」という演芸会があって、これも浅草芸能大賞と同じく第42回となっている。初回からもうこの構成だったのか。式典のあとには受賞者による受賞記念公演もあり、ぜんぶで4時間を超える公演だ。
ここでこの日のプログラムを記しておこう。
第1部 浅草名人会
一龍斎貞鏡(講談)
遠峰あこ(アコーディオン漫謡)
柳家喬太郎(落語)
第2部 式典
「スターの手型」顕彰式
浅草芸能大賞授賞式
第3部 受賞記念公演
天童よしみ(歌唱)
春風亭一朝(落語)
林家つる子(落語)
安達祐実(トーク)
爆笑問題(漫才)
これだけのプログラムを無料で楽しめるのだからとんでもない公演だ。(ちなみに、1998年はたけしが漫談をやった。)
天童よしみと春風亭一朝は、爆笑問題と同じく、今年の「スターの手型」に選ばれた。ほかの2名は観世清和と野沢雅子だが、出席できず、ビデオメッセージが流された。顕彰式では爆笑問題は最後に登場したのだが、出てくるだけでなにを言い出すかわからないスリルを感じさせてくれる存在は今では太田光ぐらいだろう。それまではいたって厳かに進行していた式典が、爆笑問題の登場で一変するのである。太田が受賞スピーチのなかで、観世清和(代理のひとが出席していた。)、天童よしみ、一朝師匠を順番に触っていくと、後ろに座っていた天童よしみ、一朝師匠が、すかさず反応してみせるのはさすがだった。顕彰式のすぐあとには浅草芸能大賞の授賞式があり、大賞の爆笑問題はここでも最後に登場し、安達祐実をもちろん触ってみせる。
受賞記念公演になると、天童よしみはステージ衣装に着替えて再登場した。司会を務めていた元NHKアナウンサーの水谷彰宏が少しインタビューをして、そのあとに新曲の「旅路」を歌ってみせた。安達祐実のトークはなにかというと、これも水谷彰宏が聞き手になり、インタビュー形式で行われた。安達祐実は台東区の出身で、浅草のお祭りの思い出や、上野の科学博物館が好きなこと、それから、台東区が舞台だった「べらぼう」のことなどが話された。
最後は爆笑問題の漫才だが、WBCやオリンピックなど、最新の話題から始まり、選挙や「国宝」のネタなど、たっぷりとした持ち時間のなかで、いつになくいい漫才をやっていると思った。私は爆笑問題の漫才は2か月に一度の「タイタンシネマライブ」で観ているし、テレビで漫才をやるときもだいたい観ているが、正直に言って不出来なときが少なくなく、いつも多忙ななか、切羽詰まったスケジュールのなかでネタを作っていること、時事ネタ漫才の宿命でひとつのネタを練りあげられないことがあるからしかたがないとも思っているのだが、今日はこういう爆笑問題もあるのだと感じられた。それはどういうことかというと、素朴にウケる環境がここにはあるということだ。「タイタンライブ」はシネマライブで観ているかぎりはどうも観客が重い感じがする。おそらく、かつての談志独演会のように、知りすぎた観客たちなのだ。テレビで漫才をやる場合も、たいがいまわりにプロたちが観ているからこれも特殊な環境だろう。今日の観客はかぎりなく寄席に近いといっていいだろうか、素朴でありながら、けして能動的に笑おうということもない、そういった観客を笑わせるべきところできちんと笑わせていく。私自身はそのような素朴な観客ではないから、この環境に身を置くことがとても心地好かった。今の爆笑問題の知名度ではなかなかこの温度にはならないだろう。
(演目が気になるひともいるだろうから一応記しておくと、貞鏡は「團十郎と武助馬」、喬太郎は新作の「白日の約束」、一朝は「芝居の喧嘩」、つる子は「お菊の皿」。)





私はもう人類の話をするのがいやになってしまったから昨日と同じく動物園の話を続けたいと思うが、横浜には大きな動物園が三つあって、野毛山動物園、金沢動物園、ズーラシアというのがその三つなのだが、このうち、野毛山動物園は圧倒的に古く、1951年に開園している。75年もの歴史があることに改めて驚くが、つまり、70代までのほとんどの横浜市民は幼少期に野毛山動物園に行った思い出があるということになるんじゃないか。
今はどうだかわからないが、私の世代では、小学1年生の遠足が野毛山動物園だった。その遠足以前にも、もっと幼い頃に家族でも来園したことがあるだろうと思うのだが、私にはキリンに顔をなめられたような記憶がかすかにある。いや、その瞬間を撮った写真をのちに見たんだったか、記憶はあてにならないが、しかし、とにかく、野毛山動物園のキリンが柵の外まで首を伸ばしていたことは間違いないはずだ。もしかすると、今はその頃よりも柵を高くしてあるのだろうか。キリンは今でも野毛山動物園のスターだが、ゾウはずいぶん前からいなくなったままだし、シロクマもいない。つい最近までいたライオンもついにいなくなってしまった。昭和の大スターたちがいなくなり、その替わりに、レッサーパンダみたいなアイドルが今は主役になっているような感じがある。
野毛山動物園には私は今でも年に何度かは立ち寄るのだが、いったいいつからそうしているのか、動物園のことなんか忘れていた時期も長らくあったのだが、おとなになり、ひさしぶりに訪れたときにはもうゾウはいなくなっていたのだ。そういえば、入り口もその時代は今とは別の場所にあった。変化をあげればいくつもあるが、しかし、私が子どもの頃の雰囲気はここにはかなり残されているとも思っている。そのひとつは市電が展示されていることで、もうずいぶん老朽化してしまい、立入禁止になっているようだが、かつては市電のなかに乗ることができた。子どもというのはどうしようもないもので、せっかくの動物園なのに市電のほうに夢中になってしまったこともあった。
金沢動物園は1982年に開園し、この開園のときはよく覚えていて、開園して間もない頃に家族か親戚だかと訪れたはずなのだが、それまでは野毛山動物園しか知らないから、環境を自然に近づけた広々とした飼育スペースを見ても、これが同じ動物園なのかとあんまりぴんとこなかったのだろう。そんなはずはないのだが、私のなかでは動物がいなかったという記憶になっている。私が金沢動物園を訪れたのは、今に至るまで、そのたった一回きりである。
【追記】書き終えたあとに、野毛山動物園がリニューアルのために2027年1月から休園するというニュースを知った。
横浜の野毛山動物園、27年1月に休園 リニューアルで29年前半ごろまで

去年、あるきっかけがあって、ズーラシアの近くまで頻繁に通うようになり、そのあいだにせっかくだからズーラシアに行ってみたくなった。ズーラシアはバスに乗ればうちから30分ぐらいで着いてしまうのだが、そのわりには、それまで一度しか行ったことがなかったのである。
改めて確認してみると、ズーラシアは1999年に開園している。私はもうおとなだったから、誰かに動物園に連れてってもらうということはないし、自発的に行くしかないのだが、そのときもふとした思いつきで行ってみたくなり、はっきりと覚えているのはそれが2005年だったということだ(開園時の1999年だったら微妙だが、2005年ならばおそらくホームページを確認できただろう。)。それ以来、20年間行かずに過ごしてしまったのだが、しかし、2009年には横浜では「開国博Y150」というものが開催されていて、その会場のひとつがズーラシアに隣接した地区だった。巨大なバッタのオブジェが展示されていたことを覚えているが、ウィキペディアによると、その会場だった場所が現在は「アフリカのサバンナ」というエリアになっているようだ。
その20年ぶりに来園したときに、私はズーラシアの年間パスポートを買うことにした。なにしろ、バスに乗ればうちから30分で着くのだから、ちょっとした時間にいくらでもくることができるだろうと考えたのだが、考えただけでそれっきり、行こう行こうと思っているうちに簡単に半年が過ぎてしまった。無精者だからよくないのだが、さすがにこのままではもったいないと思い、本当はもう少し春めいてからのほうがよかったのだが、かといって、春休みになると混んでしまうだろうから、決心して、今のうちに一度行っておくことにした。
半年前は祝日だったから混んでいた。今度は空いている日がいいと思い、平日にしたのだが、平日の昼間っから大のおとなが動物園をぷらぷらしているというのもなかなか優雅なものだ。ズーラシアは正門から入っていくとすぐにゾウがいる。「アジアの熱帯林」というこのエリアには、さらに進むとマレーバクがいる、トラがいる、ライオンがいる。つぎのエリアにはたくましいゴールデンターキンが待っている。自然環境に近づけた飼育スペースは広々としていて、運がよければ近くにやってきてくれるが、遠くにいる動物を眺めるというのも雄大が感じがする。カワウソやオットセイの居場所は半分水槽になっていて、水中をすいすい泳ぎまわっているすがたが見えるそのフォルムは流麗で気持ちがいい。あるいは、いくら探してみてもどこにいるのかわからない動物もけっこういて、体調が悪くて休んでいるという看板が出ていれば親切なのだが、いるのに見つけられないのは悔しいもので、近くにいるひとが「いたいた」とか言ってるのに自分には見えない。その動物とはよっぽど縁がないと思ってあきらめるしかない。
のんびりと園内をまわっていると、すれ違うのは子ども連れかカップル、そうでなければ、ひとり客は男女ともだいたいカメラを提げていて、写真を撮ることをどうやら目的にしている。私のように、ただうちから近いから年間パスポートを買ってみましたというようなおっちょこちょいはあまりいないのだろうが、この日ももっと早い時間にくればよかったのだが、閉園1時間前だったから、広い園内のすべてをまわることはできなかった。半年前もそうだった。つぎこそはまだ見ぬエリアからまわらねばならず、それこそ、Y150の会場だった「アフリカのサバンナ」にはまだたどり着くことができないでいる。









日曜深夜に放送された「第一回お笑い芸人YMO座談会」(ニッポン放送)という番組を聴いた。出演はナイツ塙、空気階段、ヨネダ2000誠、演芸おんせん杉山という不思議なメンバーだったのだが、演芸おんせん杉山はさすがにこのメンバーに混じるだけあってマニアなところを見せていた。塙が細野晴臣に会ったことがあるというとほかのメンバーがちょっと驚くのも今さらな感じがしたが、その説明をするのに、塙はまず東京ボーイズの名前を出し、カルーア啓子の師匠だと説明する。永野の奥さんだというとみんなようやく納得したのだが、塙と細野の出会いは東京ボーイズの仲八郎のライブが最初ということになるのだろうか。この説明だとそう思えるのだが、だとすると、ちょっと意外な感じもする。2022年11月16日に北とぴあさくらホールで開催された「ナカハチ・オン・タイム」のことだと思うが、このとき、私はそれを客席で観ていた。細野晴臣、仲八郎、ナイツの座談会は塙が中心になり進行され、このときにはすでに関係性があったのではという気がしていたが、私の記憶違いなのだろうか。
手元に資料もないし、検索してもわからないから、ここからも記憶を頼りにした話にしかならないのだが、仲八郎のライブに細野晴臣はこのとき以前に2回出演しているはずだ。その2回もやはり私は客席で観ていて、2022年は座談会だったが、過去2回はバンドを入れて演奏をしている。塙さんはおそらくそのことを知らないのではないか。この座談会のときには以前に出演したのは震災のときだったという話もしていた。バンドのメンバーには高田漣なんかもいたんじゃなかったか。2回目のときにはどこからか情報を聞きつけた細野晴臣目当てらしきお客のすがたもちらほらあったが、最初に出演したときにはなぜここに細野晴臣がいるんだろうという非現実感がすごく、あの細野晴臣がアウェイで演奏していることのスリルにわくわくさせられた。このライブはエンディングになるといつも、お客さんが芸人たちへの差し入れをステージに持ってくるのだが、細野晴臣たちバンドのメンバーも差し入れを受け取っていたのが可笑しかった。
2002年にさいたまスーパーアリーナで開催された「WIRE」には細野晴臣と高橋幸宏の SKETCH SHOW が出演し、私はそこにも足を運んでいたのだが、そのときには関係者口から入っていく仲八郎を私は目撃している。あの場にいた入場待ちをしている大勢のお客のなかで、それに気がついたのはおそらく私ひとりだけだっただろう。
ラジコ15周年記念のポッドキャスト番組「太田光と15人のしゃべり手」の第2回が配信された。2回目のゲストは誰かと思えば、クリス・ペプラーだった。太田光とクリス・ペプラーというのも珍しい顔合わせだが、30年以上前に番組で会ったことはあるらしく、クリス・ペプラーは爆笑問題のライブを2、3回観たことがあるとも言っていた。爆笑問題とクリス・ペプラーはともに1988年デビューでもあり、クリス・ペプラーは J-WAVE の開局とともにパーソナリティーを務めているのだ。その経緯も詳しく語られていたのだが、そういえば、たしかにその時代にはバイリンガルブームというのがあった。山口美江が登場したのもその頃だったはずだ。
J-WAVE の少し前にFM横浜が開局したということにもクリス・ペプラーの話から改めて気がつかされたが、すると、私が子どもの頃には床屋に行くと必ずFM横浜がついていたものだが、あれはまだ開局して間もない時代だったのか。FMをあまり聴いてこなかった私はFMの歴史を意識することもまるでなかった。私は今に至るまで、いくつかの番組を除けば、なんとなくFMをつけておくようなことはなく、それよりも、FM横浜がついている床屋の風景のほうがよっぽど体験として記憶している。ラジコの登場以降、スマホの画面から見るサムネイルの視覚的イメージに慣れてしまってもいるのだが、それ以前のラジオというのは本当に音だけの世界であって、見えているものは床屋の風景でしかなかったのだ。それに、ラジコ以前のラジオというのは手軽にチャンネルを替えられるものではなく、ひたすら同じ放送局をつけっぱなしにしておくものだった。J-WAVE の番組にはいったいどうすれば出会えていたのだろうか。私はクリス・ペプラーという人物をいったいいつどこで知ったのかもうまく思い出せないでいる。
「週刊ポスト」最新号のビートたけしの連載コラムを読むと、東日本大震災から15年が経つ節目の年に当時の民主党政権が影もかたちもなくなってしまったことは象徴的だといって、結局、自民党が票を獲ったのは「老舗だから」ってだけじゃないかと語っている。
「こうなってくると大事なのは、与党と野党の対決っていうより、自民党っていう「老舗」の中でどんな動きが起こるかだよな。(略)自民党の中でバチバチ対立したり、内部分裂したりの繰り返しが、そのまま戦後ニッポンの政治の歴史そのものなんでね。自民党こそ、「党是で集まった」というより、「選挙のためにいろんな考え方の人間が集まった」という元祖みたいなもんなんだからさ。」
この「週刊ポスト」の同じ号には「孤高の高市 100人相関図」という記事も載っていて、これはなかなか便利なものだ。登場人物の多いマンガや小説みたいに、高市と高市を取り巻く100人の登場人物との関係が一枚の図になっていて、誰が高市と関係が近く、誰が関係が遠いが一目瞭然である。この記事によると、官邸には高市が信頼を置く人物として6人の名があげられている。官房長官と3人の副官房長官、その4人に加え、8人の秘書官のうち、「真の側近」とされる人物は2名だけだという。「高市総理は資料を全部自分で読み、何事も自分で決定しないと気が済まない。」という官邸関係者の証言があり、また、閣僚のなかで側近とされるのも小野田紀美と黄川田仁志のふたりしかいない。高市は自民党執行部とも緊張関係にあるという。
石破と同じく、高市には仲間がいないというのは当初からよく指摘されていることで、私は高市の支持者ではないが、派閥を作らず、長老支配からの脱却を図ろうとする高市の姿勢に関してはいいことだと思うし、そこはおそらく支持率の高さにもつながっているだろう。しかし、だったら私は石破のほうを支持するのだが、石破とまったく違うのは高市は人気がある。女性初の総理だから、図式がはっきりしている。少数与党であるかぎりは高市政権は恐れるほどのものだろうかと考えていたのだが、状況はまるっきり変わってしまった。(それに関しては、批判者たちが盛りあげたせいだと私は考えている。)
私は経済に疎いからわからないことが多いのだが、この相関図には「経済ブレーン四銃士」というのがいて、これは名前をあげておくと、会田卓司、片岡剛士、永濱利廣、若田部昌澄という4名である。さらにもうひとり、特別なブレーンとして、トヨタ自動車会長の豊田章男の名があげられ、そのほか、宗教家の川井徳子、ポリラボ代表の織田匠吾、「高市スマイル」を指南した国際パフォーマンス研究所代表の佐藤綾子といった隠れた重要な人脈、ついでに、維新の石井苗子がほうれい線改善グッズを高市に提供したこともこの相関図からは知ることができる。
「週刊プレイボーイ」最新号には「“群れない”高市首相の足元でなぜか自民党「派閥大復活」」という記事もあり、これも自民党内部の現状を知るには面白い記事だった。この記事では、衆院選大勝後に旧派閥グループが相次いで会合を開いていた、その日付、その顔ぶれ、どこのどんな店かまでがつらつらと書き並べられ、派閥回帰の動きが示されている。復活しつつある派閥は3種の類型に分けられ、ひとつは高市を応援しようというもの、ひとつはアンチ高市、もうひとつはその中間組で、状況に応じて支持にもアンチにもなる。この記事では、麻生派、旧岸田派、茂木グループはこの中間組に分類されている。
小田急線の向ヶ丘遊園まで、多摩市民館大ホールで開催された「川崎市民族芸能発表会」を観に行ってきた。朝10時から始まり、15時10分終了を予定されている5時間を超える公演を、結論からいえば、私は飽きることなく最初から最後まで楽しんだ。終演時刻はたしか10分ぐらい延びたと思う。この長丁場だから、途中でご飯でも食べに行こうかと、近所の飲食店を事前に調べたりもしていたのだが、結果的に一度も抜けることなく(トイレに行って数分抜けたりはしたのだが)、5時間を超える公演をずっと観ていた。900人を収容するホールの客席はがらがらだった。会場が盛りあがっていたわけではなく、単純に私の興味が尽きなかったのである。
まずはこの日のプログラムを記しておこう。
式典
寿・高砂・三重(五反田節保存会)
和太鼓演奏(長尾子供太鼓) ※招待団体
居囃子(諏訪神社祭囃子保存会)
登戸田植え唄(登戸古民謡保存会)
子ども・大人囃子(宿河原囃子保存会)
恵比寿の鯛釣り(大戸神社祭囃子保存会)
大師めでたや(大師古民謡保存会)
菅の獅子舞(菅獅子舞保存会)
獅子舞・おかめ・ひょっとこ・足踊り(栗谷囃子保存会) ※招待団体
寿獅子・曲持(新城郷土芸能囃子曲持保存会)
最後の新城の囃子曲持だけは以前に観たことがあって、これをもう一度観たかったというのが、今日、ここへやってきた最大の動機といってもいいくらいである。重い米俵を持ちあげてみせる力自慢の芸なのだが、その米俵を寄席の曲芸のように、枡や脚立の上に乗せてバランスをとったり、放り投げたりする。もっとも可笑しいのは、寝そべった人間の腹の上に重い米俵を積み重ね、さらにその上で餅つきをするという芸だ。いや、笑っていいのかどうか、私は初めて観たときに、かつてたけし軍団が「ガンバルマン」でやっていたようなむちゃくちゃさに爆笑してしまったのだが、たけし軍団や電撃ネットワークのような我慢強さを見せる芸(リアクション芸ではない)というのか、そういった芸能はやはり古来からあったのだろうと感じられて嬉しくなった。
招待団体の栗谷囃子保存会は、獅子舞のあとにおかめとひょっとこが登場するのだが、おとなのおかめとひょっとこと一緒にちびっ子のひょっとこも出てきたのがまず可笑しい。幼稚園児の男の子だったようだが、この子がまた思いきりよく踊るのだ。それだけでなく、おとなのひょっとこをよく見ると、胸に赤ちゃんを抱っこしている。最初、人形かと思ったら、本当の赤ちゃんだ。このおかめとひょっとこのファミリーが客席に降りてきて、ぐるっと一周して舞台に戻っていく。そのあいだ、(いい動画が撮れなかったが)赤ちゃんも手足をばたばたさせ、機嫌よく踊っていた様子が楽しかった。4人は本当の一家かと思ったが、あとで面をとったらひょっとこも女性だった。
さらに、このあとには足踊りという芸があって、これも演じ手は女性だったが、仰向けに寝そべり、両足につけたおかめとひょっとこの人形を操ってみせる。どういう仕掛けになっているのか、人形には手もついていて、細やかなしぐさも表現される。(残念ながら、私の席からは写真も動画も上手く撮れなかった。)
恵比寿の鯛釣りというのもとても面白く、恵比寿様を中心に、ひょっとこ、もどきというふたりの道化が出てくる(正直に言うと、私はこの「もどき」というのがまだよくわからない。)。このトリオはコントの原点を観るようだった。
菅の獅子舞はビジュアルにまず迫力があるのだが、その獅子舞が3匹登場し、天狗と一緒にダイナミックに踊ってみせる。獅子を演じていたひとりは中学生の男の子だった。民族芸能では、高齢化、後継者不足の問題を抱えた団体も少なくないのだろうが、今回、特に魅力に感じた団体はいずれも若い、少なくとも中年未満の演じ手たちだったのではないか。若い演じ手たちによって活き活きと演じられてこそ、その芸能の本来のすがただったのではと想像させられる。



















