徒然名夢子 -4ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊


第五十九回 京鎌倉二犬士憶念四友 下毛州赤岩庚申山紀事
      京鎌倉に二犬士四友を憶念す 下毛州赤岩庚申山の紀事(きじ)

 

(その5 ここから)

 (引き続き、鵙平の庚申山への危険な山路の説明)

 「これより奥には、人は皆、恐れて、誰も行くことはありませんが、近頃、中居松原(なかいまつばら)の村の間の赤岩という所に、赤岩一角武遠(あかいわいっかくたけとう)という一人の郷士がおりました。心はとても勇ましく、名だたる武芸の達人です。ある日、その門人等に次の様に話しました。

 『伝え聞くところ、赤岩庚申山は、千剣破(ちはやぶる)神代(かみよ)に稚日霊尊(わかひるめのむち)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、猿田彦(さるたひこ)、この三柱の大神が、神々が相談して、この山に登られて、石を穿って、室を作り、橋を渡して路を通わせ、住んでいるという神跡だそうだ。そして数万年のあと、皇朝(すめらみかど)四十八世の女帝(ひめみこ)、称徳天皇の神護(じんご)による景雲(けいうん、めでたいこと)の始めの年に、釈勝道(しゃくのしょうどう)の志願によって、下野州二荒山を開きはじめ、庚申山によじ登って、かの三柱の大神を丁寧に拝み奉ったと、世間の人には伝わっているが、今は七百十年ほどの、星霜(せいそう、年月)を経て、胎内くぐりを過ぎて、この山の奥の院を見た者とは無いと聞く。私は、当国の郷士として、間近に住んでいながら、この山の奥もまだ見極めていない、百姓達のように、噂だけで、怖じているわけではない。明日は、必ず登山して、数百年という未開を、迷わず開明してみようと思うのだ。各位(おのおのがた)も同意するならば、必ず、同行してくれ』

 これを聞いた皆々は、呆れ果てて、諫める言葉を述べました。

 『先生の武芸有力をもって、そのような決心をされたものだと、理解いたしますが、件の山路は、とても険しく、かつ谷川にかけた自然の石橋は虹のように、苔が生い茂って滑りやすく、進みにくいと、古老が口伝えております。それだけではなく、山中には木霊(こだま)があり、それらは、数百のすばしっこい山猫かもしれません。その猛こと、虎のようで、その変化は予測できないそうです。もし誤って山中に迷い入るものがあるときは、すぐに引き裂いて食べられてしまうそうです。このような事は、先生もお聞きおよびかと思います。そういうことですので、少しも恐れてはおりませんが、君子は敢えて危邦(きほう)に入らず、とか、孝子は巌墻(がんしょう、崩れかかった岩垣)の下に立たず、とも言っております。今回はこれに当たると思います。孝子の親を思う心は、親たるものはその子のために、自ら愛して危険な場所に近づかないことで、これを慈しみがあると言っています。自ら賢慮を巡らして、思い止まられることを、お願い申し上げます』

 という言葉が終わる前に、赤岩殿は、からからとあざ笑って、

 『さては、各々、怖じ気づかれましたか。およそ、深山大沢(しんざんたいたく)には、鬼魅妖怪(きみようかい)もいるのでしょうが、武術を学んだのは何の為でしょうか。昔、平維茂(たいらのこれもち)は戸隠山で、悪鬼を退治し、また源頼光(みなもとのよりみつ)は、大江山の妖賊を討ち平らげたのです。そこから武士であれば、魑魅妖怪(りみようかい)に恐れて行かないのでしたら、学んだ武芸もその甲斐にならないでしょう。そのような気持ちでしたら、さっさと刀を捨てて、農商出家するなど、それぞれ生業(なりわい)をかえてください。このように話すのは、ひたすら武芸を頼み、膂力(りょりょく)を誇って、人の諫めを拒むのではありません。私は、赤岩という氏名(うじな)を持ちながら、同じ名である霊山に、登ったことがなく、嘘をついているようです。虎穴にいらずして、いかにして、虎の子を捕るのでしょうか。皆様が恐れているのに、私は決して無理強いはしません。さて、明日の留守をおまかせしよう。相談しながらお待ちください』

 と勢い激しく説き破られて、さらに反論する者はございませんでした。その中に、允可(いんか、武芸免許の者)の高弟である者、三四名が、師の言葉に刺激されて、自分の恐れを恥ずかしく思い、等しく膝を進めて、

 『たしかに、先生の卓見高論(たっけんこうろん)は、夢が初めて覚めたようで、ほとほと感服いたしました。他の者はわかりませんが、我々は、明日のお供をしたいと思います。この義をお許しください』

 と言うと、一角は歓んで、

 『そうですか、そう言われるのですね。稽古の力が顕れて、とても頼もしく思います。それでしたら、急ぎ宿所に戻って、明日の準備をしてください』

 と急がされた四人だけでなく、留守をするという弟子までも、明日の事を約束した皆が諸共に、響めき立って、門辺(かどべ)から、別れて家路に急いだのでした。

 ところで赤岩一角殿には、前後三人の本妻がありました。第一の正妻は、その名を正香(まさか)と呼ばれ、賢女だという噂がこちらまでも聞こえてきていまして、よく家をまとめて、奴婢を憐れみ、常に神仏を信心して、夫に過ちがあるときは、やさしく諫めて逆らわない人でした。この正香との間に男子が生まれて、角太郎と呼ばれています。残念ながら、正香は今年の春に亡くなって、角太郎は四つか五つの頃です。その後の夏に、後添いが迎えられて、窓井(まどい)と呼ばれ、これもまた美人の噂がありました。しかし、その心根は、前妻に劣るようで、結婚したその年の初冬の頃、多くの人が恐れる庚申山へ登ろうと、言いだした夫を諫めることもできず、ただその武芸に頼るばかりで、言われるままに出立させたのを、後に悔やまれたそうです。」


(その5 ここまで)