徒然名夢子 -7ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊

 

 

 

(その2 ここから)

 さて、一方では、犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち)は、去年の七月七日の危難にあい、荒芽山路(あらめやまじ)を越えることができず、踏み留まっては、立ち塞がり、追来る敵を防いでいると、道節、信乃、荘助等と、別れ別れになってしまい、遂にはお互い行方がわからなくなり、ようやく追っ手を斬り退けて、どこかもわからない深山の路に、迷ってしまい、辛うじて信濃を目指して、二日、三日、進んでみても道節等には、決して会えることが無く、心はますます不安に感じ、腹の内に次の様に思った。

 「私の友人達は、幾度となく、必死の危機にあっているが、神明仏陀が守っているのか、または瑞玉(ずいぎょく)の奇特(きどく)によるものなのか、この身が無事でいるのを考えれば、犬塚、犬山、と四人の友は撃たれたことはあるべからず。そで信濃路に、誰か知り合いでもいないかと、心当ては無いのだが、はじめから行方を定めず、どこなく目指して訪ねれば良いだろう。進退はすでに失ってしまった。その中で、小文吾だけは、曳手と単節を伴って、逃れて故郷へ帰ろうとしたが、行方は定かに知られてしまった。なお、五六日をこの辺りの土地を探索して、三人の友に出会えなければ、まず行徳へ赴いて、犬田に告げて相談しよう。これより他に方法はない」

 と思案をしつつ、あちこちに旅宿を求めて探したけれども、一人の犬士にも逢うことができず、七月(ふつき)も中頃になって、ようやくあきらめて、下総を目指して行くと、その月の二十日過ぎ、三日四日という頃に、既に行徳に到着し、そのまま、勝手知ったる古那屋の門から入ろうとして、周囲を見ると、思いかけなく、戸が閉められていて人影などはなかった。

 「これはどうしたのか」

 と訝しながら、抜けていた戸穴(とふし)に片目を寄せ手、家の中を窺うと、すっかり空き家になっていたので、どうしたらよいかと退いて、四隣(あたり)の人を訪ねると、その人は次の様に答えて、

 「そういえば、小文吾殿が六月下旬に、家出して帰ってきませんでした。老父(おやじ)は安房の親族の元に呼び止められたそうで、その地にいるそうだ。そういうことだから、奴婢達は、身の暇をとらせてしまったので、ご覧のように空き家になったのです」

 と言うと、現八は納得せず、

 「そうならば、古那屋の縁者である市川の犬江屋は、どうなっていますか」

 と再び問うと、頭を振って、

 「いや、犬江屋はここよりも増して、不幸が続いたようですよ。ご存知かどうかわかりませんが、房八夫婦は六月の頃亡くなって、加えて、幼子は神隠しにあったそうで、行方も知らずになってしまったとか。このような事ですからお袋の妙真様は、果てしない嘆きに身を置きかねて、これも安房の親族の元へ赴かれて、今になっても帰ってきません。留守には篙工(かこ)等と耳の遠い、婆々(ばば)のみしかいないと噂されています。とても痛ましいこどです」

 と告げると、それに現八は驚いて、

 「それは、それは」

 とばかりに、執念として退きかねていたところ、このような事がなければ、なおよそよそしく応えながら、人のいない方に歩き出して、一人になって思案をし、

 「せっかくこことまで来た甲斐が、王城の地を踏まずして、どこかを目指すべきだろうか。旅行者が集まる都会の地に行けば、人を探すことができるだろう」

 と思うと、心が忙しくなり、そうこうしているうちに、京都(みやこ)を目指して旅宿を計画して、日毎、名所古跡を訪ね、巡ると、応仁の乱以降、兵火に荒れてしまった都というのは、名前ばかりで、聞いていたような光景ではなかったが、都の習わしは、さすがに美しかった。そして文学武芸の師の門戸を開いている人も多かった。これで現八も、いつしか知っている人といっしょに、互いに訪いつつ、訪われつつ、今年は暮れまで過ごして、春までの旅宿をすごそうと考えていたのだった。

 そのとき、現八は思った。

 「路銀も限りがあり、旅宿も日程が限られるだろう、よく考えなくては、後悔するだろう。私もこれまで収得した剣術拳法(けんじゅつやわら)を人に教えて、小銭を稼げば、逗留中の雑費に使えるだろう」

 と、云々と親しい人に語らうように、故きを捨てて新しきに付くのは、世間の習俗であるから、ある人をさっさと弟子にして、始めは一人、二人だが、武芸の評判が高まれば、門人も増えていくだろう。この時にも、現八は、長く留まるつもりがなく、人が勧めても住み家を固定せず、貸座敷といった場所で、庭を武芸の稽古所にして、雨降る日には請われるままに、弟子の宿所に赴いて、数人を教えたたのだった。そのせいか、武芸の評判が高まり、現八はいつのまにか、都に留まるところ、すでに三年を経ってしまった。




(その2 ここまで)