【虎のソナタ】イチ、生涯にたった1度バットに八つ当たり | 浜のおじさん&週末はオリックス親父( ̄∀ ̄)のブログ
 若いトラ番の頃、イチローという打者になんとなく興味を持った。鈴木一朗を「イチロー」に変えた仰木彬という監督にも聞いた。やがて滋賀大の心理学の教授にもイチローというアスリートの分析を直接聞いてみた。
 彼の素晴らしさは「常に窓から隣のテレビの音が聞こえてくるように、自分の思考を集中していく能力があった」といわれて、キョトンとするしかなかった。
 イチローが小4から父と通った名古屋の「空港バッティングセンター」にも行った。「もっと速い球を」とイチロー少年はズルズルと前に出て、マシンとホームベースの中間まで出てしまった。その地点にはイチローラインが引いてあった。
 小6の時から大切にしていた金魚を、プロ入りしたときに豊山中の池にソッとはなして「もう僕の手が届かなくなる。元気でナ…」とささやいた池も見た。彼の通った保育所にも行ってみた…。
 どれだけの人がこの天才打者に触れ、通りすぎていったのだろう。
 そのイチローが1993年6月12日、プロ2年目に1軍に帯同して長岡・悠久山球場での近鉄戦。野茂英雄からプロ初本塁打を打った。アレはフォーク? と聞いたら「僕みたいなペェペェにはそんな球は投げてくれませんョ」と言った。
 試合後、当時の監督土井正三は「2軍で再調整」を命じた。イチローはその時、愛工大名電高の恩師中村豪監督に電話してハラハラと落涙した。
 「なぜなんですか」
 後にこのコトを土井さんに直接取材したら、巨人の名二塁手土井は筆者にこういった。
 「あのまま有頂天になったら単なる大振りの打者で終わる。もっと練習をさせるためにも1軍帯同よりは2軍で鍛え直すことが必要だと思った」
 根拠はあった。しかし、土井はこう続けた。
 「私の失敗はその真意を彼に説明してやらなかったことです。だから、彼の悔し涙はわかる。ちゃんと説明してやればよかった…」
 かつて阪神・中村勝広監督が成績不振で1995年、夏場に阪神の監督を休養して藤田平と交代した。この時、主砲新庄剛志は練習に遅刻した。藤田監督は即座に正座を命じ、ファンと報道陣の前で正座させられた新庄は反省の前に指揮官に反発し、スレ違っていく。
 その1年後の1996年7月6日、神戸での近鉄戦。イチローは小池秀郎の139キロの速球を空振り三振。
 「チクショウ!」
 彼は地面にバットをたたきつけた。生涯でタッタ一度だけバットに八つ当たりした瞬間である。のちに仰木監督は「あんなイチローをみたのは初めて」とソッといった。
 その後にイチローのバットを専門に作っていた名人K氏を訪ねたとき、こんな話を聞いた。
 「彼はあの1球が恥ずかしかった。ソレを悔やんだ。しかし、彼は私の作ったバットのグリップのミリ単位の狂いもニコのミリ単位の狂いもニコヤカに、そして見事に指摘してきた。それがイチローなのですョ」
 ため息のでるような話はたくさんある。その打者がこの夜、多くの記録を残してユニホームを脱ぐ。
 1958年、長嶋茂雄はプロデビューで金田正一の19球にかすりもしなかった。4打席4三振…川上哲治監督は、自分の車に肩を落とした長嶋を乗せて、黙って送ってやった。「長嶋君はその現実を120%受け止めようとしていたんだ」と川上さんはいった。
 Do not coach(教えすぎるな…)川上さんは「それを長嶋君は理解してくれた…」といった。それをフト思い出した。イチローはその道を歩むのだろう…。