正しくは、『書を持って、病院へ行った』。
しかも服装がティーンみたいで恥ずかしい。(写真参照)
オレンジ色のチュニック?ワンピース?を何故この年齢で持っているのか、それが私自身一番分からない。
自分で買ったんだろうけど、
この服を買った動機とその時の自分の精神状態が理解できないでいる。
こんな若気で、私のタイプじゃない服を一度も着ていないというのは仕方ないことだけど、
買って一度も着ずに更に年をとることも恐怖だったので、
病院だったら誰にも合わないし、田舎の病院だからと開き直って着てみた。
黒のカーディガンがなかったら、
私は中学生並みの幼さを発揮するか、もしくは年齢にKYなおばさんになるか、際どいとこだった。
いや、これでも十分年齢不詳かな。
次にこの服を着るのはいつだろう(遠い目)。
病院といっても祖母のお見舞いで、
しかも明日退院するそうな。
良かった良かった。
寺山修司を読んで、
色々自分の身で思うところがあるのだけど、
結婚に夢も希望もなくて、結婚を諦めている私には、寺山修司のエッセイがまるで生き方のバイブルみたいに思えてきた。
1人で生きていくためには・・と考えたときに、
書を読む楽しみを享受しようとするだけだったけど、
1人なら一点豪華主義も悪くないんじゃないかと。
そして1人で生きて1人で死ぬということは、
ある種自殺のような準備がいるものだとも考えるようになった。
1人で生きて死ねようでも、
誰かしらや世間のしがらみというものに迷惑や心配をかけるものである。
その世間や近い人のしがらみを、如何に波風立たずに死んでいけるか、
これが自殺と似ている。
親が産んでくれたこの命を、
何も支障のない身体なのに、子孫も残さずに死んでいくことは、自殺の罪悪感と似てるんじゃないかとも思う。
はじめてのおつかいなんかを見てると、
本能として自分の子どもを産みたいとも思うし、
今日みたいに、おばあちゃんの老い先を考えると、私の年齢からしたら曾孫がいてもおかしくないのに、私には産む予定も決意も環境もないことが甚だ申し訳なくなる。
おばあちゃんに曾孫を見せてあげたいと思う気持ちは本物なのに、
私には結婚は無理だと思う気持ちも本心。
寺山修司の本は、このへんの私の葛藤を少し楽にしてくれる。
親や祖母や周りの人や過去の人や友達への罪悪を、
それでいいんだよと言ってくれてるようで。
あと気づいたことが、
私は自殺が好きなのかもということ。
もちろん人の自殺がね。
いや、自殺を推奨している訳ではなくて、
自殺はいけないものだと根本的に思っているけど、
自殺にすごく興味関心がある自分に気づいた。
私はもともと偉人伝が大好きで、
本好きな所以も偉人伝から入ったくらいなのだけど、
偉人伝のどこが好きかっていうと、その人がどのように生きていたかを知れて、どのような人物だったかを私の頭の中で推し量ることができるから。
だから、同じように歴史や文学も好き。
私は1人の人間だけど、本を読めばどんな体験でもできるような気がするから好き。
これには変わりないんだけど、
どのように生きたかを知るのと同じくらい、いやそれ以上にどのように死んだかということもめっちゃ気になる。
そういえば私は、人物の年表を読むときに、生まれた年と死んだ年を一番に見て、すぐ引き算して享年を出す癖がある。
たとえば、1912‐1961とかすぐ計算して、59歳で死んだんやなぁとなる。
この計算だったら、算数の式として出るより何倍も早く計算できる自信がある。
興味のレベルが違うんでしょうね。
黄熱病に尽力したのに、51歳で死んでしまった野口。(しかも黄熱病で)
彼の死を思うとき、自分の生きていることを思う。
神経衰弱の末、自殺した芥川。
自殺した彼の心の裡はまったく計り知れないけど、
計り知れないからそそられる部分がある。
そんな風に1人1人の死にめっちゃ関心がある。
『書を捨てよ、町へ出よう』の自殺のページを、私は食い入るように読んでるときに、
自分でやっと気づけました。
偉人の死んだ年齢を計算しまくったのは小学低学年のころからなのに、
この年でやっと気づいた。
相変わらず鈍感だ、私。
人の死は生きることと同じで、
一瞬の出来事のようで、だけど今も少しずつ死に向かって生きているし、
死ってそんなふうに深くて単純なものだから、めっちゃ興味がある。
死の中でも自殺が少し興味が深くなるのは、
自殺がきっと死の中でイレギュラーなんだろうと思う。
あと私が自殺しようというとこまで至ったことがないから、
自殺する心理に興味があるんだろうな。
あ、私は別に破滅的な人間ではないですよ。
酔狂でもないし。
ただ、この世界のこともまだまだ分からないし、人間なことも分からないし、自分の未知すぎるなと本を読む度に思うんです。
今日カープが勝てば言うことないな。
しかも服装がティーンみたいで恥ずかしい。(写真参照)
オレンジ色のチュニック?ワンピース?を何故この年齢で持っているのか、それが私自身一番分からない。
自分で買ったんだろうけど、
この服を買った動機とその時の自分の精神状態が理解できないでいる。
こんな若気で、私のタイプじゃない服を一度も着ていないというのは仕方ないことだけど、
買って一度も着ずに更に年をとることも恐怖だったので、
病院だったら誰にも合わないし、田舎の病院だからと開き直って着てみた。
黒のカーディガンがなかったら、
私は中学生並みの幼さを発揮するか、もしくは年齢にKYなおばさんになるか、際どいとこだった。
いや、これでも十分年齢不詳かな。
次にこの服を着るのはいつだろう(遠い目)。
病院といっても祖母のお見舞いで、
しかも明日退院するそうな。
良かった良かった。
寺山修司を読んで、
色々自分の身で思うところがあるのだけど、
結婚に夢も希望もなくて、結婚を諦めている私には、寺山修司のエッセイがまるで生き方のバイブルみたいに思えてきた。
1人で生きていくためには・・と考えたときに、
書を読む楽しみを享受しようとするだけだったけど、
1人なら一点豪華主義も悪くないんじゃないかと。
そして1人で生きて1人で死ぬということは、
ある種自殺のような準備がいるものだとも考えるようになった。
1人で生きて死ねようでも、
誰かしらや世間のしがらみというものに迷惑や心配をかけるものである。
その世間や近い人のしがらみを、如何に波風立たずに死んでいけるか、
これが自殺と似ている。
親が産んでくれたこの命を、
何も支障のない身体なのに、子孫も残さずに死んでいくことは、自殺の罪悪感と似てるんじゃないかとも思う。
はじめてのおつかいなんかを見てると、
本能として自分の子どもを産みたいとも思うし、
今日みたいに、おばあちゃんの老い先を考えると、私の年齢からしたら曾孫がいてもおかしくないのに、私には産む予定も決意も環境もないことが甚だ申し訳なくなる。
おばあちゃんに曾孫を見せてあげたいと思う気持ちは本物なのに、
私には結婚は無理だと思う気持ちも本心。
寺山修司の本は、このへんの私の葛藤を少し楽にしてくれる。
親や祖母や周りの人や過去の人や友達への罪悪を、
それでいいんだよと言ってくれてるようで。
あと気づいたことが、
私は自殺が好きなのかもということ。
もちろん人の自殺がね。
いや、自殺を推奨している訳ではなくて、
自殺はいけないものだと根本的に思っているけど、
自殺にすごく興味関心がある自分に気づいた。
私はもともと偉人伝が大好きで、
本好きな所以も偉人伝から入ったくらいなのだけど、
偉人伝のどこが好きかっていうと、その人がどのように生きていたかを知れて、どのような人物だったかを私の頭の中で推し量ることができるから。
だから、同じように歴史や文学も好き。
私は1人の人間だけど、本を読めばどんな体験でもできるような気がするから好き。
これには変わりないんだけど、
どのように生きたかを知るのと同じくらい、いやそれ以上にどのように死んだかということもめっちゃ気になる。
そういえば私は、人物の年表を読むときに、生まれた年と死んだ年を一番に見て、すぐ引き算して享年を出す癖がある。
たとえば、1912‐1961とかすぐ計算して、59歳で死んだんやなぁとなる。
この計算だったら、算数の式として出るより何倍も早く計算できる自信がある。
興味のレベルが違うんでしょうね。
黄熱病に尽力したのに、51歳で死んでしまった野口。(しかも黄熱病で)
彼の死を思うとき、自分の生きていることを思う。
神経衰弱の末、自殺した芥川。
自殺した彼の心の裡はまったく計り知れないけど、
計り知れないからそそられる部分がある。
そんな風に1人1人の死にめっちゃ関心がある。
『書を捨てよ、町へ出よう』の自殺のページを、私は食い入るように読んでるときに、
自分でやっと気づけました。
偉人の死んだ年齢を計算しまくったのは小学低学年のころからなのに、
この年でやっと気づいた。
相変わらず鈍感だ、私。
人の死は生きることと同じで、
一瞬の出来事のようで、だけど今も少しずつ死に向かって生きているし、
死ってそんなふうに深くて単純なものだから、めっちゃ興味がある。
死の中でも自殺が少し興味が深くなるのは、
自殺がきっと死の中でイレギュラーなんだろうと思う。
あと私が自殺しようというとこまで至ったことがないから、
自殺する心理に興味があるんだろうな。
あ、私は別に破滅的な人間ではないですよ。
酔狂でもないし。
ただ、この世界のこともまだまだ分からないし、人間なことも分からないし、自分の未知すぎるなと本を読む度に思うんです。
今日カープが勝てば言うことないな。
