最近気づいた事なんだけど “愛の定義の基準”ってなんだろうな?と思うの。
みーんな人それぞれ育った環境が違うし、その中で育まれた“愛”に対する価値観も違う。
前日、手話レッスンの時、さちさんが話してた中でハッとした事があったの。
「人はみーんなそれぞれ違うから、その違いを認めて、
その人の個性が生きればいいなぁ」
ホンマにそやなぁ~って思う。
一番わかりやすい例えで言うなら、
男と女って、身体の作りが違うのと同じように、考え方も違う。
女の人が、男の人のやることがわからない、と思うのと同じように
男の人が、女の人のやることがわからない、と感じている。
それと同じように、同じ同性(オトコとオトコ&オンナとオンナ)でも、
考え方や価値観が違うっていうのってあるんだよね。
“愛”の定義の基準って…なんだろうな。
その人が育ってきた“環境”
その人が今まで経験してきた“過去”
その人が今まで味わってきた“心の痛み”
その人が感じている“想い” などなど
その人が形成された今までのことも含めて
みーんな みーんなそれぞれ 『愛し方』って違うんだよね
そう思うと、相手が、自分が 『?』 と思う愛し方をしていても
“ああ、あなたは、そういう愛し方をするんだなぁ~”って 客観的に受け容れられるから。
その人の現在の状況も配慮しながら、自分が望む以上のコトを求めない。
また、愛したから身返りを求めることもない。
ただ、自分がその人を“愛している”だけだから。
それだけで人は 満ち足れる。
何も壁もつけてない こころオープンに 自分の“想い”を伝えあえるのは
お互いに愛しているから なんだよね
相手が 私の“想い”や“感じている事”などなどを 知ろうとする姿勢
私が 相手の“想い”や“感じている事”などなどを 知ろうとする姿勢
それは お互いにその人の“あるがまま”を受け容れて 大切にしようとしてくれているから
だから本当に、会話は『聴くこと』がすごく大切なんだなぁ…。
世間一般的な常識や価値観での定義をつけた“愛”で見てしまったら、
“愛”は『限界』を伴ってくる。
本当に“愛”は いろんなカタチがあって
もっともっと無限に広がっていくものだと私は感じているの。
どんな人であっても 柔軟に受け容れられる人に 私はなりたいな
(まだまだ器が小さいし狭いなぁーーー(ーー;)
こういう私も、まだまだ修業が足りませぬー。
歩みは遠いな…)