それから歌ネタ問題にも触れておきたいのだが、今回でいえば、めぞんとヨネダ2000 である。2組とも準決勝と同じネタだったのだが、私が準決勝を観た率直な感想はどちらも爆発的に面白く、確実にファイナリストに残ると思った。ところが、例年の傾向だが、決勝になると歌ネタには点が辛くなるのだ。ここにははっきりと、予選の審査と決勝の審査に齟齬がある。

これはおそらく関西の劇場のことだと思うが、オール巨人の著書には、自分たちの時代には暗黙のルールがあったといって、そのうちのひとつに「歌ネタをするな」というものがあったことが書かれている。これはなぜかというと、音楽ショウの芸人に対する配慮なのだ。歌ネタは音楽ショウの芸人がやるから、漫才師がやるべきではないということである。だから、歌ネタに対する評価の低さはどうも後付けの理由ではないかという疑問があるのだが、芸人審査になると、やるべきではないというその意識だけは残っているということではないだろうか。同様に、オール巨人の著書には「個人名を出すな」「コマーシャルを使うな」「下ネタをするな」ということも書かれていた。安易であることもよく理由にされるが、これらもおそらく配慮の問題に集約できるだろう。歌ネタは共演者への配慮だが、これらは観客への配慮ということになる。


最後に敗者復活戦のことだが、ミキの漫才が圧倒的に素晴らしかったことは記しておかざるをえない。いや、心情的にはカナメストーンには勝ってほしかったし、その流れになったときには嬉しかったのだが、それだけに、ミキの会心の漫才には悩ましい思いになった。

この2組はどちらも準決勝とは違うネタだったが、どちらも準決勝ではそこまで突き抜けるような出来だとは思わなかった。敗者復活戦のネタを準決勝で出していればストレートに勝ちあがれたかもしれないと思いたくなるが、ほんのわずかな差で明暗がわかれていることは間違いないだろう。しかも、ミキが敗者復活戦で披露したネタは、去年は準々決勝でやっていて、落とされているのだ。私はその動画も観ているが、まったく申し分のない出来なのになぜ落とされたのかと思っていた。(だから、放送作家たちによる予選の審査というものはいちばん信用ができない。)

逆に、準決勝ではとてもよかったのにネタを変えてしまったケースもあって、私にとっては、豆鉄砲と今夜も星が綺麗がそうだった。負けたネタでまた勝負するというのも勇気がいるとは思うが、惜しい結果だった。


「M-1」準決勝ライブビューイング


「M-1グランプリ」の雑感の続きだが、1本目の得点を見てみると、エバースの870点は過去の「M-1」のなかでも屈指の高得点で、9人の審査員全員が95点以上をつけている。たくろうの861点も高得点だが、3位のドンデコルテは845点、4位の真空ジェシカは844点、5位のヤーレンズは843点と、ここはわずかな差でしかなかった。6位の豪快キャプテンも839点で、3位から6位までが6点差のなかでひしめき合っていたのだ。この4組はちょっとした流れの違い、順番や、あるいはネタの選択により、おそらく容易に入れ替わっていただろう。


10月に放送された「NHK新人お笑い大賞」では、豪快キャプテンがすごく面白かったから私は豪快キャプテンにかなり期待していた。「ナイツ ザ・ラジオショー」(ニッポン放送)を聴いていたら塙も豪快キャプテンがNHKでやっていたネタが面白かったと言っていて、NHKの司会はフットボールアワーだったのだが、後藤もやはり同じことを言っていたようである。もしかしたら2本目に温存していたのか、それとも、NHKで負けたネタだからやめたのだろうか。しかし、「M-1」決勝の1本目は準決勝のネタとも違っていた。去年のバッテリィズのようになるポテンシャルを秘めているのは豪快キャプテンだと思っていたから、もしNHKのネタを出していたら、あるいは、もしもう少し早い出番だったらということはどうしても考えざるをえない。


真空ジェシカとヤーレンズに関しては、談志師匠的な言いかたをすれば、もう出なくてもいいひとたちだとも言えるし、私は出てほしいとは思っているが、むしろ、ファイナリストに残れなくなったときに傷がつくリスクのほうを心配してしまう。しかし、私はエバース町田の得体の知れなさが好きだったと書いたが、真空ジェシカ川北はおそらくこれからもずっと得体の知れないままだし、ヤーレンズ楢原も別の意味でつかめないひとである。その点ではとても頑強なところのある2組だ。

漫才において、「ニン」の問題というのがあるのだが、これは単に人柄を知られればいいということでもなく、人柄が知られることで損をするケースもあるし、どういう人間かわからないという「ニン」があってもいい。ことに、この賞レースの時代においては、なおかつ、SNSの時代においては、正体をつかませないことが息を長くするということはないだろうか。その意味では、ヨネダ2000 もまったくそのタイプだろう。


「M-1」準決勝ライブビューイング


雑感「NHK新人お笑い大賞」


今年も「M-1グランプリ」を一日中観ていた。最終決戦には、エバース、たくろう、ドンデコルテという3組が勝ち残り、たくろうが優勝した。

私が初めてたくろうを知ったのは、おそらく、関東在住の多くのお笑いファンがそうではないかと思うが、2018年の「M-1」の敗者復活戦で、このときにかなり面白かった記憶はあるのだが、その後、「M-1」の戦績はふるわず、準決勝にあがることはなかった。正直にいって、私の興味からは消えていた存在だったが、ウィキペディアを見ると去年は「NHK上方漫才コンテスト」で準優勝している。そろそろ勝ちあがってくるという機運はもしかしたら関西のほうではあったのかもしれない。私は準決勝のライブビューイングも観ているが、そのときにも特に惹かれるところはなく、ファイナリストに残るという予想もできなかった。芸風も過去の印象とあまり変わらなかったから(こういうものは見比べてみればはっきりとわかるのかもしれないが)、これほどまでに「M-1」の場にハマるとは思いもよらなかった。最終決戦では、会場の笑いの量が他を圧しているのがはっきりとわかった。


惜しかったのはエバースだ。エバースに関しては私はかなり好きで、去年6月に横浜開港祭のお笑いライブを観たときに、その時点ではまだエバースの知名度は低かったが、無料の屋外ステージにも関わらず、営業ネタめいたこともせず、シンプルにただ漫才をやって笑いをとっていたからこれは大変な力量だと思った。その後の活躍は多くのひとが知るところだが、むしろ、去年から今年にかけての露出の多さが仇になるのではと心配していた。ところが、今年のネタを観てみると、2本とも町田のキャラクターをより活かしたネタになっていると感じ、これはもしかすると露出の多さをプラスに転じることに成功しているかもしれない。近年は錦鯉、かつてはアンタッチャブルが思い出されるが、インパクトを残した翌年の再挑戦で優勝するというケースがあり、エバースもそうなるのではと期待させられたが、1本目であれだけの高得点を出しながら、最終決戦では1票も獲得できなかった。ここで優勝を逃したら、来年以降はいよいよきびしい戦いになることは目に見えている。私は町田の得体の知れなさが好きでもあったから、2本目の腹話術のネタは準決勝でも観たときに、町田のキャラクターを踏まえたようなこのネタにはちょっと複雑な気にもなったのだ。


さて、ドンデコルテだが、ドンデコルテは去年の準決勝で観たときに私はファイナリストに予想していた。去年はだめで今年は勝ち残るんだというその理由はわからないし、時の運でしかないのかもしれない。違いがあるとすれば、今年のほうが社会的なネタになっているという点だが、予選の審査員たちがそんなことを評価するとは思えない。社会的なネタは良くも悪くもテレビで放送されたほうが反応が強いから、2本披露され、あの面白さが知れ渡ったことはとてもよかったと思う。


「M-1」準決勝ライブビューイング


少し前の話になるが、先月放送された「すっかりにちようチャップリン」(テレビ東京)が大阪・関西万博にちなみ、グローバル芸人を集めた特集をしていた。出演者は、マテンロウ、デニス、ドンココ、チャパティ、アリ、センチネルという6組。外国にルーツがある芸人と説明すればいいだろうか、日本人と外国人のコンビならばパックンマックンがその先駆者だろうが、今はハーフの芸人がかなり増えている。彼らは外国人の風貌をネタにするが、日本に育ち、日本語しか話せない日本人であるというケースも多くなっている。

この回で面白かったのは、漫才4組に関してはもう正統派のしゃべくり漫才に近づいている。これだけ集まってしまえば、外国人ネタはかぶるから避ける、あるいはやる必要がないということになるか。つまり、ここでは複雑な問題に踏み込む余裕はないが、面白いフェーズに入っているというようなことを思った。

ノンスタイル石田が去年出した「答え合わせ」(マガジンハウス新書)という本を読むと、「漫才か、漫才じゃないか」という漫才論に一章が割かれている。2020年のマヂカルラブリーに端を発した論争が記憶に新しいが、石田は漫才の基本を「偶然の立ち話」と考える。石田は漫才の研究者というわけではないから、あくまでも実演者としての実感から定義づけているのだが、「ボールを息で吹いて浮き上がらせるパイプ型のおもちゃがありますよね? 漫才の掛け合いは、いってみれば、あのボールをずっと落とさないで互いにパスし続けるようなものです。」というような説明はいかにも身体感覚に基づいたものだ。

石田はそもそも漫才とコントの違いがわかっていないひとが多いのではないかと考え、漫才とコントの線引きはプロのあいだでもさまざまだとしつつ、石田は「漫才」「漫才コント」「コント漫才」という3種に分類することを試みている。「漫才」はひとことで言えば「しゃべくり」。「偶然の立ち話」という漫才の基本に忠実なスタイルを指している。「漫才コント」と「コント漫才」はともにコントの手法を取り入れた漫才のことだが、「漫才コント」は「設定の中の役柄と素の自分を行き来する」もの、「コント漫才」は「設定の中の役を演じ切る」ものと区別している。「コント漫才」の代表格にはサンドウィッチマンをあげているのだが、和牛も「コント漫才」だが、漫才師としてのスキルがばつぐんに高いから観ているひとに「これは漫才だ」と思わせてしまうという説明をしている。


私は和牛の漫才を観たときに、落語と同じようなことをやっていると思ったことがある。要するに、マクラをふって、噺に入る。それと同じことをしている。石田の分類に倣えば、落語は「コント漫談」とでもいうようなものだが、落語とひとりコントはなにが違うのかといえば、話芸と芝居の違いがある。和牛の漫才がなぜ「コント」ではなく「漫才」に感じられるのかといえば、芝居ではなく、話芸で演じているからだろう。しかし、落語家も近年は芝居のテクニックを取り入れているひとがほとんどだし、そこに線を引くことは難しい。


石田の本は実演者としての実感で語られている部分がとても面白く、今のお笑いシーンはどのフェーズにあるかといったような話や、令和ロマンくるまと話したというマイクの使いかた、あるいは、声量のタイプによって適したツッコミがあるということなど、この本には実践的なこともかなり書かれている。

今年の「NHK紅白歌合戦」の審査員が発表され、小田凱人、高石あかり、仲野太賀、野沢雅子、松嶋菜々子、三浦知良、三宅香帆という7人が選ばれた。高石あかりと仲野太賀は朝ドラと大河の主演だが、松嶋菜々子は「あんぱん」の好演が評価されたのだろうか。野沢雅子はなぜだろうと思ったら、今年、文化功労者に選ばれていたのだ。


いや、しかし、それよりも驚いたのは三宅香帆だ。過去に紅白の審査員をやった文芸評論家はいるのだろうかと、過去の審査員がまとまっているサイトがあったのだが、それを見てみると、芥川賞や直木賞の作家や、あるいは漫画家、それこそ、(朝ドラと大河の)脚本家が審査員をやることはあるのだが、文芸評論家の名前は(私の知らない名前もあるかもしれないが)ちょっと見つけられなかった。審査なのに評論なしで今までやってきたのかという事実にも気がつくことになるが、審査員の席には「今年の顔」的な人物が並ぶ意味合いが強いから、そうなると、ベストセラーの著者がここに選ばれるというパターンはちらほらある。2010年の岩崎夏海、2009年の勝間和代、2006年のリリー・フランキー、1999年の乙武洋匡なんかはそうだろう。


それにしても、三宅香帆の快進撃が前代未聞のものであることは間違いなく、本が売れていることがまずすごいのは言うまでもないが、私のような芸能が好きな人間からすると三宅香帆のトークにはなかなかびっくりされられるところがある。「あちこちオードリー」に出たときに若林が感心していたのもまさに「よくそんなしゃべれるよね」ということだった。

10月に放送された「三宅香帆のオールナイトニッポン0」を聴いていたら「体育会系グセが出てしまいました」とちらっと言っていたのが気になったが、あとでわかったのは、三宅香帆は合唱部にいたことがあって、そこでは、朝練、昼練があり、走り込み、腹筋、背筋をする、ほぼ体育会系の部活だったようだ。やっぱり、これだけしゃべれるひとはただの文化系ではない。三宅香帆にはラジオを2時間、軽快に、快活にしゃべれるだけの話術と体力がある。それが文体にも反映されていると思うのだが、こういうことは文化系の人間にはなかなか理解が及ばないことかもしれない。(呆れるぐらい容姿のことしか問題にしない人間というのが世の中にはいて、さすがに鈍臭すぎるからいっぺん外に出て走ってきたほうがいいと思う。)



神奈川県立音楽堂にて開催された矢野顕子のリサイタルに行ってきた。このブログに書いてあるとおり、今月に入ってからやけに高額のライブに連続して行くことになってしまったが、今日は自腹ではなく、行けなくなったひとがいるというので誘ってもらった。大変ありがたいことである。

私は矢野顕子のライブは初体験。生で観ることがあるひとだとは思ってもみなかった。今日の出演者はたったひとり、ピアノ弾き語りというライブなのだが、この神奈川県立音楽堂では過去にアルバムをレコーディングしたことがあるというファンにとっては特別な意味をもつ会場でもあるのか。私は矢野顕子の熱心なリスナーというわけではないから知らない曲も多いのだが、1曲目に歌われたのは「BAKABON」だった。先週、「赤塚不二夫祭」に行ってきたばかりだったので、この偶然にはおおっと嬉しくなった。矢野顕子も赤塚不二夫生誕90周年が意識のどこかにあっただろうか。その後、「ホーホケキョとなりの山田くん」の曲を歌ったのだと思うが、矢野顕子は映画のタイトルを覚えていなくて、客席に訊いて教わっていた。このやりとりが暖かくておおらかだ。朝ドラの話にもなり、今の朝ドラは観ていないそうだが、前の朝ドラはなんだったっけといって、これも客席から教わる。その「あんぱん」に関係する歌を歌うのかと思ったら、歌い始めたのは「潮騒のメモリー」だった。矢野顕子の歌唱法にかかると、クドカンのふざけた歌詞がよりいっそう可笑しく聴こえるというのは発見だった。つまり、歌詞の可笑しさがきちんと伝わってくる。これは意外と難しいことで、矢野顕子の曲でも糸井重里の作詞したものなどにはやはり可笑しい歌詞のものがあると思うが、可笑しさを表現できる稀有な歌手だと再認識する。本当の歌の上手さってこういうことだと思うんだけどな。

1時間半強、こじんまりしたサイズのライブではあるのだが、体感時間はさらにあっという間という感じがした。魔法のような時間だ。「いい日旅立ち」のカバーなんかも面白かったが、アンコールは炭水化物メドレーといって、「ごはんができたよ」と「ラーメンたべたい」を歌った。最後はスタンディングオベーション。踊るようにソデに消えていく矢野顕子がかわいらしかった。

「情熱大陸」が2夜連続で Vaundy の特集をしていて、私は特別に Vaundy の音楽のファンというわけではないのだが、この番組はとても興味深く観ることができた。菅田将暉と対談するなかで、Vaundy は俳優はシンガーと似ているという。「僕のシンガーの定義って、クソみたいな曲でもかっこよく聴かせちゃうひとだと思うんですよ、やっぱ。誰が歌っても変だったんだけど、このひとが歌うと説得力がある、っていうのはなんか俳優さんとも似てるなあと思ってて。脚本がちょっと変でも、上手いひとがやると本当のことなんだって思っちゃうじゃないですか。なんかそういう説得力は、プロから学ばないと、どっちにしろだめだなって思って、うん、ベテランと仕事しようっていう。」

この発言からは、ソングライターでありながら、Vaundy のなかにはシンガーとしての自分が強く在ることが窺い知れる。そして、歌にせよ、演技にせよ、プロやベテランの技術に対する信頼がどうやらあるように感じられる。(「技術」は「芸」と言い替えてもよさそうだ。)


「情熱大陸」の1夜目と同日に放送された「日曜日の初耳学」でも Vaundy が特集され、林修にインタビューされていたのだが、ここでは Vaundy は脳内に別人格の自分がいるという話をしていた。「曲を作る Vaundy」「歌う Vaundy」「しゃべる Vaundy」という3人格による共同作業というイメージなのである。(「楽器を弾く Vaundy」がここにはいないのだが、おそらく「歌う Vaundy」に含めてもいいのではないか。)

あるいは、Vaundy はジャケットのイラストも手掛けているのだが、それについて、あたまのなかで良い絵を描くことはできても、それを仕事にするひととしないひとの違いはアウトプットできるかどうかだということを話していた。Vaundy は、あたまのなかの絵を実際に描くには、たいがいは指がついてこないという言いかたをする。それをアウトプットするには、指を増やすというイメージ。逆に、指を増やす(技術を身につける)から想像ができるということでもあって、ギターが弾けないとギターのフレーズは思いつかない、歌が上手くないと新しいメロディーは生まれない、だから手数を増やす、もしくは、手を使えるひとと作るという話だった。

この番組では、山下達郎からの肉声のコメントも流され、なんでも、竹内まりやと夫婦で Vaundy のライブに行っているんだそうだ。山下達郎は Vaundy に、もしステージを一緒にやるのだったらめちゃくちゃ上手いひととやるべきだというアドバイスをする。この部分はまさに Vaundy 本人の考えともあらかじめ一致していたということになる。山下達郎は Vaundy の作品を「バンド向きじゃない」と断じながら、「聴いてみると非常に人力重視」という評価もしていた。

「誰も知らない明石家さんま」(日本テレビ)という特番は、毎回、さんまの人生をドラマ化するのが恒例になっている。今回はさんまと坂本九の関わりをドラマにして、さんまを山田裕貴が、坂本九を山本耕史が演じた。

墜落した日航機にさんまが乗るはずだったというのはよく知られる話で、そのエピソードをドラマ化するのだとしたら悪趣味ではないかとも思ったのだが、さんまと坂本九の関わりはそれだけではなく、さまざまな偶然からふたりの共通項を見つけ出していこうとするドラマになっていた。

たとえば、若い頃、さんまと坂本九は同じ弓道場に通っていて、その道場に「坂本九」「笑福亭さんま」の名が並んで書かれた成績表が今でも残されていたことには驚かされる。つまり、ふたりは同時期に同じような成績を残していたわけで、しかも、これを書いていた道場主はこのあとに体調を崩し、そのため、貼り替えられずにこの成績表が残されていたというのだ。このような偶然の重なりはとても面白い。あるいは、坂本九は2歳のころに母に抱かれ、疎開のために乗った汽車が大事故を起こし、命拾いするという経験をしていた。さんまが日航機に乗らずに命拾いしたことをその経験に重ね、ふたりの人物像とその姿勢に共通するものをこのドラマでは読みとっている。

さんまが坂本九と初めて共演したのは、坂本九が司会の「スター千一夜」だった。その翌年、さんまは自身初の冠番組のなかで、「お色気スター千一夜」というコーナーを始めていた。坂本九は「スター千一夜」が終わり、「スター誕生!」の三代目司会者になるのだが、この時代の坂本九が、歌ではなく、司会を評価されることに複雑な心境でいたこともこのドラマではちらっと描かれていた。


私の年齢では坂本九はテレビによく出ているひとだったという印象があって、名曲の数々ももちろん知ってはいたが、もし事故がなければ、おそらくその後もテレビタレントとして長く活躍していたのではないかという気がしている。「なるほど!ザ・ワールド」に解答者としてよく出ていたことを覚えているが、そういえば、さんまも「なるほど!ザ・ワールド」には解答者として出ていた(工藤夕貴とペアだった。)。一緒に出演した回ももしかしたらあったのだろうか。ウィキペディアを見ると、この番組が「スター千一夜」の流れを汲む番組であることがわかり、これもわずかながら奇縁に感じられるということになるか。


テレビのなかの坂本九


「志の輔ラジオ 落語DEデート」(文化放送)のゲストがプリンセス天功だったのだが、今年9月に天功が「爆笑問題の日曜サンデー」にゲスト出演したときに談志について話していたことが気になっていた私は、志の輔とどんな話をするのかを興味をもって聴いた。志の輔と天功がこうやって話をするのは初めてのようだ。


初代引田天功と談志が仲良くしていたため、天功は12歳ぐらいのときに談志と会っているという。天功はキッズモデルとして初代の事務所に所属し、のちは森繫久彌劇団に入る予定だったのだが、初代が心筋梗塞で倒れ、その代役にステージに立つことがあった。それが、13、14、15歳ぐらいのときだというのだが、19歳と偽っていた。(このあたりのむちゃくちゃな事情は「週刊さんまとマツコ」で特集されたときにも話していた。)

二代目を襲名することになる天功は初代の弟子にいじめられ、それを知っていた談志が天功を応援してくれていたというのは「日曜サンデー」でも話していたとおりだ。しゅんとしていた天功を談志は慰めてくれた。「どこに行っても「イリュージョン!」って必ず言ってやるからって。「イリュージョン!」って言ったら私のことを言ってるんだと思って、がんばれって。言ってあげるよっていうふうに言って。」

それを聴いた志の輔は「はあ…、そこからきたんだ。」というリアクションだった。志の輔が「最後ですね、私の師匠立川談志は結局最後、「落語はイリュージョンだ」って言ったんですよ。」と言うと、天功は「へええっ!?」と驚いた声を出す。「そうなんですか? いやあ…、涙が出てきます。」

志の輔「なんにもない、扇子と手拭いしかもってない、座布団の上に正座してる、そこでしゃべり始めると後ろに長屋が見えてきたり、殿様が出たり、お百姓さんが出たり、かご屋が出てきたり、こんなものをイリュージョンとしか考えらんねえじゃねえか、あんたたちは最後まで、30分、1時間、俺の落語に付き合うんだから、俺の落語というより、落語ってのはイリュージョンなんだよって。また弟子があたま抱えて、なんなんだそれはっていう。(笑)」

志の輔のこのイリュージョンの解釈も私は初めて聴くものだったが、談志がそのように言っていたということなんだろうか。なんだかいろいろと、談志の落語論を揺るがされるような話だ。


そのほか、天功の常人離れしたエピソードがあいかわらず面白いのだが、天功がご飯を食べないと言い始めたのには驚かされた。なにか設定上の話なのかと思ったら、どうやら本当に食べないらしい。公演中に急に胃痙攣などを起こさないようにということらしいのだが、替わりにキャラメルのような高カロリーのタブレットを食べているのだそうで、忍者のゴマみたいなものだと説明していた。

天功は最後にマイケル・ジャクソンと仲がよかったという話もしたのだが、志の輔はマイケル・ジャクソンの話にいちばん大きなリアクションをしてみせた。


談志のイリュージョン