見えざる手を見て | 名無しの唄

名無しの唄

鼻歌と裏声の中間ぐらいの本気

資本主義の古典的な理念は、「神の見えざる手」である。
各個の本人は自分自身の利益追求に終始するのだが、それでもって自動的に全体の利益が達成されるというものだ。
それは、基本的には競争という原理に注目することによって、導き出される理論である。
しかし個人的には、人と人とが社会という連続性の中でしか生まれえないという、より根本的なところで始まった理屈なのではないかと考えている。

人間は社会を形成する生き物であり、生まれて死ぬまで片時も、何らの社会にも属さない時間というものはない。
全ての行動は社会から提供される前提を受け取りつつ、望むと望まざるとに関わらず、社会の中の向こう側にいる誰かに届くことになる。
それは意志に左右されるものではなく、おそらく人間が生きている限り、ましてその中核として仕事なんていうものをしているのならば、間違いなく発生する要素だ。

しからば、それを自覚するとしないとの違いは何か。
一つには本人の心持があり、今一つには他人に資することについての発展性や積極性にある。
もちろん、見えている成果の範囲は、本人の活動のモティベーションと直結する。同じ生産性を社会にもたらすとしても、それを全くの無自覚で行っている人は、それを知りつつ仕事をしている人に比べて、楽しさも喜びも少ないのではないだろうか。
そしてもう一つ、その自覚に伴う重要なことが、発展性と積極性だ。漫然と回転していく日常の中から、未だ完成していない形の幸福の新規なる創出や、あるいは日常が脱線した時の補完において、自分の役割を看破するための前提が、その自覚なのではないだろうか。

自覚せずとも人間は、他人に資する現実があり、だから多く職業や生に貴賤はない。
しかし願わくば、それを自覚できる人間として、手を動かしていきたいと思うのである。