『検証ナチスは「良いこと」もしたのか』小野寺拓也/田野大輔 | ななほん

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読書が好きなわたしの、日々の読書記録です。
お仕事では身体を、読書では頭もしっかり動かしたい。
文学が好きですが、ジャンルとらわれずまんべんなく読むようにしてます。
たまに映画。



 

賛否両論あるとは思いますが、わたしは戦争で実際何が行われたのかなど、その詳細を知る必要はないと思っていて、こちらナチスや特攻隊など世界中の悲痛で残虐な戦争の内容は実はあまり知らないし、この先も今のところ積極的に知ろうとは思っていません。

でも過去の戦争を忘れないということは大切だと思うから、黙とうをする祈りを捧げるなど、わたしがしっくりくるやり方で戦争に思いを寄せてきましたが、あるきっかけがありX(旧twitter)でも話題になったというこの本を読むことになりました。

 

結果、この本を読んでナチスの政策の詳細を知れたことをよかったとは思わなかった。

残酷なシーンはなかったけど、そもそも興味がないのと知りたくないのと教科書みたいに感じてしまったのとで、本題であるナチスの政策の部分は目が滑りまくりでしたが、わたしにはまったく理解できないナチスの政策をどうして「良いこと」だととらえる人がいるのか、わたしとその人の違いは何なのか、ということを考えることができたのはとてもよかった。


善悪の判断って人それぞれの価値観だから、みたいな感じでモヤっとしてることが多くて、それはそれで仕方ないことなんだけど、今回は善悪の判断が個人ではなく「国の政策」だったので、いつもとすこし違った見方で判断できたというか。説明が難しいけど、「国の政策」には「国民に利益を生む」という目的があって、それが達成できてるかできてないかという判断で善悪が決まるというのは、個人よりは比較的判断基準がはっきりしているというか。

 

それでもわたし自身は、倫理的な判断はとりあえず置いといて、どの政策も幸せの形を国から押し付けられてるような気がして、自分の判断や選択肢がないという時点で「良いこと」とは感じられなかったし、純血種は弱くなりがちなように、ある一定の身体性精神性の条件で集められた民族が優秀で強いとも感じられませんでした。




ナチスを「絶対悪」としてきた「政治的正しさ(ポリコレ)」の専制、学校を通じて押し付けられる「綺麗事」の支配への反発である。ナチスの「良い政策」をことさらに強調することで、彼らは自分たちの言動を制約する「正義」や「良識」の信用を貶め、その「抑圧」からの脱却をはかっているのである。



 

 


最近は確定申告やら名義変更やら何やらで、なかなか読書する心の余裕がないのがツラいところです。。。


積読もたまってるし、テキパキさくっと終わらせたいと思います(と言い聞かせてみる)。