母という人と母性というもの
素敵な母親が描かれている物語は多い。
だからこそ、母親とは大変だと思う。
そういう正解のように思える母親像が世の中にたくさんあるから。
子どもにとって、母親は特別だ。
母親や、周りの人に使うように彼女の気持ちを、彼女の考えに寄り添って、自分のものさしややり方を手放してみてあげたら、こんなにも思われていてことに気づいてあげられるだろうか。
兄弟がいたら、とふたりはそれぞれ考える
納得できるのだろうか、その分を埋めてくれるのだろうかと
確かに、一人っ子と複数の兄弟のいる親では、多少違うかもしれない。
私は三姉妹だ。
この歳になって思うのは、確かに1番にはなりにくい。だって比べられないから。明確な特別はもらえない。
でも、愛情に関して言うならば、それは姉がいたからではなく、母の表現だから、姉の有無による変化はきっとない。
少しだけ、自分に似通った気がしたのは
私は母に母親像を求めていた時期があって、自分の欲しい表現と違う思いやりを受け止められなかった時期があるからだと思った。
問題は私の受信能力の低さだった。
子どもは誰でも母親に優しくされたい。一番愛されたい。特別にされたい。褒められたい。
認められたいのだ。
(きっとこれは、のような心あるいは存在等に変わってずっとあるものだ)
私はどんな母親になるのだろう。
なれるのだろう。
彼女の最初の自信の土台をつくりたい。
揺らぐことのない、ものとして
歪みを感じながらも、これを咀嚼した先には
何かの答えがある気がして、話さずにはいられなかった。
母性/湊かなえ
あなたのためか、わたしのためか
いい人は得しない
気もする。
というより、いい人は最後救われるか、いい人であるために悲しい結末になるか
どちらかが物語の中では多い気がする。
いい人がいい人でいるのは、どうしてかな。
と考えてしまった。
いい人もきっと、いつだって誰にだっていい人ではないかもしれない。
大切に仕方がそれぞれあるように、他人だからこそ、分かりやすく優しく出来る時もある。
1番に伝えなきゃいけない人に、言葉よりも行動よりも、もっと遠くにあるものに懸命になって、彼らの今後を支えているかもしれない。
もしくは、大切な人を大切にするあまり、周りを棘で覆っている人もいるかもしれない。
母性/湊かなえ
を読んでいる最中ということもあって、きっとこんなことに考えを巡らせているのだ。
そこに出てくる彼女はいい人である、いい子であると同時にとても悲しい。
なぜなら、彼女は褒められたいからそれをして、愛されたいから選んでいるのだ。
歪みを感じるのだ。ひどく共感しながらも、それではダメだよと思うのだ。
けれど、そのことについては、また本を読み終えてから書こうと思う。
彼女のことをもっと知ってから。
今話したいのは違う話なのだけれど、どう言い換えようとしても、彼女の選択と違う言い方が出来なくて
彼女はフィルターが入っているだけで、あくまで自分で選んでいるし、あぁ、評価が関係ない善意。
これが1番近いかもしれない。
ともかく、ラストシーンで、彼らのとった選択はとても尊い。でも、それが全部上手くまとまるのは、全員が助かった時だけだ。
順番が後になればなるほど、危険は増していく
それでも先に先に行かせるのは、どうしてだろう
彼にも愛する家族があって、会いたい人がいて、居なくなってほしくないと今その瞬間に涙してる人がいる。
もう今にも崩れ落ちそうなビルの中で、諦めた彼に諦めるなと手を伸ばす彼も、みんなとともに外に出たって良かったのだ。
でも、彼は諦めるなと言い、手を伸ばした。
この2人のこの瞬間は誰も証言できてないであろうから、誰かの頭の中の話かもしれない。
でも、2人の行動について、考えていたんだ。
エンドロール中ずっと
2人はどうしてそんなことをしたのか
どうして選んだのか
確かに我先にと逃げ出したとする、誰かを押し退けてまで
それはきっと、悪い人のように映るだろう。
でも、誰もが理解出来る気持ちだと思う。
結局、思ったのだ。
2人は誰かのためにそれをしたわけではない。
もちろん、あなたに助かって欲しかった。
あなたを帰してあげたかった。
でも、なにより耐えられなかったのだ。
もしもしょうがないことだと見逃してしまったら、この先、自分として生きていけない。
きっとそういうことだ。
自分に恥じない人生を
僕が僕として生きていけるように
大きなものを目にした時、改めて思うのだいつだって
大切で大事なことを
もっと日常の近くに置いておかなければ
いつかはいつくるかなんて分からないし、毎日はいつ平凡な皮を脱ぎ去るか分からないのだから
ナインイレヴン 運命を分けた日