再生産の構造が新奇の開拓を忌避するという問題について | 名無しの唄

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選挙を前に各党を原発政策で読み比べてみたら「責任逃れ&争点隠し」のレトリックが見える!
『週刊プレイボーイ』で「古賀政経塾」の連載を持つ経産相の元幹部官僚・古賀茂明氏が、総選挙における各党..........≪続きを読む≫ 多く、資本による再生産を基本的な形態としている現代的な活動においては、再生産の持続性を担保することが必要とされることが多い。
即ち、何かの活動を起こすにおいて、必要な出費に対し、返ってくる採算が明確であることが前提として準備されなければならないとされるのである。
ある種当然のことで、自前で活動を維持するためには、一方的に出費するばかりでは滅亡は明確だからだ。

だから多くの活動においては、効果・採算が予測あるいは予定されるような質の作戦でなければ、発進することすらできないのである。
これは、しかし今になってある問題を孕んでいる構造だと言わざるをえない。すなわち、新奇を開拓することの障壁となっているのだ。
現代が現代という形になってからそれなりの時間が経ち、様々な場面で、修正を要するというだけでなく、限界が見えつつあるという形での問題噴出が見られる。
だとすれば、現代的な問題を解消し人類をなお未来へと継続させていくためには、完全に新しい分野や方法を構築する必要があるのだ。
しかしながら、前述のような、資本再生産の担保を前提とする活動様式は、未来の予測が難しい挑戦的な新奇の開拓に対しては、至極消極的であるという側面を持つのである。

当面、このような質の停滞状況がよく見られるのが、エネルギー問題である。
今現在存在しているエネルギー生産・確保・利用の方法は、その全てが何らかの危険や限界を明らかにされている。そのすべてが、全面的な依存も永続的な活用も不可能であるという現実があるのだ。
それにもかかわらず人間は膨大なエネルギーに支えられてようやく生存し生活しているのであり、だから同時に、問題があるから一方的に停止するという発想は殺人に等しい。
しからば、エネルギーを語るにあたって、唯一生産的な発想は、全く新しい方法に手を出すということであり、そのための、採算の予定できない出費を確保するということなのではないだろうか。
しかし、上のような再生産の発想が支配的な現実において、その態度は起こすことすら稀である。