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寺山修司のエッセイ。


近代日本の、いわゆる現代国語の文学史に残る作品が好きな私だけど、
寺山修司は初体験。


なんで寺山修司読んでなかったんじゃろ?と考えてみると、
私は小説を選り好んでいたなーと。



今さらながらに寺山修司な私。




これを読むと、
寺山修司という人間はどんだけ破綻してんだよと最初は思うんだけど、
読むにつれて、そのアウトサイダー的思考が物凄く眩しくて、魅力的に感じてくる。



きっと私が無難を選ぶ人間であるから、
寺山の言う『一点豪華主義』を出来ないと自覚してるから。


ないものねだり。




私は全てを捨てて家出をしようと思わないし、競馬もやらないし、ヤクザにもなりたくないし、自殺もしたくない。

その一切は寺山が薦めているものだ。


だけど、したくはないけど、したくなった時はあったし、したくなる時がくるかもしれない。



寺山修司はもう既にこれらの思考を体験済みで、深慮済み。
そしてそれらは、およそ私が考えても考えてもたどり着かないとこに帰着しているので、
エッセイとして面白い。

寺山修司という人が面白い。




私は割と二次元というか、妄想や空想の世界で生きているけれど、
この人もつくづくじゃないかな。


ただこの人ほど私は現実の生身の人間を考慮に入れてない。
私のは完璧に妄想。
寺山のそれは虚構。



虚構と現実を生きることはどんなにか苦しくて楽しいんだろう。


私もそんな思考を持ちたいと思った。



そんで、寺山修司の本、また読みたいなーと思った。


寺山修司という人間は私にとっていまだ不可思議だ。




ここで、この本のタイトル『書を捨てよ、町へ出よう』を考えてみる。


具体的に、っていうかタイトルには一切触れてはないのだけど、
私が読んで思うところは、


『書を読むことも血と肉になる、だけど読んでるだけじゃ虚構の枠組みでさえ捉えられないよ。さぁ町へ出て、人間や現実と触れるのだ。そこにも血と肉となるドラマがある。』


という意味かなーと思う。




本を読んでいて、心に引っ掛かる言葉や詩や歌は沢山あったんだけど、
そこを過ぎるとすぐ忘れる(・_・;)ガビーン



寺山が少年時代によく聞いたという『石童丸』という歌の歌詞を読んだら、
こりゃ私が行った高校で高校の歌みたいな感じでよく歌った歌だと気づいた。


高校では、『石童丸』という題名ではなかったから最初ピンとこなかったけど、
歌詞がモロだった。



ルーツを知るというのは、やけに得をした気分になるもの。



この本には沢山の詩が抜粋されていて、
文章の中によく出てくる。


寺山自体も詩を書く人だから、
それはもう言葉を飲むように沢山の詩を読むことが生活の一部だったのだろうなぁと思う。


私はというと、詩といっても教科書に載ってるような有名なのと、宮沢賢治や石川啄木、中原中也や谷川さんなどの有名どころをサラッと読んだことあるくらいで、
読んで身につまされたり、苦悩したり、助けられたりしたことないので、
読んですぐ忘れてしまって、私の一部になってない。



そんな私はこの本を読んで、もっと詩を読まないとなーと痛感させられた。



詩だ、詩。




やはり名作と呼ばれるものや、古典、人間の歴史、詩を咀嚼しなければ一歩深いレベルの人間思考は持てない気がする。



ってか読んでも読んでも、知識と本は未だ眼前に、否、頭上に高くある。


果てしなーーい(笑)



あ、余談だけど、
私がこの本を読む前に寺山修司について知っていたことは、寺山修司がゲイだということ。



だけど、読んでると、
この人は本当にゲイか??ってくらい、綺麗な女性が好きな男だった。


だけど逆にそこがゲイっぽかった。


肉体的にはバイなんだろうけど、
精神的にはゲイなんだろうなーが結論。



星新一と寺山修司、今著作をコンプしたい作家。


星新一だけで莫大な既刊があるのに!!


ブヒャー!!