やぐち おさむのブログ

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さぁ、しゃべろう!

事実を捏造するとんでもない裁判官達

東京地方裁判所民事第12部
高木勝己 神吉康二 三井みのり

原告(私)(本人訴訟)は,自分が経営する運送会社の下請けの会社が,勝手に弊社との取引のあった会社の契約を解除してしまい,年間1000万円の損害を被ったためにその損害を賠償する訴訟を東京地裁に提起した。その被告を,被告会社と同社の代表取締役及び平取締役3名の計5名とした。

当初被告5(平取締役)には,勤務地である被告会社に訴状等の書類を送付したが,第一回口頭弁論で被告会社は「被告5は,訴状を受け取ったが答弁書を提出するつもりはないし,弁論にも出廷するつもりはない」と供述した。 
そこで本来,担当裁判官神吉康二は「欠席裁判」として処理すべきものを,もう一度待つとして次回に引き延ばした。

そして,第二回口頭弁論でも被告5は出廷しなかったために,被告会社及び被告2に供述を求めたところ,第一回口頭弁論で供述したように「被告5は,訴状を受け取ったが答弁書を提出するつもりはないし,弁論にも出廷するつもりはない」と供述した。ここまでくると,裁判所は極めていい加減な組織なので,本件をうやむやにしてしまう虞が出てきたので,被告らに代理人として弁護士を付けるように裁判所に上申書を提出した。

第三回口頭弁論では,被告会社及び被告2が出廷した。そこで原告は何度も経験しているが代理人弁護士がいないと裁判所は事実認定も滅茶苦茶で勝手に物語を作るため,前回上申書で,今後弁護士を代理人としてはどうかと提案していたこともあり,担当裁判官神吉康二は被告らに提案して,被告らも検討するとの旨を供述した。ただ,ここでも被告5に対してはのらりくらりの対応であった。

その後に裁判所から,被告5は被告会社を退職して行方が分からずに送達した書類が返送されたとの旨の連絡があった。そして,次回は「弁論準備手続き」となる旨を伝えられた。弁論準備手続きとなると,被告らとの和解の提案になるのかと考えて出廷したが,今まで担当裁判官神吉康二のみでの対応だったが今後は合議体となることが伝えられた。
そうすると万人が分かるように,担当裁判官神吉康二が本来被告5に対して「欠席裁判」として処理すべきものをあいまいとして被告5を逃がしてしまったために,それを隠ぺいするために合議体としたと判明した。

さらに,その後の法廷で行われた第五回口頭弁論で,裁判長となった高木勝己裁判官は本来の「被告5は本年8月に退職して行方が分からない」との被告会社の供述を「初めからいなかったんだろ」と事実に反して被告会社に問いかけて,被告会社も「はい」と前回の供述を変えて返答した。

以上のように,担当裁判官は本件について,事実を捻じ曲げて無理やり判決することが明らかである。これが社会では認められるのであろうか?。
そうすると,最高裁までこの極めていい加減な処理を報告せざるを得ないが,最高裁も極めて加減な組織なので本件をうやむやにしてしまうであろう。
これが,日本の司法の現状であることを皆様にお伝えする。
裁判官が神様だと思っている方は全くの誤りだと指摘する。

最後に,本件は「本人訴訟」であるが故に,「守秘義務」はない。また,憲法上「公開裁判」が保障されているが故に,その内容を公開することは違法ではない。
 
以 上

東京地方裁判所民事第4部 伊藤 繁 「腐った裁判官」

 

上記、腐った裁判官が、またいい加減な判決をしたので、それについて控訴理由書の内容を明らかにして、現代の司法が麻痺している状況を国民の皆様にお伝えする。

 

第二 原判決について(原判決の表記とする)

第3 当裁判所の判断

1 被告国に対する請求について

原判決は,「その裁判に上訴等の訴訟法上の救済方法によって是正されるべき瑕疵が存在するだけでは足りず,当該裁判官が違法又は不当な目的をもって裁判をしたなど,裁判官がその付与された権限の趣旨を明らかに背いてこれを行使したのと認め得るような特別の事情があることが必要であると解するのが相当である(最高裁判所昭和57年3月12日第二小法廷判決・民集36巻3号329頁)」を引用して,「別件訴訟を担当した裁判官に上記の特別の事情があることを認めるに足りる証拠もない」と判示している。

 しかしながら,控訴人は婚姻費用を違いなく支払っており,被控訴人高野伸らは別件訴訟の正確に判断した判決を「本件を拘束するものでない」として独自の判断を行ったことは,明らかに悪意があると言える。

 そうすると,それを判断できなかった原判決は失当であり,原審担当裁判官はやはり裁判官としての判断能力に欠けるため,日本国のためには失職すべきであると言わざるを得ない。

 そして,この最高裁判例によれば,本件のように裁判官が相手方に加担して損害を与えたとしてもそれを救済する方法がないことなり,運用が誤っていると指摘する。

 

2 被告高野及び被告岡部に対する請求は理由がない。

 原判決は,最高裁判例(最高裁判所昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集第9巻5号534頁,最高裁判所昭和47年3月21日第三小法廷判決・裁判集民事105号309号,最高裁判所昭和53年10月20日第二小法廷判決・民集32巻7号1367頁)を引用して,「それらの行為は公権力の行使に当たる国の公務員の職務行為に当たるから,同被告らは個人として責任を負うものではない」としている。

しかし,そもそも日本国の正当な公務員は被控訴人高野伸のように裁判官と言う立場を利用して,このような被控訴人5に加担して控訴人に300万円を超える不当な判決は間違ってもしない。

そこで被控訴人高野伸らは,裁判官としての立場を利用して私的領域で判決したことが明らかであり,よって,公権力の行使とはおよそかけ離れていると言わざるを得ない。

 インターネットを検索すると,被控訴人高野伸は裁判官としての立場を利用して数々の社会正義に反した処理をしており,社会では間違いなく生存する価値がない。控訴人の父親が亡くなった事実もうやむやにしようとした張本人である。社会正義は絶対にお前を許さない。高野。お前だ。

 

3 被告林勘市ら(相手方弁護士)対する請求について

(1)被控訴人碇由利絵の主張についての反論

 原審で被控訴人碇由利絵はご尤ものような主張を縷々書いているが,「主観的事実と判断した場合は」「正当な訴訟活動として許容される範囲を逸脱したものではない」とした点,被控訴人5の虚偽を見抜けなかったことはそれだけの能力しかないとしか言いようがなく,その判断の誤りこそが過失であり,不法行為を構成するのである。

 別件訴訟では,代理人弁護士は当初事実を知らなかったのか「不知」として主張してきた。しかし,本件原告が強く非難したところ,真実を明らかにして謝罪するにあたり和解を提案してきて,終了した。それこそが弁護士としての社会的任務であり,本件のように虚偽を主張し裁判所が加担して違法に支払いを命じたことを正当だとしていることは,間違いなく社会正義に反していると断言する。

(2)原判決について

 原判決は,「しかしながら,被告林らが(中略)原告の被告林らに対する請求はいずれも理由がない」としている。

しかし,民事訴訟法第247条は「裁判所は,判決をするに当たり,口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して,自由な心証により,事実について主張を真実と認めるべきか否かを判断する」としているが,そもそも原審担当裁判官は,被控訴人林勘市らの虚偽の主張を全趣旨及び証拠調べから判断できなかったことは,裁判官としての能力が全くないと断言する。日本の司法制度の失態であるから,それ相当の処分をしなければ日本国が間違った方向に流れてしまう懸念を否定できない。

(3)代理人弁護士が違法または不法行為と判断された事案 

①(宮崎地裁平成21年4月28日判決)

「裁判所の適正な司法権の行使を誤らせ,虚偽の証拠で冤罪を作り出そうとしてもので,刑事司法の根幹を揺るがしかねず,反社会性は,大変大きい」として懲役1年6か月。

②(東京地裁平成5年11月18日判決)

「被告が弁護士であり,犯罪の嫌疑にかけるのに相当な客観的な根拠の確認つき一般人より高度な注意義務を課されることからすれば,本件で被告のした調査はあまりに不十分であり,かつ告訴告発及び懲戒請求をした判断もあまりに軽率であったと言わざるを得ない。(中略)不法行為が成立する。

(4)小括

 以上のように,被控訴人碇由利絵は被控訴人5の「虚偽」を判断できなかったことは明らかに過失であり,その責任は免れない。

まあ,とにかくいい加減な腐った連中であるとしか言いようがない。

 

4 被告智子に対する請求について

原判決は「既判力が生じている」としているが,全くの見当違いだと言える。その誤りを,時系列的に説明する。

 まず,「財産分与」は別件離婚訴訟「平成28年(ネ)第186号」で処理されるべきものでる。

そして「平成28年(ワ)第10666号不当利得返還請求事件」は,「平成28年3月30日付訴状」で提訴した訳だが,「口頭弁論最終日 平成28年8月9日」であり,「平成28年10月4日判決」である。 

それから,「平成28年(ネ)第186号 離婚等請求控訴事件」は「平成27年12月16日」に控訴状を提出しており,「口頭弁論終結日平成28年5月24日」「平成28年9月8日判決」である。

 そうすると,「平成28年(ワ)第10666号」を提訴し,口頭弁論最終日までは,別件離婚訴訟「平成28年(ネ)第186号」は確定していない。そこで,「平成28年(ワ)第10666号」は,訴外蓮井が書いたいい加減な婚姻費用の2重の支払いを命じた漫才の違法な処理に対して,不当利得を求めたものである。

 そして,本件は別件離婚訴訟「平成28年(ネ)第186号」で違法に処理された婚姻費用についてその支払いを国や被控訴人5らに返還を求めているものであり,すなわち,そもそも訴訟物が違うのである。

 そうすると,既判力や二重起訴という問題はそもそも起こらないのであるから,原判決は全くの失当である。そんな,最低限のこともわからないとすると,原判決の裁判官はやはり裁判官としての能力に欠けていると言わざるを得ない。

 

5 被告中村及び被告川口に対する請求について

 この点,原判決は「原告が被告智子に対し合計220万円を支払ったことは認めることはできないから」としているが,そもそも控訴人は合計220万円支払っているので,事実認定及び理論構成が全く違う。

「認めるに足りる証拠はない」としているが,それは立証責任がある裁判手続きの問題だけであって,社会は被控訴人6らが140万円の行方を明らかにしない限りは,責任追及は免れないのである。

 被控訴人5は,自らが虚偽を通すのであれば,家族がこのように崩壊していくのである。

 「既判力」については前述の通りである。

 

6 小括

 以上のように,原判決はそもそもの事実認定が間違っており,そこから国や担当裁判官,代理人弁護士,そして別件離婚訴訟の当事者やその家族への判断は全く違い,まさに社会正義に反していると断言する。

 特に,別件訴訟「平成28年(ワ)第10666号不当利得返還請求事件」を引き合いに出して,「既判力」としたことは,弁護士資格がないものが指摘するように「訴訟物が違う」ので全く失当である。

 

第四 結語

 以上のように,原判決は前提事実自体がそもそも誤りであるため,それ以降の処理が失当であるため破棄を免れない。

 

以 上

 

「伊藤繁」裁判官、真実を正確に処理できないのであれば、当然裁判所をお辞めになって、この世に生存する価値がないので、とっととこの世からいなくなってくれ。

 私は,何年か前に,不動産に係わる問題で,共有だった相手方から提訴された。

その問題の中で,私はある費用を毎月10万円ずつ22か月間の合計220万円を支払っていたが,裁判所の違法によって以下のように処理されてしまった。

 

第一審の東京家庭裁判所蓮井俊治裁判官(当時)は,その判決の中で,前段でその支払いを認めつつ,後段で支払っていないから不動産買取り費用で相殺せよと二重の支払いを命じた。恐らく,訴訟の内容の全体を把握することなく,相手から提出された訴状の内容を,「認める」,「認めない」と事務的に処理したため,そのような金額的につじつまが合わないような違法を犯したのであろう。

 

そこで当然,それとその他の判決の誤りを正すために東京高等裁判所に控訴したが,第24民事部高野伸裁判長(当時),菊池憲久裁判官(当時),前澤達朗裁判官(当時)は,その220万円の支払いを,相手方に加担して,80万円を限度として認めるとして,さらに私に140万円を支払えと命じた。

 

また,不動産の買取り費用を,現在の査定価格ではなく,提訴された3年ほど前に提出された見積書を基に判決した。すなわち,100万円程度の差額が発生したのである。

 

第一審の蓮井俊治裁判官の違法な判決については国陪訴訟で最高裁まで争ったが,最高裁は過去の判例を用いて「問題ない」と処理された。

 

そして,控訴審の高野伸裁判長らの違法な判決は,現在国賠訴訟を,当時の最高裁判事を含めた合計20人(国,最高裁長官大谷直人,前最高裁長官寺田逸郎,山﨑敏光,岡部喜代子,木内道祥,前東京高裁長官深山卓也,高野伸,菊池憲久,前澤達朗,蓮井俊治,代理人弁護士林勘市,釜谷理恵,碇由利絵,相手方親族を含めた6名)を被告として提訴しているが,恐らく,東京地方裁判所民事第4部の裁判官はうやむやにしてしまうだろう。

 

国民の皆様,このような司法の機能が麻痺している現在の裁判所の違法から,私を助けて頂きたい。

 

現千葉地方裁判所(当時東京○○裁判所)裁判官「蓮井俊治」は、「裁判官としてあってはならない過ち」を犯した。

 

それは、筆者がある事件で平成27年12月3日に判決を受けたが、筆者がある費用を「平成20年9月から平成22年6月まで220万円を支払っていた」と通帳や手帳を証拠として提出したが、それを認めないで相手方の証拠を提出していない「虚偽」の主張を採用して、判決文の前段でその費用を「平成20年9月から平成21年12月まで支払っている」と認めつつ、後段で「平成20年9月から平成25年5月まで支払っていないからその費用171万円を支払え」と意味不明な二重の支払いを命じた。

 

そこで、裁判官相手に反省を促すために訴訟を起こしたが、蓮井裁判官は東京地方裁判所での第一審で最高裁判例を根拠に謝罪もしなく、そしてその第一審も最高裁判例を根拠に「棄却」とした。

そして、当然に最高裁判所の報告するために東京高等裁判所に控訴した。

その控訴理由書を皆様にご紹介する。

 

 

平成28年(ネ)第2590号 損害賠償等請求控訴事件

    谷口 

被控訴人  蓮井俊治

    

平成216

東京高等裁判所第23民事部Eハ係 御中

                                           控訴人      

 

頭書の事件について控訴人は次のとおり控訴理由を提出する。

附属書類

1 控訴理由書副本

 

控訴の理由

 はじめに

1 本控訴理由書では、原審において判決に影響すべき重要な事項について審理不尽があるためこれを指摘し、判断の遺脱、理由不備、社会通念ないし経験則違反を指摘し控訴理由を補強し、その上でまとめを行い、控訴理由を明らかにする。

 

2 本控訴理由書における表記について

(1) 控訴人谷口治を以下、「控訴人」という。

(2) 被控訴人蓮井俊治を以下、「被控訴人」という。

 

 判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての審理不尽

 判断の遺脱及び理由不備

 原判決は「国家賠償法1条1項は、国又は公共団体の公権力に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任じ、公務員個人はその責を負わないと解するのが相当である(最高裁昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集9巻5号534頁、同裁判所昭和53年10月20日第二小法定判決・民集32巻7号第1367号)」により、担当裁判官は個人であるため損害賠償責任を負わないとした。

 しかし、「最高裁昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集9巻5号534頁(農地委員会解散無効確認並びに慰謝料請求事件)」は、熊本県知事が行った「町農地委員会の解散命令のより名誉を毀損されたとする者が県知事及び農地部長個人に対して賠償を求めた事案であり、そして、「最高裁昭和53年10月20日第二小法定判決・民集32巻7号第1367号」は、刑事事件の捜査及び訴追に故意又は重過失があったとする者が、国並びに担当検察官及び警察官個人に対し、損害賠償と謝罪広告を求めた事案であり、本件のように「民事訴訟法247条違反」「民法724条適用の誤り」「安全配慮義務違反」「民法709条及び710条」の、極めて「裁判官としてあってはならない」判決を職務上行い、中でも「費用の二重の支払い」という信じ難い判決を言い渡した本件に適用するのは、あまりにも次元が違いすぎるため適切ではない。

 また、その判決のみを理由として「棄却」としている点は、理由不備であると指摘する。

 

2 控訴人の主張 

(1)憲法上の裁判官の良心について 

 憲法76条3項は「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。それは、憲法19条の「良心」と同じく裁判官個人の主観的良心と解する「主観的良心論」か、裁判官の良心は職業倫理に関するものであり、それには客観的な道徳的価値基準が存在するから裁判官の良心も客観的なものでありうるとした「客観的良心論」に大別されるが、いずれかが妥当だと未だ明確ではない。

 そこで、「裁判官個人の主観的良心と解する」と今回の極めていい加減な判決も「主観的良心」と解されるため妥当ではなく、「裁判官の良心は職業倫理に関するものであり、それには客観的な道徳的価値基準が存在するから裁判官の良心も客観的なものでありうるとした「客観的良心論」が妥当である。

 したがって、裁判官の良心も「客観的なもの」として取り扱うと、問題となっている判決はおよそ憲法上の「良心に従ひ」職権を行われたとは言い難い。

 

(2)国家賠償法について

 国または公共団体の公務員が、その職務を行う場合において、故意又は過失によって他人に損害を与えたときは、国家賠償の責任を生ずる(国家賠償法1条)。

 裁判官の司法作用としての職務行為については、国家賠償法その他の法律においてこれを例外とする明文の規定はない。そのため、裁判官の職務について国家賠償責任を生じうるかについては、見解が分かれている。判決等は公権力の行使にあたることについて異論はない。しかし、一般の公務員の公権力の行使の場合と同様に扱うべきかどうかについては、問題がある。

 さらに具体的に、①前訴(民事又は刑事の訴訟)の裁判官の判断を、後訴(国賠請求の民事訴訟)において再度裁判官が判断する、という判断の二重性、②その判断は、その間に民刑事の裁判の確定判決も介在しており(判断の時的差異)、③国賠訴訟の各当時者に対する適正な手続保障の問題、④前訴と後訴では判断の対象に次元が異なるほか、⑤裁判官の裁判行為には裁判制度に由来する固有の三審制(上訴・再審)及び固有の制度ではないがなお、憲法上の大原則である裁判官の独立から来る制約、の問題がある。

 求償も「諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度においてのみ認められる(最三小一判昭和51年78日民集30巻7号689頁)」としている。

 

(3)公務員個人の責任について学説の展開

① 責任否定説

 国家賠償法の規定の「国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」のほか、国又は公共団体に十分な資力がある以上、資力の乏しい公務員個人への請求を認める必要はないこと、公務員個人への請求を認めると公務員の職務執行が萎縮し行政の停滞をもたらすおそれがあること、軽過失の場合に直接請求を認めることは国家賠償法1条2項の求償権の規定とそごすること、等が挙げられる。

 

② 限定的肯定説

 国家賠償法第1条2項の公務員個人に対する求償権の場合と同様に、故意又は重過失のあるときのみ公務員の責任を認める説である。また、公務員が私利私欲を図ったような場合には、個人の免責に疑問があるとの見解がある。

 

③ 肯定説

 理由として、民法715条では被用者も使用者とともに賠償責任を負うのに、国家賠償法の適用がある場合に公務員は個人責任を負わないとする理由はないこと、国家賠償は、公務員の職権濫用に対する民衆による個別的監督作用を営むこと、被害者の報復感情を満たし得ること等を挙げる。

 

(4)公務員個人に責任を認めた事例

 (東京地裁平成6年9月6日判時1504号40頁)

「本件盗聴行為がまさに被告県の職務として実行されたものであることについては同被告ら主張のとおりであるが、他方、本件盗聴は当初より違法であることが明確な行為であって、かかる行為についてまでは、形式的に公務に該当することを理由に、公務としての特別の配慮を加えるべき理由が存するのかどうかについては強い疑問を感じざるを得ないところである。」

「思うに、公務は、私的業務とは際立った特殊性を有するものであり、その特殊性ゆえに、民事不法行為の適用が原則として否定されるべきものであると解されるが、右の理は、本件のごとく、公務として特段の保護を何ら必要としないほど明白に違法な公務で、かつ、行為時に行為者自身がその違法性を認識していたような事実については該当しないものと解するのが相当である。このように解しても、公務員の個人責任が認められる事案は、行為の違法性が重大で、かつ行為者がその違法性を認識している場合に限られているのであるから、損害賠償義務の発生を恐れるが故に公務員が公務の執行を躊躇するといったような弊害は何ら発生するおそれがないことは言うまでもなく、かえって、将来の違法な公務執行の抑制の見地からは望ましい効果が生じることさえ期待できるところである。

 

3 被控訴人の原審での主張について

 最高裁判所の判例「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人の損害を加えたときは、国家賠償法により、国又は公共団体が賠償する責めに任ずるとされ(1条1項)、公務員はその責任を負うものではない」(最高裁昭和30年4月19日判決・民集9巻5号534頁、昭和53年10月20日判決・民集32巻7号1367頁)を用いて、「故意又は過失によって違法に他人の損害を加えたときは」と自らの誤りを認めつつ、「国家賠償法により、国又は公共団体が賠償する責めに任ずるとされ(1条1項)、公務員はその責任を負うものではない」と、自らの責任ではなく「国」の責任だと責任逃れをしている極めて信じ難い主張である。

 

三 求釈明

 「真実」を別件訴訟においての「控訴理由書」や「準備書面」を提出するのでそれを参考に、被控訴人が真の裁判官であるなら、別添にて求釈明申立書を提出するので、詳細に釈明を求める。 

 

四 結語

 問題となっている判決は、「判断の誤り」「法律の適用の誤り」「職務義務違反」「不法行為」等が内在している極めて可笑しな判決であり、現代社会には許されるべきものではなく、「費用の二重の支払い」については「裁判官としてはあってはならない誤り」であることに異論はない。

 そこで、「故意又は重過失のあるときのみ公務員の責任を認める」べきであり、また、「民法715条では被用者も使用者とともに賠償責任を負うのに、国家賠償法の適用がある場合に公務員は個人責任を負わないとする理由はない」と考える。

 したがって、「公務として特段の保護を何ら必要としないほど明白に違法な公務で」あり、「かつ、行為時に行為者自身がその違法性を認識していたような事実については該当しないものと解する」のが相当である。

 そして、「行為の違法性が重大で、かつ行為者がその違法性を認識している場合に限られているのであるから、損害賠償義務の発生を恐れるが故に公務員が公務の執行を躊躇するといったような弊害は何ら発生するおそれがないことは言うまでもなく」、「かえって、将来の違法な公務執行の抑制の見地からは望ましい効果が生じることさえ期待できるところである。」ため、裁判官個人に責任を認めるべきである。

  

以 上

行政行為は、「行政庁が法律の定めるところに従い、その一方的な判断に基づき、国民の権利義務その他の法的地位を具体的に決定する行為」と定義される。土地収用法に基づく土地の強制収用、所得税法に基づく税の徴収等である。


行政行為という言い方は、我が国の法令上の用語とはされていない。法令上の一般的な用語としては、「処分」「行政処分という、いわば行政処分概念(行政手続法、行政事件訴訟法32項、行政不服審査法2条)をもって法令上の用語とされている。


 成立要件としては、①正当な権限を有し、正当に構成された行政機関が、その権限の範囲内で、その意思形成に欠陥なく行うこと(主体に関する要件)(大阪高判平7.7.28判タ905号139頁)、②行為の内容が法的にも事実上も実現可能なものであり、明確なものであること(内容に関する要件)、③手続きが要求された場合にはこれを具備すること(形式に関する要件)、を挙げることができる。効力発生要件は、行政行為を相手方の知りうべき状態に置くことである(最判昭57.7.15民集36巻6号1146頁)。


 行政行為には、法令により、その成立や効力や取扱について次のような特色がある。①行政行為は、法に従わなければならない(法適合性)。②行政行為の成立に瑕疵があっても、無効の場合の他は権限のある機関の取消しがあるまでは適用し、有効に拘束力を持つ(公定力)(最判昭30.12.26民集9巻14号2070頁)。③法令の定めるところにより、自らその内容とするところに相手方に対して強制的に実現する力を持つ(執行力)(行政事件訴訟法25条、行政代執行法等)。④行政行為の効力が発生して一定の期間経過後は、その効力を争うことはできなく(不可争力)(行政事件訴訟法14条)(最判昭24.5.18民集3巻6号199頁)、行政庁もこれを変更することはできない(不可変更力)(最判昭29.1.21民集8巻1号102頁)。⑤現行法では、行政行為に関する不服の訴訟は、抗告訴訟として特殊の規律におかれ(行政事件訴訟法)、また、行政行為による損害の賠償責任も民事上の不法行為責任とは異なる(国家賠償法)等である。これらは学説、判例上認められている。

 行政行為のこれらの効力のうち最も重要な問題は②公定力である。国民は立法府に立法権を委任し、立法府は行政府や司法府に対し適法に行政処分や判決を下すべきことを委任する。したがって、行政府や司法府が行う行政処分や判決は「適法の推定」を受けることになる。そして適法の推定を受けた行政行為がその内容に応じて法律効果を発生する力を拘束力という。この拘束力は、その適法の推定を受けた行政行為の効力を相手方又は他の行政機関や国民に承認させる力である。さらに公定力が問題となるのは、行政庁による行政行為が適法か否かについて相手方が疑いをもった場合に、行政庁の適法の判断を優先させる場合である。わが国の実定法においては行政行為の適法性の判断の優先権を行政機関に認め、行政行為が違法であっても権限ある機関により取り消されるまで、その行政行為は一応適法の推定を受け、相手方、第三者、国家機関もその効力を否定できないという理論にたっている。

 

 ③執行力が発動されるのは、行政代執行法が認める代執行の場合である。私法上の法律行為を強制執行する場合は、裁判所の債務名義がなければならないが、行政行為にあっては、行政庁自身が債務名義が与えられている(税務署長の強制徴収等)。国民の権利利益の保護の観点から、行政庁の下命権と強制執行権とを区別して、行政庁の下命権には当然には強制執行権が含まれないと解されている。したがって、行政庁の強制執行権の行使にあたっては法律の根拠が必要であるという考え方が支配的である(東京地判昭41.10.5)


 裁判判決の確定力には形式的確定力と実質的確定力とがある。この確定力の概念は訴訟手続きを経た裁判判決に伴う特殊な効力として用いられているにもかかわらず、一般の行政行為についても形式的確定力を④不可争力、実質的確定力(最三小判昭42.9.26民集21巻7号1878頁)を⑤不可変更力と呼ぶのが適当だとされる。

 

 それから、行政行為には外形的には存在してはいるが、要件の充足に様々な程度において瑕疵があることがある。この瑕疵には無効原因たる瑕疵と、取消原因たる瑕疵がある。

瑕疵の態様は①主体、②内容、③手続、④形式についてである。


①主体に関する瑕疵は、行政行為が正当に行政機関としての権限を行使し得ない者により、正当に組織されない合議体により、法律上予定された他の行政機関の協力又は相手方の同意を欠き、事項的又は地域的に権限を有しない行政機関によって行われた場合は、それぞれ原則として無効原因となる。意思に欠陥があり、心神喪失、抗拒不能程度の脅迫による等の意思のない場合は無効原因となるが、詐欺、脅迫等意思決定に瑕疵のある場合、賄賂その他の不正は取消原因となる。錯誤は、無効又は取消原因とならず、原則として表示されたところに従って効力を生ずる(最判昭40.9.10民集19巻6号1512頁)


②内容に関する瑕疵は、行政行為の内容が法律上又は事実上実現不能な場合又は不明確な場合はそれぞれ無効原因となる。事実上の不能とは、物理的又は社会観念上事実不能な場合をいう。法律上の不能とは、法律構成上実現不能な場合をいう。内容に単なる違法性がある場合には取消原因となる。内容の不明確性は無効原因となる。


③手続に関する瑕疵は、行政行為の相手方に法的利益を保護するために法の規定によって予定され、また条理上要求される手続きを履践しない場合には、原則として無効原因となる(行政手続法の定める手続き、行政不服審査法等の不服申立手続き)(最判昭50.5.29)


④形式に関する瑕疵は、行政行為は性質上要式行為ではないが、法規が形式を要経する場合がある。書面によることを要件としているのに、書面によらない場合、権限ある行政庁であることを明らかにする署名捺印がない場合、要求されている理由付記を欠く場合は無効原因となる。ただし、記載に欠陥がある程度のものは取消原因となる。



杉本章三郎著『行政法Ⅰ』中央大学出版部 2001年

塩野宏著『行政法Ⅰ行政法総論』有斐閣 2003年

田中舘照橘編『演習ノート行政法』法学書院 1995年

塩野宏編『行政判例百選Ⅰ』別冊ジュリストNo150 有斐閣 1999年

 〔憲法33条、35条に違反する捜査活動を否定(排除)し、違憲な捜査活動に由来する活動とその成果を否定する(毒樹果実の法理)法則〕=排除法則は、

(1)この法則を用いても、違憲な捜査活動を将来抑止する効果があるとの実証的研究、調査が欠けている

(2)有罪者にだけ役立ち、無実者は本来、無事なのだから、この法則は有罪者を無罪にする反道徳的なものである。

 との相当に理由がある反論があるのに、この排除法則を採用する方が大きな意味があるとの立場がある。

 排除法則を、上記の批判を考慮に入れながら、採用すべきだとする説得的で、一貫性のある理由づけ発見できるとすれば、どのような内容の理由づけだろうか考察する。


 憲法上の重要な基本権、具体的には憲法上保護された領域への他人の不当な干渉、侵入を受けないとの合理的な期待を保護する目的を実現するためにそのような不合理な干渉・侵入をした政府に、それによって入手された資料、証拠等に由来する一切の利益を享受することを許されない法則を排除法則という。換言すると、証拠の収集手続が違法であった場合に、その証拠能力を否定し、事実認定の資料から排除する原則である。


 排除法則の関心は個人の自由の保障に向けられており、被告人の有罪、無罪にあるのではない。すなわち、排除する法則が排除するのは、「有罪証拠」ではなく、「不当な法執行・捜査活動」なのである。個人の自由を侵害し、不特定多数の個人の自己表現に委縮効果を及ぼすような活動を否定するところにこの法則の狙いがある。当の個人の自由が侵害されていない状態に回復すること、他の不特定多数の個人の自由を侵害する活動を抑制するとともに、他の不特定多数の個人が自由な自己表現を差し控えるような委縮効果を持たないようにしようとする要求がこの法則を生んだのである。

 

 1914年のアメリカ合衆国最高裁判所の連邦事件であったウィークス事件(Weeks v. United states,232 U.S.383(1914))で、合衆国憲法第4修正(日本国憲法33条と35条に相応する規定)は不合理な捜索・押収によって入手した証拠の公判での利用を禁止しているとはじめて判示し、この法則を宣言した。ここでは、いわゆる規範節がとられた。つまり「政府は自己の不正な活動によって一片の利益も得るべきではない」という理由づけで、法執行機関が基本権を侵害して入手した非供述証拠の排除法則が採用された。その後、「司法が損なわれていない状態を保つべきだとする至上命令」が基本権を侵入して入手した証拠を排除する法則を支えるという司法の廉潔性の保持説が主張された。さらに、法執行機関による基本権の侵害行為を抑止する目的で排除法則がとられるという政策的見地を顕らかにする抑止効説が説かれた。1961年の合衆国最高裁判所のシャップ事件(Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643 (1961))は、この抑止効説に立った。


 排除法則に関する日本の学説は、これを肯定する見解が多数であるが、その証拠について以下の通り見解が分かれている。適正手続きの保障、いわゆる規範節は、憲法は捜査・押収について詳細な手続きを定めており(憲法35条)、しかも適正な手続きによらなければ処罰されないと保障している(同法31条)。これらの規定からの帰結として、憲法35条の規定に反する方法で収集された証拠を用いることは、適正な手続きによる処罰とは認められず、許されないとする。司法の廉潔性の保持説は、捜査機関によって違法に収集された証拠を、裁判所が公判廷において用いた場合には、その違法性を裁判所が引き継ぐこととなり、全体として司法の廉潔性が侵害されることになり、許されないとする。抑止効説は、違法収集証拠の証拠能力を否定することにより、捜査機関に違法の利益を享受させないとともに、将来の同種の違法捜査を防ぐことを根拠としている。


 証拠排除の基準として、大きく二つの見解が存在する。第一は、絶対的排除説である。これは、収集手続きに重大な違法性があった場合には、直ちに排除されるという見解である。些細な手続き違反があった場合には排除されないが、一定限度を超えた違法収集証拠は即排除される。重大な違法の内容は、憲法31条、35条違反に当たる行為や、刑法上処罰にあたる行為、刑訴法上の強行規定に反する場合などである。それに対し、相対的排除説は、絶対的排除説には排除という効果の重さがかえって裁判所の違法性認定を必要以上に慎重にさせてしまうという不都合があると主張している。そして具体的には、複数の基準が定立する。ひとつは、証拠集手続きに後続の手続き全体を不法にするほどの手続き違反があった場合には当然に証拠排除されるというもの、もうひとつは、司法の廉潔性や違法捜査の抑制の目的から、種々の要素を考慮して排除の必要性が決定されるとするものである。

 

 日本の判例は、当初この排除法則について消極的であった(最判昭24.12.13刑集15号349頁、最判昭36.6.7刑集15巻915頁)。証拠物は押収手続きに違法があったとしてもその証拠価値には変わりないからである。しかしその後、「証拠物の押収等の手続きに、憲法35条及びこれを受けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては、その証拠能力は否定される」(最判昭53.9.7刑集32巻6号1672頁)とし、抑止効説に立った。


 思うに、違法な手続きによって収集された非供述証拠に証拠能力が認められるが、それについての明文規定がないので問題となる。確かに、違法な手続きによって収集されたとしても、非供述証拠の場合は、その証拠能力自体には変わりない。しかし、このような証拠については、次のような観点から証拠能力を排除すべきである。


 個人の「憲法上保護された領域」を不当に侵害した法執行、捜査機関の活動の影響が、多数の個人の自己決定に不当な委縮効果を及ぼす限度で、その不当な活動の成果は否定されるべきである。なぜなら、個人の自由の保障の関心は、裁判所での犯人の有罪、無罪に向けられているというより、むしろ「不特定多数の」個人の自己表現を委縮させることになるか否かにある。そこで個人の自由な自己決定を委縮させる効果を除去するためにも、その活動は原状に回復され、矯正されなければならない。このため、被告人の有罪を確実に示している証拠であっても、不特定多数の個人の自由な自己表現に委縮効果を与えるような方法で入手された場合には、その「法執行や捜査の方法」に関心を寄せて排除することが正しいとすべきである。


 次にその証拠についてであるが、わが国には、警察制度内部での規律、検察官と警察との独自の監督、調整関係による規律や法律の制度が用意されている。したがって、規律や法律違反の法執行活動の規律は、この制度に委ねれば足りる。そして、わが国の憲法81条の権力分立の下で、裁判所の完全性が害されない限り、基本権の侵害があっても違法な法執行を審査せずに放置するとの立場をとることはできない。


 したがって、権利章典に定める基本権を侵害し、自由社会の基盤を崩しかねないような法執行活動から政府は一片の利益も享受すべきでないという、いわゆる規範節が最も妥当であると考える。排除法則は、法執行、捜査活動を規律することを目的とする原則であって、公判の証拠排除の方策ではない。直接に法執行活動を規律する憲法33条と35条に定める要件に違反する活動に排除法則が適用され、また、排除法則の実定法上の根拠は、憲法33条と35条に、また身柄拘束を間接的に規律する34条の弁護権を保障する規定に求めるのが正しいこととなる。


渥美東洋著『刑事訴訟法』中大出版部 2001年

渥美東洋著『刑事訴訟法』有斐閣 2001年

渥美東洋著『罪と罰を考える』有斐閣 1996年

渥美東洋著『レッスン刑事訴訟法〔中〕』中央大学出版部 1995年

松尾共編『刑事訴訟法判例百選』別冊ジュリストNo148  有斐閣 1998年

田口守一編『争点ノート刑事訴訟法』法学書院 2000年



(裁判員制度が導入される前の平成13年頃に書いたものなので、記述が現在の制度とは違うことをあらかじめご了承願います)



 従来、わが国には君主の強大な権力を認めた大日本帝国憲法があった。しかしポツダム宣言後、新しい民主主義憲法、すなわち現在の日本国憲法制定に至った。民主主義は、国民が国民の福祉のため、すなわち自分自身の福祉のためではなく、社会に生存するすべての人々の福祉のため、みずからを治めるという主義である。そしてこれを徹底すれば主権は国民となる。

 

 現憲法は主権が国民にあることを明らかにし、基本的人権を詳細に限定している。近代以降の市民社会は、特定の権力からの個人の自由を目指した(自由主義)。治者と被治者が同一である(民主主義)。政治の在り方を憲法典に定める(立憲主義)。国民が最高の意思決定権を持つ(国民主権)。その国民主権は、国民がすべて平等に人間として尊重されてはじめて成立するものだからである。その国民主権は、国民がすべて平等に人間としてはじめて成立するものだからである。

 

 憲法第1条には「天皇は日本国の象徴であり、日本国統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定している。憲法前文において「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福祉は国民がこれを享受する」といっている。



 その国民主権には、二つの要素が含まれている。権力的契機と正当性の契機である。権力的契機とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するというものである。正当性の契機とは、国家の権力行使を正当付ける究極的な権威は国民に存するというものである。現憲法における国民主権の現実にはこのような側面が併存しているのである。我々はこのような国民主権の原理とする日本国憲法の下に生活しているのである。しかし、本来より直接的な参加が望ましい。

 

 原始的な裁判は、専門の裁判官でなく、素人や民衆の手で行われていた。市民が選定人にされたり、部落集会が判定に関係した。しかしそれは、国家権力の確立と、裁判の法規の発達に伴って、専門的な裁判官に委ねられるようになった。しかしその後は民主主義の風潮に伴って、司法の民主化が新たな意味を持つようになってきた。その登場したのが「陪審制度」や「参審制度」である。

 

 「陪審制度」とは、法律の非専門家である一般国民が裁判官から独立し裁判を行うものである。「参審制度」とは、選ばれた数人の参審員が職業裁判官と一つの合議体を構成し、職業裁判官と同一の権利・義務をもって裁判を行うものである。

 

 かつての我が国の「陪審制度」は起訴陪審を採用せず、公判陪審であった。1923年の陪審法は後述の英米の陪審制度と異なり、陪審不適事件、陪審の更新、資格の制限等の多くの制度的欠陥を有していた。その後停止されたが、戦後の司法改革に際し、刑事裁判に関して陪審制度、あるいは参審制度の導入が(検討されている)※。



 その陪審制度の導入は、わが国の現憲法の下では、憲法第32条、同第761項、同条3項との見解がある。そして参審制度についても陪審制度と同様、憲法第32条、同761項の各条項について問題とされ、さらに同第80条の条項に違反するのではないかとの見解がある。それらが、違憲論の見解である。憲法は職業裁判官を要請するものであるといている。



 それらに反する合憲論の見解は、明治憲法下では裁判を受ける権利を保障した第24条は「法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権」を定めていたのを、現憲法第37条は「裁判所において裁判を受ける権利」「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」に改められたことをい重要な根拠として陪審制度、あるいは参審制度を民主主義の理念に照らし合わせ合憲である、としている。

 

 私見ではあるが、誤判からの人権擁護、参加する国民の市民倫理の向上という観点からは導入の支持する。

 

 現行の制度※(平成13年当時)では国民が司法に対して直接参加できるのは、①簡易裁判所における司法委員制度(民事訴訟法358条1)、②家庭裁判所における参与員制度(家事審判法3条、10条、10条の2)、③海難審判での参審員制度(海難審判法14条)、④調停委員会の調停委員制度民事調停法6条、8条、家事審判法3条、22条の227条の3)、⑤検察審査員制度(検察審作法4条、2条1項)である。

 

 間接的に参加できるのは、①最高裁判所裁判官の国民審査の制度(憲法792項)、②裁判官に非法律専門家である国民の中から任命する制度(裁判所法41条、45条)、③内閣による裁判官の任命(憲法791項、801項)である。諸外国と比べて極めて制限されている。

 

 英米法系においては陪審制度を、大陸法系では参審制度を採用している。そしてスウェーデン等は陪審制度と参審制度を併用している。

 

 陪審制度を採用している米では、合衆国憲法及び各州憲法上陪審裁判を受ける権利の保障があって、現在でも陪審制度は国民に浸透しており、審理に立ち会い、評決する公判陪審すなわち小陪審が広く採用されている。



 人権と有罪率で若干相関が出ているようである。英では、刑事陪審においては重罪のみの正式に起訴されたものに限り、民事陪審においては人格権等に基づく請求に限られている。参審制度を採用している仏では、かつて起訴陪審と公判陪審とを採用していたが起訴陪審は廃止された。混合型のスウェーデンでは13世紀頃より参審制度が採用されたり、1734年に現行参審制度の原型が制定された。そして、1815年に出版の自由を保障する制度として陪審制度が採用された。出版物に関する刑事事件と損害賠償責任と出版物の没収に関する訴訟が陪審制度によって行われている。

 

 今日の我が国の議論は、以上のような陪審制度も参審制度も、裁判に対して国民が参加し、裁判に対して、公平から迅速という監視・国民の福祉のためみずからという統制・公開裁判という透明性の機能を果たし、国民主権という個人の尊厳に立脚する民主主義の理念を実現している。裁判にとっても法的安定性が重要であり、陪審制度をとるこの機能が著しく落ちるとの批判があるが、より重要なものは具体的妥当性であり、国民の健全な常識を反映させるという意味で陪審制度は最も機能するものである。



 そして陪審制度は被告人の基本的人権を擁護する役割を果たし、誤判防止の機能をも有しているという点が最も重要である。先進諸国では国民の司法参加は普遍的な民主的制度として定着している。したがって、国際社会の中での立場を考えると、民主主義国家の共通ルールというべき国民の直接的司法制度の採用は急務である。

 

 現在の司法制度改革審議会では「裁判員」が検討中である。内容的には、参審制度と陪審制度の折衷である。裁判官と裁判員が一緒に有罪・無罪を決定、量刑にかかわる点、判決理由がある点は参審制度で、裁判員を無作為に抽出する点は陪審制度である。「陪審制度でもなく参審制度でもない日本独自の制度」である。裁判官と裁判員の数は立法の判断に委ねられている。国民の司法参加は、裁判を一般の人にわかりやすくしなければならないし、もちろん国民の責任分担の自覚が求められていると考える。したがって、日本人の意識や社会の在り方を考えるに

考える。



=参考文献=

芦部信喜『憲法』岩波書店

山田晟『法学』東京大学出版会

兼子一共著『裁判法』有斐閣

東京弁護士会編集『陪審制度』ぎょうせい




 平成10年1月1日に施行された新民事訴訟法2条は、「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。」と規定している。これは旧民事訴訟法1条の「この規則は、訴訟が公正かつ迅速に行われるように解釈し、運用しなければならない」と、同法3条の、「裁判所は、審理が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者その他の訴訟関係者は、これに協力しなければならない」の理念を合わせたものともみられるが、それだけではなく、新法の理念が加えられ制定された。「民事訴訟が公正かつ迅速に行われるよう努め」と明文化されたことは、憲法上保障された「裁判を受ける権利」の具体化だけではなく、市民的及び政治的権利に関する国際規約の規定を実現する立法措置として意味がある。



この規定での「公正」とは、両当事者を平等に扱い、手続及び結論が正義に適っていること意味する。当事者にその言い分を主張することは、手続的正義の基本的な要請である。「迅速」とは、停滞なく時間的に早いというだけでなく、事案に応じた充実した審理が行われることを含んでいる。



そこで、民事訴訟制度には、どのような理想が考えられるか。次の4つが挙げられる。第一に、適性の理想であり、裁判の内容が正しく過誤のないことである。これには、事実の認定が真実と合致し、かつ、法規の解釈適用が適切であることが必要である。第二は、公平である。公正な裁判官が審理判決を担当し、主張立証の対等の機会を当事者に与えることが必要である。第三は迅速である、相当な審理期間内に訴訟の決着がつくことである。限られた国家予算を最も有効に活用し、また、当事者が過大な出費を強いられない、廉価な裁判を保障することも大切である。



しかし有限の資源という現実の制約を前提とする限り、これらの理想を同時に達成することは極めて困難である。とりわけ適正公平の要請と迅速廉価の要請との間の衝突が顕著であり、適切な調和を図ることは困難となり問題となる。



それでは、「適正公正」「迅速廉価」は、具体的にどのように運用されているか。

まず、訴訟の適正公正という点からいえば、民事訴訟の枠組みを構成している制度や原則、さらに手続き規則は、ほとんどが適正公正を目的としている。公開、対審、上訴・再審、合議制、除訴、忌避、異議権・責問権、証拠法、処分権主義、弁論主義、釈明権などである。



新法では、第一に、証拠収集手続きの強化、とくに文書提出命令の拡大(223条)である。旧法において提出義務は、一定の要件を具備している場合にのみ認められる限定義務であったが、新法はこの状況を変えようと一般義務の導入を図った(220条)。これは文書提出義務を一般化することにより、申立段階における文書の特定を緩和し、インカメラ手続きを導入したものであるが、結果として、証拠の偏在を是正、すなわち訴訟の適正公正に資することになる。



第二に、当事者照会制度である。迅速・公正かつ計画的な審理をより実現するための工夫として、当事者紹介制度を刷新し(163)、訴訟の早い段階で当事者間によって情報の共有化を図ろうとしている。

また、特許事務等について専門部のある裁判所への管轄の集中(6)や移送既定の弾力化(16条~20)も、より適切な裁判所での審理を可能にするという意味で、適正公正を確保するものといえる。



思うに、適性で公正な裁判を生み出すための保障は、公正な裁判所と適正な手続きにおいて実現される。文書提出義務は、裁判上証拠として価値ある文書をすべて提出させることで、構造的な証拠の偏在を克服し、法的救済が受けられるものであると考える。



次に、訴訟の迅速という視点からいえば、第一に争点整理手続き(164条~178条)と集中証拠調べ(182)である。これは口頭弁論前に十分に争点及び証拠を整理し、口頭弁論に入ったら集中的に証拠調べをして早期に判決を言い渡すことを狙いとするものである。争点整理手続きの整備は、手続の基本である口頭弁論に加え、準備的口頭弁論(164条~167条)、弁論準備手続き(168条~174)、及び書面による準備手続き(175条~178条)ことを目的とする。



第二に、随時提出主義からの適時提出主義(156条、162条)への転換である。適時提出主義は、口頭弁論ばかりでなく、訴訟の提喩津の際にすでに、請求を理由づける事実や証拠の記載、一定の種類の添付が要求されるし、第一回期日前に裁判所は進行参考事項を当事者から聴取することができることとなった。争点整理手続きにおいて、適時提出主義の効果として、その終了後の攻撃防御方法の提出につき説明義務が課されることとなった(167条、174条、178条)



第三に、迅速廉価という面で、少額訴訟手続きを採用したことである(368条~381条)。これは、アメリカの少額訴訟制度を見習ったものであり、少額の金銭問題を解決するために多額の弁護士費用がかかってしまう等の問題点を解釈しようとするものである。現在の日本において、簡易裁判所が扱う事件の事物管轄の上限が90万円に引き上げられたことから、地方裁判所化してしまったという更なる問題を解決するため、30万円以下の金銭支払い請求事件について、この制度が導入された。原則として1期日の審理で、即日判決を言い渡すものであり、この意味で反訴は許されていない。広く利用することができるように年10回の利用に限られている。この制度は高く評価され、上限が60万円に引き上げられることとなった。



第四に、最高裁への上告の制限(312条、318条)ひゃ、執行停止要件の厳格化(389条)である。法令違反の名を借りて本来最高裁が取り上げて判断するに値しないような事件までもが上告される問題点解決のため、導入された。判決の早期確定、権利の早期実現という意味で、訴訟の迅速の理念にもつながる面を有するともいえる。



第五に、電話会議方式による争点整理(1703項、1763項)、進行競技および少額訴訟の証人尋問(3723項)、テレビ会議方式による証人・当事者尋問(204条、210条)のような通信機器の裁判への導入は、当時者、代理人または証人の出廷の労を省くことを直接の目的とするが、訴訟の促進への点でも効果がある。



その他、当事者の不熱心な訴訟追行に対する対策強化である。具体的には、審理の現状に基づく導入(244条)と訴えの取り下げの擬制の容易化(263条)である。



思うに、争点を整理したうえで、適正な時期に、証拠を提出し、証拠調べをすることは確かに迅速という目的を達するものといえる。さらに、一連の手続きが原告・被告の両方に義務化されることは、当事者対等という適正公正にもつながるものといえる。




 何故、弁護権の保障について、米国の有効放棄法理が要件となり、行使・請求法理によることを否定するしかないという憲法理論が確立されたのだろうか。今日の刑事法運用での弁護権の重要性を見つめたうえで、有効放棄法理を十分に理由づけてみる試みをする。

 

 わが日本国憲法は、身柄の拘束を受けている場合には、被疑者・被告人の双方に対し弁護権を保障し(憲法34条)、被告人に対しては私選弁護人のみならず国選弁護人をも保障している(同法37条3項)。それを受けて刑事訴訟法は被疑者段階から弁護権を保障し(刑訴法30条)、被告人の国選弁護権については、「請求による」弁護人の国選(同法36条)と特別事情による職権による国選(同法37条)の制度を定めている。

 

 日本国憲法は、逮捕つまり身柄拘束を定める33条の次条に、身柄拘束に関する事前、事後の手続要件を定めたのであるから、そこでの弁護権は身柄拘束状態に着目している。つまり、逮捕や拘留という身柄拘束がその目的(逃亡と証拠隠滅の虞の防止という目的)を超えて事実上もできるだけ利用されないように弁護権を保障したのである。

 

日本国憲法の明文規定からいえば、解釈・運用上は、アメリカ合衆国憲法と同一の立場をとっている。アメリカ合衆国憲法第6修正は、「刑事訴追がされる場合には常に、被告発者は・・・、自己の防衛のために弁護人の助力を受ける権利を有する」と規定する。

 

合衆国憲法は、捜査段階での弁護権の内容と公判での弁護権は異なっており、捜査段階での弁護権は、「供述の自由」を保障することをねらいとしているように解されている。すなわち、捜査段階での弁護権は、基本権として、他の基本権と完全に独立したものではなく、「供述の自由」という基本権を保障する最重要の方策だと位置づけられている。

 

パウェル対アラバマ事件(Powell v. Alabama287 U.S.45(1932))が、合衆国最高裁の最初の弁護権の助力をうける権利の保障の法理の出発点であった。合衆国憲法第6修正に定める構造の公判において、被告人側が自己の立場を充分に展開できるように効果的な法律上の援助を弁護人から受けることがなければ、そこには公判はなく、公判の基本的公正が否定され、第14修正の適正手続の保障が害されることになると判示され、そのような効果的援助を提供して公正な公判を維持・確保するためには、少なくとも死刑事件にあっては、効果的な援助を実際に提供できる弁護人を、被告人が弁護権を有効に放棄しない限り、裁判所が国選しなければならないとした。その後の(Johnson v. Zerbst, 304 U.S.458(1938))で弁護権は対審構造の公判では必須の要件であり、これを欠けば公判ではなくなるとみられるほどの重要な権利であると判示され、有効放棄法理が確立された。ベッツ事件(Betts v. Brady, 316 U.S 455(1942))では特別事情法理が宣言されたが、ギデオン事件で判例は変更され、有効放棄法理が確立され、「請求法理」は違憲となった。

 

日本の判例は、「憲法37条3項は、被告人が自らこれを依頼することができないときと規定し、辯護人を依頼することのできないことについては、必ず依頼できないと言えるだけの相賞の事由がなければならない譯である。(中略) 被告人が貧困その他の事由の有無に拘わらず弁護人を選任する意思のない場合には、刑訴法上いわゆる強制弁護の場合を除いては、国が積極的に被告人のために弁護人を選任する必要はないのである(最判昭24.11.2刑集3巻11号1737頁)」と判示したものや、「所論憲法上の權利は被告人が自ら行使すべきもので裁判所、檢察官等は被告人がこの權利を行使する機會を與へ、その行使を妨げなければいいのである(最判昭24.11.30刑集3巻11号1987頁)と判示したものや、これらを「既に当裁判所の判示しているところであり、今これを変更する必要はない(最判昭28.4.1刑集7巻4号713頁)」と判示したものがある。我が最高裁は請求法理に立ち、刑訴法36条もこの立場に立つことは明らかである。

 

 思うに、弁護権は被告人にとって基本的な権利であり、それを放棄することで得られる権利は極めて小さい。そこで、請求をしなければ弁護権は放棄されていると解するよりも、有効に放棄しなければ弁護権は常に保障し続けなければならないとする「有効放棄法理」によるべきである。

 

まず、被疑者が任意に事情聴取に応じているためだけの被疑者を逮捕、拘留することは許されない。すなわち、取り調べだけを目的とするのであれば、被疑者の協力を求めて在宅のまま、取り調べれば、その目的は達せられる。捜査機関の便宜だけを考えれば、確かに被疑者を施設に収容して、捜査機関の都合のよいときに被疑者を取り調べることは考えられる。だが、個人の自由を、基本権に定める憲法下では、その自由は真に十分な切迫した要求がある場合にしか制限できないことになっているので、捜査機関に取り調べの便宜は逮捕・勾留を正当化させる理由になり得ない。つまり、逮捕・勾留は、犯罪を行ったことを疑うに足りる相当の理由がある被疑者の逃亡と罪証隠滅活動を防止するためだけに許されるのである。

 

そして公判構造に対審構造を用意するところでは、被告人が自らの立場を十分に公判で展開することが予定されている。そこでの被告人の活動は、公判の手続きについて、一般に被告人は不慣れであったり、冷静でなかったりするので、法律専門家である弁護人の効果的な助力がなければ、およそ、法の期待するものには成り得ない。このようにして、被告人の公判活動を被告人の公判活動を被告人の立場に立って助け、有罪・無罪に影響を与える重要な作用を弁護人の助力を営む。したがって、公判での弁護人の効果的な援助が欠けると、原則として、その公判手続きは無効とされ、その公判手続きの結果である裁判は破棄されなければならない。

 

貧困、不人気等の理由で弁護人を自ら依頼することができない被告人に、裁判所が効果的な弁護を提供できる能力資格をもつ弁護人を指定して公判を公正に保つことを憲法は定めている(憲法37条3項)。このように、公判の公平さにとって重要で不可欠の弁護人であるから、被告人が必要があると自らを考えて弁護人を請求した場合に限ってそれを附す請求法理は、憲法37条3項に違反するのではないかと思われる。

 したがって公判の公平さにとっての重大さを考えると、刑訴法36条の請求法理は改正した方がよいと思われる。




渥美東洋著『刑事訴訟法』中大出版部 2001年

渥美東洋著『刑事訴訟法』有斐閣 2001年

渥美東洋著『罪と罰を考える』有斐閣 1996年

渥美東洋著『レッスン刑事訴訟法〔中〕』中大出版部 1995年

松尾・井上共編『刑事訴訟法判例百選』別冊ジュリストNo148 有斐閣 1998年

=注=

(1) 衆議院個人情報の保護に関する特別委員会議録平成15年4月14日(第2号)および同月15日(第3号)中の細田博之国務大臣の答弁及び藤井内閣官房内閣審議官・藤井昭夫政府参考人の発言参照。

(2) S.D Warren & L.D.Brandeis,The Right to Privacy,4 HARV.L.REV..195 (1890)

(3) Roversich v.Rochester Folding Box Co.171N.Y.538,64 N.e.44281902)

(4) Pavesich v New England Life Insurance 381 US 479(1905)

(5) William L.Prosser,Privacy,48 Calif.L.Rev.383(1960)

(6) 大阪高判昭和39年5月30日判時381号17頁

(7) 東京地判昭和39年9月28日判時385号12頁

(8) 最大判昭和44年12月24日刑集23巻12号1625頁

(9) 最三小判昭和56年4月14日民集35巻3号620頁

(10) 最三小判平成7年9月5日判時1154号1頁

(11) 最三小判平成14年9月24日判時1802号60頁

(12) 最二小判平成15年3月14日判時1815号170頁

(13) エクイティ(Equity)は、15世紀に、エクイティ裁判所によって作られた判例法である。衡平法とも訳される。コモン・ロー裁判所によって作られた判例法がコモン・ローであり、互いに独自の法体系であったが、イギリスでは1875年に裁判所の統合が図られ、両者は同じ判例法として融合した。しかし長年別々の流れで発展してきたので、用語上は、コモン・ロー上の権利、エクイティ上の権利として使われることが多い。

(14) 大阪地判平成10年5月26日判時1661号108頁

(15) 各アプローチの主要論者

(a) 定義主義アプローチ フリード説、ラッシェル説、ライマン説、ショーマン説

(b) 道徳主義アプローチ ブラウスタイン説、ベン説、ガースティン説

(c) 還元主義のアプローチ サムソン説、プロッサー説

(d) 批判主義のアプローチ ウァッサーストラム説、ポズナー説

(16) 佐藤幸治著『憲法』青林書院 1995年

(17) 阪本昌成著『プライバシーの権利』成文堂 1982年

同著『プライバシー権論』日本評論社 1986年

(18) 棟居快行著『人権論の新構成』信山者 1992年

(19) 東京地裁昭和62年11月20日判時1258号22頁

(20) 東京地判平成13年2月6日判時1748号144頁

(21) 東京地判平成2年8月29日判時1382号92頁

(22) 神戸地判平成11年6月23日判時1700号99頁

(23) 大阪高判平成8年9月27日判タ931号188頁

(24) 東京高判平成9年3月12日高民集50巻3号12頁

(25) 東京地判昭和59年10月30日判時1137号29頁

(26) 東京高判昭和63年3月24日判時1268号15頁

(27) 大阪地判平成2年7月23日判時1362号97頁

(28) 大阪地判平成7年12月21日判時1580号126頁

(29) 東京高判平成14年1月16日判時1772号17頁・判タ1083号295頁




=参考文献=



清水睦著『憲法』中央大学通信教育部 2000年

樋口陽一著『憲法概論』放送大学教育振興会 1994年

佐藤幸治著『国家と人間=憲法の基本問題=』放送大学教育振興会 1997年

宇賀克也編著『法システムⅢ-情報法-』放送大学教育振興会 2002年

芦部信喜著『憲法』岩波書店 1996年

芦部信喜著『憲法判例を読む』岩波書店 1995年

佐藤幸治著『憲法』青林書院 1995年

佐藤幸治編著『要説コンメンタール日本国憲法』三省堂 1996年

法曹同人法学研究室『「佐藤憲法」解読入門』法曹同人 1993年

奥平康弘著『憲法Ⅲ』有斐閣 1993年

長尾一紘著『日本国憲法』世界思想社 1997年

平野武著『憲法と人権保障』晃洋書房 1998年

小林武著『人権保障の憲法論』晃洋書房 2002年

辻村みよ子著『憲法』日本評論社 2004年

伊藤正己著『プライバシーの権利』岩波書店 1963年

阪本昌成著『プライバシーの権利』成文堂 1982年

阪本昌成著『プライバシー権論』日本評論社 1986年

棟居快行著『人権論の新構成』信山者 1992年

松井茂紀著『アメリカ憲法入門』有斐閣 1995年

加藤紘捷著『概説イギリス憲法』勁草書房 2002年

大須賀明編『争点ノート 憲法』法学書院 1997年

浦田共編『演習ノート 憲法』法学書院 2000年

芦部信喜・高橋和之編『憲法判例百選Ⅰ』別冊ジュリストNo.130 有斐閣 1994年

右崎正博著『基本判例Ⅰ憲法』法学書院 1999年

堀部政男「個人情報・プライバシー保護の世界的潮流と日本」法セ 1988年 8月号

松井茂記「情報コントロール権としてのプライバシーの権利」法セ 1988年 8月号

石村・堀部共著『情報法入門』法律文化社 1999年

船越一幸著『情報とプライバシーの権利』北樹出版 2001年

岡村久道著『個人情報保護法入門』商事法務 2003年

個人情報保護基本法制研究会編『Q&A個人情報保護法』有斐閣 2003年

内藤篤・田代臣之共著『パブリシティ権概説』本鐸社 1999年