ドールに関するある本をチラ読みしていたら、人類はその歴史の最初の頃から、

石ころや枝を人に見立てて人形遊びをしていたに違いない、という一文に出会った。

ほぉ。

それが本当だとすれば、人が人形を愛でるのは、ほとんど本能に近いものなのだな。

人が、というよりは、やはり、(昨今のジェンダー問題は横においておくとして)、

女の子が母親になるまでの、本能的なトレーニングに近いものかもしれない。

 

幼い男の子を放置すると、どっからかボッコ(枝とか棒)を見つけて拾ってくる、あれと同じだな。

攻撃本能をほとんど持たない我が息子ですら、幼少時、ボッコを見つけると拾ってきたからな。

 

では、子育てがとっくに終わった、私のような世代は、どうなんだ?

メルカリなんかのドール服出品者には、私世代の人も多い。

多くの出品者にとって、販売はおそらくオマケか、ついでのようなもので、

ただただ、好きで作っている、好きでなければできないことだ、と想像する。

実際、自分が作りたいものを作る、ので、オーダーは受けない、という人が多い。

 

購入後、挨拶程度の簡単なメッセージを交わすことが多いが、そういう中で、

私が60年ぶりに発見したタミーちゃんで遊んでいることを伝えると、

自分も幼少期にタミーちゃんが欲しかったが親に買ってもらえず、

今になって、メルカリで手に入れた子で遊んでいる、という方が、結構、おられる。

うらやましい、なんて言われてしまう。

 

貧しい母子家庭で育った私がどうしてタミーちゃんを持っていたか、あまり記憶にないのだが、

ただ、わずかに覚えている気がするのが、自分が、並んでいる中で一番安いタミーちゃんを選んだことだ。

それは一番シンプルな袖なし・襟なしのワンピースを着たタミーちゃんで、

きっと豪華なドレスなど着た子を選びたかったとしても、それがお年玉で買えるぎりぎりだったんだろう。

そう、当時、正月に親戚が集まる場に連れていかれ、お年玉をもらえたので、多分、それで買ったのだな。

 

そのシンプルなワンピースは、60年を経た今も私の手元にあり、

メルカリでときどき、結構なお値段で出品されているのを見る。

ふっふ、うちにあるぞ、(だからなんだ)。

 

子育ても、場合によっては孫育ても終わった年代で、ドール遊びに目覚める、その心の内はと言うと、

私なんかは、ドールに触れると、何かしてやらなければ、という気持ちになる。

それは、お着替えだったり、髪をなでるだったり、ただなんとなく触れる、だったり、(時に話しかけたり笑)、

子供なり孫なりを、育てるということの、疑似行為なのだと思う。

私はできないが、服が作れる人であれば、作ってあげたくなる、そういうことなんだろう。

育てる子も、育てを助ける孫もいなくなり、誰かからのヘルプ要請も来ない、そんな年齢になって、

そんなこと言わないで何かさせてよ、と、心の奥で、思っているものが、あるのかもしれない。

 

だってさ、太古の昔、人間がこんなに長生きすることなんて、想定されてなかったんだからね!

子育て・孫育てまでは、本能として組み込まれた部分があったとしても、本来、寿命はそこまでだった、

ある年齢で、その本能を解除する機能なんて、神様だって、必要と思っていなかったはずだ。

だから、人により、ある年齢で、ちょっとした刺激で、それは目覚めてしまうのに、違いない。

 

孫はかわいいが、その孫たちも、あっという間に大きくなり、

ばーちゃん、ばーちゃんと飛びついてくれることも、すぐになくなる、

そもそも人間ができていない私などは、そのときが来れば、相当に戸惑うことだろうが、

自立した子や孫を、待って、待って、と追いかけるような老後だけは送りたくないと思う、

そのときに、自分の心に眠る「何かさせてよ」を満たしてくれるものが、ドールであるなら、

どんなに触ろうが、追いかけようが、ドールは怒らない、嫌がらないのだから、

まぁなんと、ありがたい存在なんだろう。

 

   ***   ***   ***   ***

 

そうそう、一言、付け加えておこう。

子や孫は、自立の方向へ、離れていくからこそ、追いかけたくなる。

追いかけないために、心の準備が、必要だ。

 

自立しない、できないとなれば、また、別の話である。

どこぞのリーダーたちみたいに、150歳まで生きられる、なんて、本気で信じていない限り、

親が先にいなくなるのが順番というものなのだから、

自分の寿命の範囲で背負いきれないものは、どうしたものか、と悩むしかない。