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徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊


第五十九回 京鎌倉二犬士憶念四友 下毛州赤岩庚申山紀事
      京鎌倉に二犬士四友を憶念す 下毛州赤岩庚申山の紀事(きじ)

 

 

(その4 ここから)

 そして、現八は、旅装を整えて、次の日の朝、門人等と別れて、東へと帰ろうとしていると、後に先になって逢坂山の辺(ほとり)まで、送り行く者が多くて、さらに、別れるのを押し止めるなどして、やっとのことで袂(たもと)を分けて、急ぐ必要の無い旅も急いでみたりして、その日は進むこと十里あまり、守山(もりやま)の里で宿を求めて、もう少し行くと、既に日が落ちて、上野(こうずけ)の遭坂(あうさか)の里にまで来たのだった。

 「三年以来、三回までも、この山里を過(よぎ)りはしたものの、遭坂は、ただ名のみで、思っている友には遭えるわけでもない。ここから荒芽山(あらめやま)までは、距離も遠くない。せめては旅の思い出で、姥雪(うばゆき)夫婦が討ち死にした、あとでも拝もうか」

 と雲が落ちた妙義山(みょうぎやま)の山辺に進み入ると、半日にして、既に早くも、例の山のそばにある、かの焼け跡に来てみれば、草があちこちへ生い茂って、半ば焦がれた常緑樹の枝が伸びて、葉が茂り、また栄えることが多いとは言うが、あったと思われる家は埋まってしまっていて、再び住む人もいなかった。

 「忠臣孝子(ちゅうしんこうし、忠義の家来であり、親孝行の子)、義故節婦(ぎこせつふ、かつて恩義のある人、操をたてる婦人)も、時に遇わねば(合致しなければ)世間にも知られることはない。主人の為に身を殺したとしても、祀られずに鬼となってしまうまでに、旅魂(りょこん、旅人の魂)はなおも彷徨っているかもしれない。とても憐れに思わざるを得ない。これを思い、彼を思えば、別れた友こそなつかしいばかりだ」

 と独り言を言いながら、徘徊していると、惆然(ちょうねん、失意を感じること)として嗟歎(さたん)を耐えることができず、暮れぬ間にと元来た道を戻り、一人道辺の茅萱の露が袖を濡らして、その夜を妙義山の山麓である、ある草屋で夜を過ごして、現八は、ひとり考えた。

 「上野(こうづけ)から、武蔵相模へ向かう順路だが、一昨年の秋、下総に向かって行き倒れそうになった路と同じだ。この度は下野(しもづけ)に向かって、二荒山(にこうさん)にも登って、さらに陸奥の果てまでも足を伸ばして捜索できるだろうか。我が、四犬士は、鎌倉などという繁華(はんか)な土地ではなかなか、僑居(きょうきょ、仮住まい)できないだろう」

 と、思案をしつつ次の日は、また遭坂まで戻って、高崎川(高崎川)を渡り、前橋、大胡(おおご)、室深津(むろふかつ)、花輪へと梅雨入りの里を過り、その行程は二日ほどで、下野州真壁郡(まかべのこおり)の網苧(あしお)と呼ばれる里に来たのだった。

 「秋の日がまだ高いから、五里、六里も行ければ行こう。しばらくここで休憩だ」

 と思いながら、次に行くと、その里外れに茶店があった。軒端に吊した売り物の草鞋(わらじ)の、隙間を見ると、一挺の鉄砲と、六、七張の半弓(はんきゅう)を傍らの壁に並べて掛けていた。不審に思いながら、紐を解き、笠を引き下ろして、床几に腰を懸けると、主人と思われる一人の老人が、震えた手に持つ茶碗に汲んだ煎茶が、渋さも増して濃茶となって、茶筌(ちゃせん)で泡立たせたように、日光盆の離れた縁に、のせて、

 「さあ、どうぞ」

 とすすめてきたので、現八は、右手(めて)で取り上げて、二口、三口と飲みながら、しばらく後方を振り返って、

 「翁、この弓や鉄砲は、何の為に置いているのだ」

 と問うと、主人は進み出て、

 「まだ、ご存じなかったですか。ここから五、六里ばかり離れた庚申山(こうしんやま)の向こうまで、人里はございません。そういうことですので、時によっては、山賊が出て旅人から剥ぎ取り、あるいは猛獣、妖怪変化に、勿体ない命を取られる者、一年のうち、三人、四人もいるのです。そのため、白昼といっても、一人旅は、この里から道しるべの者を雇って、護身させるのがよろしいでしょう。しかし、里人等は耕作に忙しいので、このような道しるべには応じないでしょう。わたくしは、元は狩人でして、足尾(網苧)の鵙平(もずへい)といえば、ここらでは知らない者はおりませんが、ご覧になるように老人ですので、今は野山での稼ぎはせず、たまたま旅人に雇われて、その道しるべをしています。あの鉄砲は、その時に、用心のために持っているだけです。また、丸竹の半弓は、武芸を嗜む旅人が、道しるべを雇わぬ場合に、必ずあの弓と箭(や)を買い取って、持っていかれるものです。真っ直ぐに飛びやすいように作っていますから、掛け流し(使い捨て)という類ですので、とても不格好には見えるでしょうが、強く引けば矢先は狂うことはないでしょう。ことさらに弦と鏃(やじり)は、いずれも本物を使っています。あなた様も、また庚申山の、麓をこえて行かれるというのでした、道しるべを雇って連れて行きなさい。そうでなければ、弓箭(ゆみや)を持って、自分をお守りください。道しるべの里人は、六里程行かれて、鉄砲の弾と火薬と、火縄を加えて賃銭は三百文でございます。弓箭も同じ価格です。どちらにするかはお好みに任せます。ではでは、しばらくお待ちください。同じ路を進もうという他の旅人が来るのをすぐに来るでしょう。不知案内の山路を、一人で行くのは難しいでしょうから」

 と言葉忙しく説明すると、現八は、それを聞いてあざ笑い、

 「そのような事があるのかは知りませんが、私もまた、今年美濃、信濃の深山路(みやまじ)を何度も行き交いしたときには、道しるべを頼まず、弓箭も借りませんでした。それでも、山賊や猛獣の危険があるとは聞きませんでした。さて、この庚申山は、どのような魔所で、日中にも、どのような人が恐れているのでしょうか。私には、まったく理解できません」

 と詰(なじ)ると、鵙平(もずへい)は目を瞠(みは)って、

 「あなた様は、余所の郷の旅人ですので、縁故をご存じないまま、疑われるのは愚か者でございましょう。納得いただくために、お話しましょう、長い話となりますが、お聞きください。そもそも、赤岩庚申山(あかいわこうしんやま)は、下野州安蘇(あそ)郡にございます。江戸より庚申山への行程は、熊谷へ十六里、熊谷から中瀬へ四里、中瀬から大原へ三里、大原から大間々へ二里、大間々から花輪へ三里、花輪から津入へ三里半、津入から足尾へ二里半、足尾から庚申山へ五里半、です。二荒山との距離は、西の方に七里で、ここからは路五里程でございます。すると、この足尾の里から、行くこと十町程は、つま先上がりの山路でございます。そして登ること二十町で峠に到り、また十町を下ります。そこから銀山まで、一里の間は水沢というところで、とても苦労する路であることは、言うまでもございまえん。そしてさらに登ること大凡(おおよそ)、三里過ぎると、庚申山の第一への石門に到着します。地元の者はこれを庚申山の胎内くぐりと呼んでおります。形は自然の石門ですが、その広さは四方に十間、ここから進み入ると、二十間ばかりで、左右に立った大石があります。高さはそれぞれ五、六丈、その形は仁王のようです。いわゆる執金剛神のことです。左補(さほ)を密迹金剛(みっしゃこんごう)と呼び、右弼(うひつ)を那羅延(ならえん)と呼びます。正法念経(せいほうねんぎょう)、釈門正統(しゃくもんせいとう)等で語られています。この仁王岩は、自然にできた物ですが、まるで鑿で彫ったようにも似ているのです。」

(その4 ここまで)