今から60年余り前の13、4歳頃、父親の許可を得て桑畑を田圃へ移行開拓するにあたり。、、、石器が出土すると想定できる山際の町営用水(町に売却した処の)境界線近くを発掘する。

_________小学生の5年生頃から縄文人の居住地や後の時代の墳墓場所が発掘前に想定できる才能の様なものがり」小鹿野小学校や中学校のグランド整備前に担任(竹内先生/小学5年)の先生へ進言したりしていた。→よって、偶然お出来事で公的にも認知されることも重なり「出土品」の展示も残っていると思われる!?。

その田圃に改変する畑を発掘し。更に家族総出で開墾時に、その都度、作業を止め 計14個あまりのご覧の「石器」を発掘した。

その石器は庭の<土留め用>に使っていたが、可哀想なので→箱額に額装してアトリエに展示することにする。____小鹿野地方での「石器」は表面採集もできたので、他にいくつかプラスしている=元々「奈倉」の土地60〜70パーセントは一族の土地にて」そこからの採集です。