Aloha!
連日、ハワイとは関係なくこのブログに書き続けている。
中には次は?と期待してくれている方もいるようだ。
あくまでも自分がお袋に対しての思い出の掘り返し。
完全に自己満足なので、サラッと読み流してほしい。
これまでお袋は東京の新宿出身の都会っ子だということは話した。
親父の仕事の都合とは言え、横浜(と言っても正確には保土ヶ谷。カミさんは未だ横浜とは認めていない)から多摩川を越え、荒川を越え、埼玉へ。
そして数年後、今度は利根川を越え茨城。
子供たちは、転校こそ嫌だったが、転居ごとに部屋数が増えていき、茨城に引っ越した時には各自、自分の部屋があり、社宅から夢のマイホームであったのでうれしい限りであったが、お袋は川を越えて北上を続ける我が家をまさに
都落ちと思っていたに違いない。
横浜にいたころは、交通の便もさほど不便を感じなかった。
埼玉にきてまず驚いたのが、
バスである。
バス停で親子で待っていると程なくしてバスが来る。
さぁいざ乗ろうとしてもドアが開かない。
???
ドアの向こうの運転手は後方を指さす。
そう、後ろ乗車を知らなった。
そして、整理券をとるというシステムも。
カルチャーショックだ。
お袋は当然、バスは前から乗るもの。運賃は先に払うもの。どんなに乗っても一定料金なもの。と思っていたのだ。
だから駅までの道すがら、前方の料金表示がどんどん変わっていくのを家族で妙に緊張しながら凝視したことを覚えている。
そして、役所に用事があって近所の人に
「役所は何処にありますか?」と尋ねると、
『役場なら向こうだべ』と。
や・く・ば
行きたいのはや・く・しょ
役場って何?
カルチャーショックだ。
そう、町に住んでいても、お袋は新宿区の左門町、横浜市保土ヶ谷区の瀬戸ヶ谷町
であって、南埼玉郡菖蒲町なんていう町制のところはお初なんである。
お袋は必要に駆られて、埼玉で原付の免許を取得、程なく車の免許もとってしまった。
50㏄のバイクの後ろに子乗せを付けて小学校に遅れそうな時など颯爽と送ってくれた。
今で考えるととても恐ろしい。
そしてとうとう利根川を越え茨城に転居。
お袋はこのころから、いずれは東京に戻るとつぶやき出した。
バスに乗らないと電車乗れない。という生活は埼玉で慣れているはず。
なのになぜ?
私は中学生は男子は全員坊主頭。女子はおかっぱ。という校則に驚いた。
単純に「田舎に来ちゃった」とかんじた。
日曜日に私服を着ている奴をほとんど見なかった。
学生服はあってもみんな学校指定のジャージで1年の大半を過ごす。
町に中学校は1つしかないため、生徒は全員ヘルメットをかぶって自転車通学。
朝の通学風景はまさに日本でなくベトナムや中国のよう。
そして中学校は戦後まもなくであろう、テラス式の校舎
そういえば聞こえはいいが、いわゆる廊下がない学校なのである。2階の教室はベランダのようなところで行き来し、1階はもちろん屋根のないコンクリートの上を行き来。
窓は全部木枠。そこに坊主頭とおかっぱが上着は学生服、下はジャージというスタイルでうじゃうじゃといるのである。
ここ茨城では
まだ戦争は終わっていなかった。
白黒写真で授業風景とか撮ったら
まだ、アメリカ人とか見たら
ぎぶみぃちょっこれぇいとおぉとか
叫ぶんじゃないかと・・・
お袋共々
カルチャーショックだ。
だから保護者会などになると大変だ。
そう、お袋はそれなりに身なりを整えスーツやワンピースをきて、メガネは今でいう野村沙知代のような大ぶりのメガネだった。
周りの父兄はというと、畑作業の合間に来たかのように割烹着姿の保護者が沢山いた。割烹着以外はほとんどが普段着だった。
お袋は浮きまくりだった。
しかしお袋はやめなかった。
たぶん、お袋の意地だった。
「ここ茨城で持ち家に住み始めたが、私はここで終わらない。」
たぶんそんな気持ちだったと思う。
そんなお袋が好きだった。
俺も高校をでたらここを出ようと決めた。
お袋と思いは同じつもりだった。
Mahalo nui!