前章"母とのやり直し"の「②家業を作って行く」、前々章の"私の人生 その3 ~自営業者(フリーター)として独立、母とのやり直し~"より「㉗ 多職フリーターとしての自営業者生活のスタート」について、少々補足をば、、。

 

…という訳で、「フリーランス・ライター」の傍ら、副業として始めた、叔父の住んでいる祖母の建てた一軒家の空き部屋を、賃貸(シェアハウス)で貸し出す、ということを

 

私が、このような人生の経緯を経て、自分が「気持ち悪い」「醜い」「下品だ」と感じていた、「母」という人間と、「仲直り」というか、(それでも、母親以外には求めることが不可能な「育て直し」の行為もあるので)「関係改善」を試みることになった訳だが、ここでは、私の取った方法をご紹介したい。

 

大きく分けて3つある。

 

①海外旅行

…2人だけの時間を作る、「汽車の移動」や「宿の予約」、「外国語での買い物」といった非日常かつ実践的な生活を、ある意味の「密室関係」でやることによって、「日常」の行為で、2人の連帯感を増していく、あるいはお互いの行動や考え方の癖を知る、というのが目的であった。

 

②家業を作って行く

…①の「旅行」という、イベンタルな行為に限定されず、日本にいる時も、常時収支(=共通の利害)の感覚を持つ、ということ。

このために、重要なキーパーソンとなる人物が、私の叔父だ。

彼については、また後述するが、私の叔父(母の義弟)について端的に説明すると、彼は、軽度障碍者で、生活支援を必要とする。

ただ、その支援は、家族が行う必要がある。

なぜなら、彼の障碍が軽度過ぎるため、国家の福祉の網に引っ掛かりにくく、完全福祉施設に入れることは不可能だからだ。

 

家族のケアを必須としながら、叔父の「普通の生活」は成り立つ。

この「ケア」の部分を、母と私の二人で、密接に(=二人三脚状態で)相談しながら行うことで、(本来ならば、家族が原型としてそうあるべき)「運命共同体」の一員であり、お互いがお互いにフェイタルでありエッセンシャルである、という感覚を育む。

もちろん、母に「母性本能」というか、普通の人間として「子を可愛がる」という能力があればこんなことは、私が30歳を過ぎてからする必要が無いのだが、母の場合は、先天的か後天的かは不明だが、「子を世話する」という能力が皆無で、普通の「子育て」だけの状態だと、まぁいわゆる「ネグレクト」しかできなかったため、このように「共通の敵」ではないが、「共通の必須タスク」を持つことで、ある種の「同僚」のような関係性を築いて行くことにしたのである。

 

③ひたすら、我儘を言い、甘える@日本

…文字通り。

ウチの「ネグレクト母」は、全く悪意はないが、「子どもを可愛がる」という方法を知らず、歯磨きや、マッサージ、子どもの忘れ物の心配や、「朝起こす」という行為すら、人生で一度もしたことが無かったため(そして私は、それらを必要としていたし、それが無いことを不思議に思っていて、なおかつ不満に長いこと思って来た)、そういったことを「する必要があるのだ」「(私という)子には、そういった世話が必要なのである」ということをしつこく伝え、自発的に行動できるようにすることであった。

 

このポイントも、結構大事で、小さい頃、親に甘えられなかった女の子は、大人になって、彼氏など、「男」に甘える、というチョイスが出て来るが、それは必ず「性愛関係」を伴う。

だから、「性愛」の介入する余地の無い、同性同士の「親子」でそれをすることは、ある程度意味がある、という風に私は考えている。

 

①、②に関しては、金銭的な問題もあるし、何より家庭の事情(そういった、「共通の利害となるもの」がその親子にあるか)によって変わる可能性があるが、この③に関しては、かなり普遍的に、親が生きていれば、再体験・追体験できる可能性が誰にでもある訳で、かなり①~③の中では、再現性の高い行為であるかと思う。

 

簡単に言うと、以上の3つが、私の「母とのやり直し」の行為を構成する要素であったと思うが、次章では、ここに至るまでにどういった私の心の反動というか、捻じれがあったか、ということについて、少し前の段階(=離婚時くらい)まで遡って、書いてみたいと思う。

 

逆に親に「躾」し、「親育(おやいく=親として、子が自身の肉親を育て直すこと)」を

 

 

前回"私の人生 その3 ~フリーター生活、母とのやり直し~"、の中で、下記のように書いた。

 

A. 好きなこと(=やってみたかった職種)だけど、時給が安い仕事

B. 嫌いな仕事だけれど、時給が高く、自分のスキルを活かせる仕事

 

この2種類のアルバイトを4~5種類掛け持ちし、Bの収入でAで稼ぎ切れない、QOL維持のための金額をカバーする。Aでは、「(お給金は安くとも)自分の自己実現に繋がる、あるいは、望むキャリアに近いような経験のできる仕事」を選んだ。

 

ざっと、自分のやってきた仕事を振り返ってみると、

A. 好きor興味有り・時給低

■アパレル(OEM)の中小企業の契約社員

■ギャラリースタッフ

■本屋(大規模コンプレックス)の店員

■デザイナー(洋服作り、主に知人から依頼を受けて1点1点手作り)

 

びみゃうorどちらでもない

■ピアノの発表会の手伝い

■古物商のホームページ作成

■翻訳

 

B. 嫌い・時給高

■コールセンター(時給1200円)

■家庭教師(小学生、大学生)(時給1700~2200円)

■家庭学習用・配信動画授業の講師(時給2000円。シフト組み放題。前日に申告でき、2~3時間から可の、大変都合の良いバイト)

 

まぁ、ざっくり書くとこんな感じである。

これらを続けて行くうちに、だんだん、AとBを兼ねる仕事が出て来た。

 

C まぁまぁ好き・時給もまぁまぁ高い

■ワインバーの店員(メリット:ワイン(=ソムリエ)の勉強ができる、美味しい料理やお酒が飲める。来るお客さんが面白い。会話があるので、倦まない。時給1200円)

■ライター(メリット:色々な「トレンドの」あるいは「美味しい」お店が取材できる、書くことで、自分の中に内在されていた「書きたい欲」を発散できる。印刷され、本屋の店頭に「モノ」が並ぶとやはり嬉しい。クレジットに自分の名前が載ることによって、ある種の「クリエイター」「作家」としてのプライドがくすぐられる。Amazonで、自分の書いた著作が買える。知人や、次の就職先等に、媒体として、自分が寄稿した雑誌・メディアを紹介できる。ページ単価/店単価:5000円~20000円くらい)

 

当然ながら、人間、突き詰めれば「C」の「まぁまぁ好き」で「まぁまぁ時給も高い」職業に集約されて行く訳で、私も最終的に、上記2つのバイトに落ち着いた(時期的にはワインバーが先、ライターが後)。

 

この、特に離婚後の一番大変な時期に私を支えてくれた(特に「ライター」の方の仕事が、直接的には)仕事が、母との和解や、私のライフワークとなる「職業」にも、結果的につながることとなる(もちろん、ワインバーも、ネタや経験値としては、とても大切だったが…)。

 

はい。という訳で、大変長くなりましたが、ここからが本題です。

「母との衝突・和解への道のり」

すごーーーーくざっくり言うと、離婚後の約4年間は、これに費やした訳です(←今ココ。この約3年半の軌跡が、このブログにとっては一番大事で、離婚が落ち着いて、実家(に実は存在していた家族病理)に向き合えるようになった3年間の後に、ようやく落ち着いて、自分の気持ちを整理しながら、このブログが書けている、という訳です)。

 

もちろん、経済活動(一社会人としての金の稼ぎ方)や、自分のライフスタイルに強い変化を与えた職との出会いや、人的交流など、「外側との邂逅」も、もちろんあるのですが、一個人として「実家とのやるせない・どうしようもなく出口が見付からなかった腐った家族病理を解決する過程」という意味ではやはりここが一番肝となる時間でした。

という訳で、一応(自分にも)分かりやすく解説するために、やはり引き続き時系列で(←これが余計ややこしい、という突っ込みはご容赦くださいっ汗)少し書き記してみたいと思います。

 

㉗ 多職フリーターとしての自営業者生活のスタート

離婚後半年~1年半ほどは、自分のライフスタイルを確立するのに必死だった。

具体的には、「自分の好きなことを職業とし」ながら、「自分の思うQOLを保つ」という両輪を立ち上げるのが、とても大変だった。

現実的な話をすれば、その年の4月より別居生活が始まっていた訳だが、私は夫婦2人で住んでいた30平米ほどの2Kに一人で住み続けることを選択。

(※ちなみに、QOLを落とすことは全く考えなかった(家賃が6~8万のワンルームへ引っ越す、など)。なぜなら、当時の私にとって、「離婚は前進」であるべきで、「離婚したから生活規模や、ランクが結婚生活時に比べて落ちて惨めな気持ちになった」ということを、200%避けたい、と思っていたからである。)

 

それでも、8月に正式な離婚が成立するまでは、元夫の会社から、変わらず家賃補助が出ていたし、新たに1Rの賃貸を借りて出て行った元夫も、ちゃんと数割の家賃を元の家(=私が一人で住み続けることになった家)に、払い続けてくれていたので、自分の生活費の捻出だけを考えれば良かったのだが、「離婚成立」「専門学校中退」が決まった9月以降は、ほぼ自活生活が求められた。

しかも、やはりネックとなったのは、二人で住んでいた二人分の広さの、デザイナーマンションともいえる凝った内装の、マンションの家賃だった。当時13万円/月という家賃を、フリーターで捻出するには、大変な知恵と工夫が必要とされた。

 

そこで私は、このように考えて、この生活を維持し、離婚後の大変な時期を乗り切ることにした。

その具体的な方法とは、仕事(すべて、日銭を稼ぐアルバイト。正社員は一種類も無い)をざっくりと下記の2種類に分ける。

 

A. 好きなこと(=やってみたかった職種)だけど、時給が安い仕事

B. 嫌いな仕事だけれど、時給が高く、自分のスキルを活かせる仕事で、

 

 

Aで稼ぎ切れない、QOL維持のための金額をカバーする

 

と決めて4~5種類の仕事を掛け持ちする生活を確立して行った。

 

具体的には、次章……。

 

 

本題とは逸れるが、今、このブログに書かれている内容とは全く違う環境の中に身を置き、客観的に自分の現の振舞い方や、ものの考え方を分析するに、それらが私の過去や実母、実母との幼少期から受けた影響、もう少し言うと私が実母から学んだことは「人間への不信感」だと思う。

 

これに尽きる。

 

長いこと、「何か不快なものを、この人は私に与えて来る」という風に漠然と感じていたが、今回、海外(特に人権の概念が強いヨーロッパ)に滞在して、ある日突然、帰る直前の日に、はっきりと悟った。

 

「私が母から刷り込まれたことは、『完全なる人間不信』だ」と。

 

なぜならば、こちらでは、そういった「家族病理」に冒されている人間(アジア人・日本人)だということに周りの人は気付くことなく、「遠くからわざわざやってきた、友達になるべき人」「そのアジア人の目的のために進んで手を貸してあげたくなる人」というように、私を扱ってくれる。

 

そういった厚意、チャンスに私を何度も目にしたにもかかわらず、私は、その厚意をほとんど受け取ることができなかった。

 

その時に、私ははたと気付いたのだ。

「これが、母が幼少期から私に叩き込んだものなのだ」と。

 

私は必ずしも、彼らの行為を無視したかった訳では無い。

むしろ、可能な範囲で、双方に無理の無い程度に、そして当然だが、その好意の手を差し伸べてくださった方々に、失礼の無いように、そういったご好意を受け止めたかった。

 

しかし、それができなかった。

それは、自分の本能というよりも、何か、自分の中の、幼少期に獲得した「フレーム」「物の考え方」「様式」といったものが、自分の本心の率直な発露を妨害しているように思えた。

むしろ、私の本心は、私に対して手を差し伸べてくれた人々への愛とシンパシーに共感していたし、その方々と、友情というか、関係性を結び、今後とも長く付き合って行きたい、という風に望んでいるように思えた。また、そちらの方が、自分単体(母がおらず、もし自分が天涯孤独で早い段階から、自分自身の心に従って生きていれば)の姿にも近いように思えた。

 

特に今回は、別の目的もあり、母が渡欧に同行していたから、というのも大きい。彼女自身の存在や、彼女と共に居ることで、「幼少期の私の自我」が無意識に現在の行動に反映されるせいか、「あたたかく周りから差し伸べられた手」を、私はことごとく跳ね返してしまった。

 

その行為をしている自分を見るにつけても、悲しみだけが勝り、母が先に日本に帰った後、ヨーロッパで一人になって二人でいた時に私が決断・行動した内容を振り返っていたところ、はたとこの事実に気付いたのだ。

 

もちろん、母本人は気付いていない。

私にナチュラル・ハラスメントをしていることに対して無自覚である。

 

しかし、母の出自のもたらす、「他人は信じるに値しない」「利己的な、小さな小さな己の欲求と満足のみを追求して生きて何が悪い」という、開き直ったような、態度のせいであることは明らかであった。

その母の「性悪」な態度というのは、より一般的な言葉で言い換えれば「底意地の悪い」「ケツの穴の小さい」といったような態度ともいえる。また、それは私が小さい頃から、「気持ち悪いな」「感じの悪い女だな」と、漠然と感じて来た母のいち側面でもあった。

こういった態度は、強烈に、子どもの心に、「親である私が、あなたに対してこんなにも献身的なこと何一つしないのに、それでも他人を信じるような子に育つとしたらお前はこの世で一番の大バカ者だ」といったような言下のメッセージにも、繋がった。

 

 

 

⑳ 翌1年間は、ほぼバイトだけの生活

同居人(後の元夫)と、実家、祖母宅(祖母宅には叔父・デイサービスに通い始めた叔父が住む)の3点拠点で暮らす。

認知症が進み、自慢だった長男(父)を失ったことで癇癪を起しやすくなっていた祖母と、生まれつき精神疾患があり自閉症気味の叔父が喧嘩・衝突をすることが多くなり、祖母宅はいつもややピリピリした空気が漂うように。

 

㉑ 結婚

結局、大学の同期で、私の親友の「婚約者」であった、男やもめ?の彼と結婚。

私がそれまで半年ほど真剣交際していた男性と破局し、「別れたー」と久々に報告しに彼の家に帰った翌日、ダイニングのテーブルの上に、「婚姻届」が置いてあった。

それまでは特に「男として積極的に好き」という気持ちは全く無く、「死なれたら嫌だ」という「情(じょう)」しか無い男だったが、この時はさすがに内心「やるな」と思ったのをよく覚えている。

父が「ヴァンサンカンだね」と言ってくれた、前年の誕生日と違い、今年の誕生日は父が居ない代わりに「父の代わりとなってくれる新しい家族となる男の隣で過ごす」と決めていたため、私の誕生日の前日に入籍。

11月

バイトは続ける。

式は挙げず。

バイト先で小さなお祝いをしてもらい、嬉しかった。

 

㉒  専門学校入学(社会人枠)

主婦となり、晴れて大嫌いだった母の元を離れ、扶養も名字も戸籍も住民票も、全て心機一転、元夫との生活。

正式に夫婦となったことで、元夫の方の会社から「家賃補助」など、様々な家族手当の支給が受けられるようになった分、生活費の支出が減り、その分を私の「リキャリア」費に充てることに。

2月に、夜間コースのデザイン学校の入試を受け、4月から入学。

それに伴い、長いこと(2年弱)お世話になったアルバイトを辞め、パートに。

美術館など、いくつかの「(社会的に所謂)主婦パート枠」で勤める。

4月

 

㉓ 元夫の浮気

本来「2年コース」だった夜間の専門学校だったら、1年目の12月に、(これはおそらく特に本筋とは関係無く、ふとした神様からのメッセージで、アクシデンタルに起こった事故(であり、そしてその後の人生に繋がる道しるべ)だったと、私は今となっては解釈している)偶然、元夫の浮気現場に遭遇。

その場で離婚を決意。

12月

 

㉔ 元夫との別居

年末から、年越し~新年に掛け、激しいセックスレジスタンス(=簡単に言うとセックスに応じない)により、別居に持ち込む。

向こうは、渋々だったが、何とか「離婚前提でなら」と、別居に成功。

4月

 

㉕ 離婚

そうこうする内に、専門学校は2年目に突入。

離婚の候補日は、私が挙げていたのが、大きく下記の3つ。

 

■アメリカ独立記念日  7月4日

■パリ祭 (フランスの革命記念日、(バスチーユ監獄襲撃の日)

フランス共和国の成立を祝う日) 7月14日

■第2次大戦のパリ解放日 8月25日

 

「離婚すると決めたなら、早い方が良い」と判断していたので、春から、前者2つの候補を押していたのだが、結局、そこは元夫の達ての希望で、

 

■終戦記念日(日本) 8月15日

 

ということになった。「この日でなければ離婚しない」とのたまった元夫にはのけぞったが、しかし当時の私としては、まだやり直しの利くであろう20代後半という早い時期に、一刻も早くシングルバックアゲインし、自分の人生を立て直すことが最優先だったため、この希望を聞き入れ、無事に専門学校が夏休みの内に離婚が成立。

 

㉖ 専門学校を退学

ここは、悩みに悩んだが、夫婦関係が、別居&離婚云々となる前の1年次から、「いかにそこそこ知名度のある専門学校とはいえ、所詮2年の夜間のコースで学んだところで、莫大な規模のファッション業界に出て、自分の希望の仕事に就くのは茨の道」と感じ始めていたこと、また、自分の縫製の技術が、自分が予想していたよりはるかに育たず(というか、全く才能が無かったからか??適性皆無)、かなり現場に出た時に苦労するであろうことが目に見えていたため(当然だが、クラスメイトには私よりも「巧く縫える子」「ミシンの扱いが上手な子」「布・服・繊維・糸といった素材を使い上手にアイディアを表現できる子」といった子が、沢山いた。幸か不幸か、私はそういったセグメントの人に人生で一度も出会ったことが無かったので、大変新鮮であったし、打ちのめされたのも、大変良い勉強になった)、最終的に、辞めることを決意。

夏休み期間中に離婚したため、役所への手続きや、戸籍等の書き換えの事務作業に奔走し、同時に、専門学校の教務課や先生とも相談し、退学の手続きも進めて行くことに。

 

つづく