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名無しの唄

鼻歌と裏声の中間ぐらいの本気

歴史という題目のもとに語られる話の中には、非常にたくさんの人間が登場する。
高等学校までの段階では社会かという分類に属するが、それに恥じることなく、非常に多くの人間が関係しあいながら進行してきたのが歴史というものなのだから、それは当然のことだ。
そしてもう一つ、そこには当然のことがある。それは、そこに登場するほとんどの人間たちに会うことは叶わないということだ。過去に属する事象となった時それは歴史になるのであって、現在において邂逅することのできない人間で構成されている物語を歴史と呼ぶのである。

そしてそれを、たまらなく惜しいと思う。
例えば歴史を紐解いていく営みは、その心の隙間を埋めようとする行動なのかもしれない。
今や会うことのできない人について、手元に手繰り寄せることのできる最大限のヒントを集めて、想像するその内容は、その人が一体何を思っていたのかということだったりもする。
本人に会うことさえできればと、そう思ったことは一度や二度ではない。それは、研究上の都合が先行する感情とばかりは言えないものなのだと思う。

だから、それと似たような感覚なのだと思う。見も知らない人が行ったこともない場所で亡くなっていくことを惜しむのは。
関わり合いながら生きていくこの時代において、同席したという奇跡を受けながら、邂逅することがついに叶わなかったそのことが、世話になった知人の死とはまた違う強烈な動揺を誘うのだ。

だからまた、衝撃的な事件に遭った人と会い、生身の話を聞くことの感動は、やはり通底する感情なのだと思う。
その瞬間が如何に大切で、貴重で、かけがえのないものなのかを知り、そしてまた、解釈され省略され伝聞された情報では知りえない手触りがあることを知るのである。
それは、一人の人間が生きたことの証に触れた感動と言うことが出来るのかもしれない。

一期一会といえば十把一絡げだろうか。
しかしやはり、それは人間にとって重大な問題なのだ。
一寸先は闇、という。
それは得てして悲観の理論だ。
進めば即ち転ぶという。だからこそ転ばぬように準備や覚悟をすることが、教訓として導き出されることになる。

そして人は慎重になる。
歩む前に止まってみる。止まってなお遠めであっても見てからする。見て考えつつ考えを繰り返す。
そういうことを経ていくうちに、一番危険な状態を、何も見えていない状態を通り過ぎていくのである。
その後にこそ歩き出すことで、闇は既に無い。

しかし、と思う。
闇が晴れている状態ならば、確かに失望という契機を迎えることはない。
しかしそれは、希望ではないのであって、だからどちらかといえば絶望に近いのではないかと思う。
晴れ渡った一歩を進むその時には、踏み込む次の足の置場も見えているままだ。暗闇であるからこそ、その以歩を踏み出すに可能性という世界が広がっているのではないか。

暗闇は歩くに適さない。
自信を持って過信して、そのままに人生を組み立ててきた自分自身が、足元から蹴り飛ばされることになるかもしれない。
しかしそれでも、歩き出さないわけにはいかないときがあるのだ。見えていて失望も希望も無い状態では手に入らないものが欲しくて、だから暗闇という希望に賭けていくのだ。

待って巡り合う海路の日和には、きっと宝の光はない。
否定されながら、失敗をみながら、二度と歩き出すものかと思うほどの痛手を時に負いながら、それでも絶望よりはなお希望を望んで暗闇に踏み出したいと思うときがある。
資本主義の古典的な理念は、「神の見えざる手」である。
各個の本人は自分自身の利益追求に終始するのだが、それでもって自動的に全体の利益が達成されるというものだ。
それは、基本的には競争という原理に注目することによって、導き出される理論である。
しかし個人的には、人と人とが社会という連続性の中でしか生まれえないという、より根本的なところで始まった理屈なのではないかと考えている。

人間は社会を形成する生き物であり、生まれて死ぬまで片時も、何らの社会にも属さない時間というものはない。
全ての行動は社会から提供される前提を受け取りつつ、望むと望まざるとに関わらず、社会の中の向こう側にいる誰かに届くことになる。
それは意志に左右されるものではなく、おそらく人間が生きている限り、ましてその中核として仕事なんていうものをしているのならば、間違いなく発生する要素だ。

しからば、それを自覚するとしないとの違いは何か。
一つには本人の心持があり、今一つには他人に資することについての発展性や積極性にある。
もちろん、見えている成果の範囲は、本人の活動のモティベーションと直結する。同じ生産性を社会にもたらすとしても、それを全くの無自覚で行っている人は、それを知りつつ仕事をしている人に比べて、楽しさも喜びも少ないのではないだろうか。
そしてもう一つ、その自覚に伴う重要なことが、発展性と積極性だ。漫然と回転していく日常の中から、未だ完成していない形の幸福の新規なる創出や、あるいは日常が脱線した時の補完において、自分の役割を看破するための前提が、その自覚なのではないだろうか。

自覚せずとも人間は、他人に資する現実があり、だから多く職業や生に貴賤はない。
しかし願わくば、それを自覚できる人間として、手を動かしていきたいと思うのである。
人間というのはえてして悲観的なものだ。
平時はあたかも希望に満ち満ちて、自分自身に大きな自信を持っているかのような振る舞いをする。
時に他人に対して施しをしたり、何か強いメッセージを送ってみたりするのも、その中にあることだ。
そうやって演じていく良心と相互補完的に、自分自身の価値を獲得していくのだろう。
そしていつしか、本当に自分を信じていくようになる。

だけどそれは、まだきっと本物の真心ではない。
平時には積極的で、それを実行するだけの力に満ちているかに見えるとしても、いざという時本当にそのままでいられるだろうか。
目の前に、自分の知り得なかったほどの悲劇に遭って、言い訳できない悲観の中に沈んでいく世界を見た時、元気なままの自分でいられるのだろうか。
それが多分、人間の本当のところの実力なんじゃないかと思う。

往々にして、平らで静かな日常から組み立てたヤル気や元気は、脆いものなのだ。
他人の悲観は目をそらすことを命じていて、世界の悲観は閉じこもって逃げることを強いている。
あたかもそこに存在しているかのように振る舞いながらも、悲劇のその中には踏み込んでいかないような、そんな状態へと移り変わっていってしまうのだ。
その感覚を経験したことがある。

経験したことがあるからこそ、同時に、立ち向かっていく人の姿に感動したものだ。
自分の中の悲劇を越えていようとも、なお他人のためにすることを諦めない、そういう態度を目にしたとき、感じたのは自分の不甲斐なさのような悲観的な気持ではなかった。
その背中を今も何となく覚えていて、多分なんとなく追いかけているのではないかと思う。

愛、といえば、人間においては非常に多くの場面で使われる言葉である。
一つにはもちろん、人間同士の関係性においてだが、その他にも、集団に対して、物体に対して、分野に対して、あるいはもっと具体的なものにも抽象的なものにも向けられうる言葉だ。
そして、そのような表現全てをまとめて、一般的に愛と総称される感情の中には、実は二種類のものが対象を問わず混在している。
それは、嗜好と愛着だ。

嗜好とは、言ってしまえば好みだ。
相対的な意味において自分が選択をする傾向が強いもの、理由があって感情が生まれるという仕組みに成り立つものである。
それは、理由があるという意味で非常に手堅いものである。ゆえにそれを愛という大仰な言葉でもって表現することもままある。
しかし一方、先行する理由に依存しているという意味では、非常に不安定だという言い方もできる。

愛着とは、つまりそれとは別の愛である。
そこには先行する目立った理由がない。強いて言うならば、その対象と共にした体験そのものが理由であって、先行するものではなく同時的に発生するものが理由となる。
だからそこに相対性は成立せず、ただ一本の道筋の果てに、当然的必然的なこととして辿りついているところの愛である。
それは、理由がないという意味において曖昧であると批判されることもあろうが、一方で、上置的な要素を介在させずに発生するという意味で本質的な感情であり、それゆえに愛と表現されるに値しているのだろう。

両者の違いはまた、その発生と対象化においても存在する。
嗜好が発生するためには、理屈としては時間自体は必要ではない。もちろん実質はそうではないところがままあるが、本来の存在感としては、時間に依存せず人の頭の中に構築される。
一方で愛着は、その明確な理由を定義することをせず、体験と相互的に発生するものだから、理屈としてなお掛けた時間に大きく依存しているものであるといえよう。
さらに、嗜好というものは、一定の言語化された理由が存在するものであるから、類型化して、まとめて一つの対象として扱うことが可能だ。多くの人の嗜好を一度に同時に相手することができるのである。
一方で愛着は、各人が人間として歩んだ生の体験そのものと連なっているものであるから、類型化が不可能だ。全ての愛着は、一度に一人分しか対象化することができないのである。
端的に言って、嗜好は扱いやすく、愛着は扱いづらい、ということにもなるかもしれない。

両者は、人の心の中で完全な棲み分けを成されているものではない。
嗜好が愛着に育っていくことも、愛着が嗜好を作っていくことも、非常に日常的なことだ。あるいはまた、両者が混同され、実際のところ嗜好であると判断すべき状態を愛着と勘違いすることも多く、また逆もしかりだ。
しかし一つ、実感として思うことがある。人々が何か未来において期待するものとして言う場合、あるいはまた、現在を肯定的に信じて述べる場合には、使われている愛という表現の意味内容は、嗜好ではなく愛着のことだ。
その点をはっきりとさせていないからこそ、愛を育む営みは多くの失敗を生産するのであり、また愛という表現をめぐって多様な折衝が発生しているのではないだろうか。