新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊
(その3 ここから)
時に文明十二年(1482年)[注1]、小文吾が市川から鎌倉へ向かった翌年、その文月(七月)の、星祭る頃(七夕)になるころ、過ごした事が忍ばれて、現八はある朝、急ぎ起き出して、
「私が四犬士と別れてから、ひたすら探し逢おうと、東西百里を往復して、図らず京都に逗留し、日も重ねて、今はすでに一年を過ぎただろうか[注2]。そして、昨夜見た夢で、犬塚信乃は大八の親兵衛をかき抱いて、犬山、犬川、犬田と一緒に、私のこの旅宿に訪ね来て、たいそうな恨み節を述べて聞かせようとしたときに、枕に響く鐘の音で、驚いて目覚めてみれば、まだ夜は丑の刻だった。仏説に聞く、泡沫夢幻(ほうまつむげん)は、頼んでも不足する事ではあるが、遺憾さも限りないが、逆に気分が悪い。かの五犬士は、異姓の兄弟、骨肉にます刎頸の交わり(ふんけいのまじわり、友人の為ならば首をはねられても良いというほど、強い結びつき)を仇にして、恨まれる自分なのだけれども、路銀も乏しくなったために、旅宿に居ながら、弟子を集めて、武芸を教えて日銭を稼ぎ、名利を願う者に、似ているといわれるだろう。老幼順逆は世に多くあり、人の命の限りを知る事は難しい。私の命数は、はやくも尽きて、このまま死ぬことがあれば、四犬士は後で聞いて、
『現八は残念な奴だ、誓いに背いて約束を違(たが)えて、相わかれたのを幸いに、長いこと京都に住んで、自分一人の名利を得ようとしたのだ』
と言われる事は間違いない。そうならないように我が身の事を、誰かに知らせておくべきだろう。そうしなければ、死んでも朽ちることなどできず、千載不滅の遺恨になってしまう。さっそくこの場所を去って、再び東に向かおう。西国、四国も探したいのだけれども、思うに私の友達は、皆関東で生まれている。遠く京都へ越えて来て、四国に居るとは考えられない。その中に犬江親兵衛は神隠しにあったというが、一昨年この地に来る頃には、遠くは山との葛城大峰、近くは愛宕、高尾鞍馬、深山、山々に登山して捜索したが、見付けることはできなく、その甲斐はなかった。今度は東海道を真っ直ぐに鎌倉へ向かおうかと思うが、伊勢、尾張より東には諸侯が各々割拠して、新関(にいぜき、[注3])が多くあり、旅人の往還は不便であるということを聞いているが、それは確かだろう。そういうわけだから、また、近江路から中山道を下るほうがよいだろう」
と決心して、思い定めたが、武芸塾の門人の数人の人には、
「故郷の親族から、急に招かれる事がありました。そこで東国(あずま)へ帰ろうと思います。この事を漏れなく他の人にも伝えてください」
と言うと、聞いた人は驚いて、言葉を尽くして留めようとしたが、現八は留まるつもりなどないので、事の理由を云々と、同門人に伝えることになり、現八は一日もはやく、立ち去ろうかと思うのだが、門人の皆々は別れを惜しみ、留別ののため、宴を開き、それぞれの献杯、別の場所での饗膳が開かれるなどで、招かれる日も多くなり、七月は過ぎて、八月の、すでに半ばになってしまい、現八は密かに苛立って、頻りに宴を辞して、旅立ちと準備に、他事をないようにしていたので、門人達は、留めかねて、銭を集めて銀に替えて、贈って現八の路銀にしたのだった。
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[注1] 文明は応仁の後で、文明十年に古河公方足利成氏と関東管領上杉顕定が和睦し、享徳の乱以降、享徳年号を使い続けていた古河公方支配の領地で、元号が文明に統一された。これにより後土御門天皇と室町幕府将軍・足利義政、義尚の中央政権と、鎌倉関東管領・古河公方の東方政権による政治体制が確立されはじめた。結果的には文明十四年十一月二十七日の、室町幕府と古河公方との都鄙和睦で正式な和睦を待つことになる。
[注2] 前節(その1)では三年過ぎた、と作者は書いているので、東西を捜索し二年、京都に逗留して一年、合計三年過ぎたということ。
[注3] 新関:室町幕府と古河公方、関東管領が和睦を結ぼうとしている時期で、幕府により冊封されていた守護大名は、領地境の街道に、新たな関所を設け反乱分子などの移動を制御し始めた。
(その3 ここまで)