新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊
第五十九回 京鎌倉二犬士憶念四友 下毛州赤岩庚申山紀事
京鎌倉に二犬士四友を憶念す 下毛州赤岩庚申山の紀事(きじ)
(その6 ここから)
(引き続き、鵙平の庚申山への危険な山路と赤岩一角の説明)
「さて、余談はさておき、赤岩殿は次の日の未明から、四人の高弟と一緒に、野装束に身を固めて、手には各々弓箭を携えて、従者には昼餉の割籠(わりご、いわゆる弁当籠)を背負わせて、庚申山へよじ登りました。頃は、十月初めの三日、空はよく晴れて暖かく、世にいう小春日和でして、麓の千草は冬枯れしていますが、咲いた花もぽつぽつと珍しく、朝鳥の声を聞きながら、胎内くぐりの石門から、仁王石台石など、四方の眺めを見物する暇もなく、ここから一山の風景眼下には、言葉も絶する奇絶(きぜつ、とても珍しい事)に驚くばかりでした。[注1]
これより、下りを行くこと、僅かに二間ばかりではありますが、その岩石が険阻(けんそ、けわしい所)であることは、鬼の髭剃りとも言えるかも知れません。ここからさらに下り行くと、またまた二町ばかりで、向かいの谷に石橋がありました。その長さは一丈三尺、広さは五、六尺になるでしょう。こうしてこの天工奇絶の石橋を、辛うじて渡りすぎると、向かいに自然の石門があります。これが第一の正門かと、目の当たりにして、東に向かいました。大きさがおよそ十二、三丈、中心部分は一丈二、三尺、左右に二つの小さな添え柱があり、それぞれ九尺ばかりで、全体がさながら琴柱に似ていました。ここから二町ほどで、左の方の幽谷より数十丈になる大石が高くそびえていて、塔の如く、櫓の如く、蒼樹が頂きの上に生い茂って、奇妙なことに言葉がございません。そして下ること、二町を過ぎると、裏見(うらみ)の滝がございます。その幅はおよそ五、六尺、その高さは測ることができません。これは二荒山の滝に似て、奇妙な様は優っているでしょうか。そしてこの瀑布の辺から、登り行くこと五町余りで、右に五つの大石がありまして、色は白く、とても高いのです。遥かに仰ぎ見ると、石の中に文字が顕れて、庚申(かのえさる)のように読めます。これを文字石と呼んでいます。また登り下りをすると、一町ほどで、石門があります。その大きさは、一丈八、九尺、中央は九尺ばかりになるでしょうか。このニの門から一町ほどで、灯籠に似た大石があります。高さは四、五丈です。さらに登ること数百歩で、遥かに戌の方(北西)を眺めると、吊鐘に似た大石があり、その高さは二、三丈、苔生して草枝が纏わり付いて、蒼然とした様子は、これもまた奇妙です。ここからさらに下ると、数百歩で石橋があります。長さ七丈よりあり、あたかも虹を描いたように、苔滑らかに雲蒸して、そこから谷底が見えないので、渡ろうとすると目眩き、足が震えて進みにくいため、門人等はここで留まって、一斉に、その師を諫めるように、
『先生、胆勇武芸の徳をもって、昔から人が入らなかったこの山に、入ろうとされることは、既に半分は達成されました。皆が感服しております。ここから先を行くことになれば、風景がおおかた想像すれば、似たようなものでしょうから、さあさあ戻りましょう』
と代わり代わりに登山を止めるように言いましたが、赤岩殿は頭を振って、
『ろくな事を言う物ではない。奥の院まで行かずして、この途中から空しく帰ってしまえば、初めから来なかったらよかったのだ。各々はここで待ちたまえ。私は一走りで登り尽くして、瞬く間に帰ってきましょう。さあさあ』
と言いながら、止める袂を振り払って、弓杖(ゆんつえ)を突いて、例の橋をたちまち渡りすぎて、見えなくなってしまい、門人等は呆然と、従僕もろとも五、六人が、こちらの側にたたずんで、一同は胸を痛めるだけだったが、待つこと二時(ふたとき)すぎで、日はすでに大きく傾いてきたけれど、赤岩殿は帰って来なかった。これは大変な事だと、互いに額を合わせて、談合をし尽くして、今さらこの橋を渡って、追いつこうと言い出す者もいなかったので、
『とりあえず、一度宿所に戻って、内政(うちかた)に理由を報告して、多くの人をかり出して、再び来て捜索しよう。ここでうかうか日を過ごしてしまえば、一人として無事に帰ることはできないぞ。さあさあ』
と一人が言えば、皆々、
『確かに』
と同意をして、逃げるように元来た山路を辿りながら、その日の黄昏時に、辛うじて赤岩に宿所に戻って、云々と、後妻の窓井に報告すると、
『これは、どうして』
と言うと臥し沈んで、泣き叫んだのでした。そして留守をしていた門人等も、この出来事に驚き、騒が無い者はなく、ここに三人、あちらに四人と、膝を交え、額と集めて、
『なんとかしなければ』
と群議を真剣にするものもいて、
『しかし、武芸力量に覚えのある師が現在、命があるのかどうか、山路に迷われたのでしたら、遅れても帰って来るでしょう。涙を収めて、お待ちください』
と内政を慰めて、夜すがら戸で立ち向かうために出て、行ったり来たりしている者もありました。そうするうちに、夜は明けて、日はすでに高く登ったのでしたが、赤岩殿が帰らねば、生き死にを決定できないとして、急ぎ里人を集めて、一隊すべて五、六十人、弓箭、鉄砲、竹槍など武器を引っ提げて、門人も全員先に立って、庚申山によじ登り、あの石橋の側まで到着したが、怖れて渡る者もなく、また打合せに時間を掛けてしまって、冬の日影の傾きは早く、未の半をすでに過ぎてしまった。
『このようにしていては、昨日と同じである。明日はなお人数を増して、再び来て橋を渡ろう。とにかく、時が遅れたのを、なんとか急がなければ』
と、また意味も無く引き返して、その日の申の刻頃に、胎内くぐりを出ようとしていたとき、急に後ろに人が現れて、声を上げて呼び掛けてくるので、皆驚いて振り返ると、確かに赤岩一角殿に間違いが無かった。
『これは、これは』
と、歓び、声を振り上げて、引き返して取り囲むと、無事であることを安心して、昨日も今日も戻らなかった理由を尋ねると、赤岩殿は微笑んで、
『昨日は、私は頻りに進んで、一人石橋を渡ったとき、こちらの方を振り返って見ると、宝蔵に似た大石があり、また二重の塀に似ている物もあったのです。さらに屏風に似たものもあり、箪笥の引き出しに似ている物もありました。さらに、舟、あるいは釜、または鶴亀ににた自然石が巌巌(がんがん、山岩が厳しくそば立つ様)として立っている場所もあり、逆に横たわっているところもありました。天造地工(てんぞうちこう)の精妙な、見ていて言葉も出ないほどの、絵に描こうとしても筆で写すことはできない、そのような景色でした。ここから岩穴が数カ所あり、古の穴居(けっきょ)の跡なのでしょう。それから登り尽くしたとき、向かいに三つの穴室(いおむろ)がありました。これこそ、奥の院です。驚いて見上げると、なんてことか、その高きこと二、三丈、険しさに近づくことができないのでした。その岩屋の形は、中は四角で、左は三角、右の形は丸くなっていました。すなわち是は、天地人の三才(天と地と人の三元)を象(かたど)った物と思いました。その岩屋口の広さは、およそ八、九尺以上です。ここは、いわゆる、稚日霊尊(わかひるめのむち)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、猿田彦(さるたひこ)の三神が、昔から鎮座していた旧跡なのだろうか。この岩口の神前に、石猿が三個並んでいたのだ。その形、見ざる、言わざる、聴かざるの三姿で、これまら自然の生き石なのでしょう。庚申山と名づけたのは、こういうことだったのです。神祇官の記録では、庚申(かのえさる)の日に、これらの三神を奉拝するとした。ここに至って、これまでの疑念がたちまち氷解して、信心が肝に銘じたようだ。この神室を拝んで、右の方に登ると、数百歩で、東の頂というべき、険峻な山頂があり、眺望がもっとも奇絶でした。そこからまた下り、およそ四町ほどにして、とても平らな大石がありました。その長さは十八丈、高さは一丈以上、建て屏風に似ていて、この平岩の切れ目から、八町ばかり東へ下ると、胎内くぐりに戻って来ました。これが、私が来た順路です。したがって昨日、私が奥の院を拝んでから、東の頂から急ぎ下ると、辿るも辿るも、進んでいると、雲がたちまち足下に降りて、晦冥(かいめい、暗くなること)瞬息(しゅんそく、僅かの間)、すぐに暗くなって、射干玉(ぬばたま、ヒオウギの黒い種)のように真っ暗な夜になり、これはどうしようかと、迷ってしまい、平岩の切れ目からは東へは下ることができませんでした。それから考えて、間違っているかも知れませんが、釜石のそばから未申(ひつじさる)なるそば道へ、しきりに進み行くと、思わず足を踏み外して、数十尋(ひろ、五尺か六尺)の谷底に、たちまちどっと転がり落ちたのです。しかし幸いに、其処には小石のみで、水もまた膝下までで、右腕を怪我しただけですみましたので、命は無事ですが、縄が切れた釣瓶のように、人は永遠に上がり出て帰ることはできないと思いました。そうするうちに日は暮れて、谷底で夜を明かすと、しきりに飢えて、耐えられなくなりました。どうしようかと辺りを見回すと、巌に岩ごけが生えているのを、飽きるまで採って、飢えをしのぎ、そして登る道があるかと、あちこちを探すと、足がかりのよい所がありました。この回りには、藤蔓(ふじかずら)が上から長く下がっていました。これは究竟(くっきょう、都合が良い)と歓んで、たぐり寄せて、岩角までたどり着いたのですが、足を踏み掛けるのが難しくて、よじ登ること半日ほど、ようやく元の山路に戻って、今、あそこまで来る所から、各々がたの後ろ影を遥かに見つけ、呼びとめたのです。』
と一部始終を説明すると、門人、従者、里人達は駭歎(がいたん、驚いて嘆くこと)するものもなく、その幸運を歓んで、そして労る者が多かったのでした。少しの間胎内くぐりで休憩して、割籠の残った飯をすする者もいました。あるいはその衣は谷水に濡れてまだ乾いておらず、所々に赤土が突いていたので、脱ぎかえさせて、傷を治療する者もいました。しかし、赤岩殿は気力が普段と変わることなく、諸人を労って、多くをそこから返して、門人と従者だけを率いて、宿所に帰り来ると、内政は、ただ死んだ人が蘇ったのかという心地でいたので、その歓びは口にできないほどでした。まだ幼い角太殿は、天性の孝心がありましたので、幼き頃から昨日まで、帰らぬ親を思い、屈して、昨夜は眠ることができなかったのですが、今、無事に帰ってきた親の袂に纏って、問い慰める様子もとても可愛らしいのでした。ここから親族、知己、里人が一人帰ればまた一人、詣で来て、帰還の歓びを述べるものが少なからず、十日ばかりは庚申山の物語で日を暮らす、家の内は賑わって、赤岩殿の剛勇を感心しないものはなく、主は懲りた気配もないので、人々に向かって、
『あの山は昔から怖れていて誰も登っていません。山には毒蛇、猛獣はおらず、薬草、奇石、銀錫銅松(ぎんしゃくどうしょう、銀や銅)、奇石蝋石が多くあります。まことに海内無双(かいだいぶそう、世界)の神跡、実に別世界の仙境でしょう。私が思うには、これは神代の山陵(みささぎ、神の墓)ではないと考えています。私が誤って水谷に落ちても無事に帰ってきたのは、魔所ではないということを、各々賢察されていることでしょう。今後、私と同じ志がある者は、必ず登山してください』
と鼻を高めて誇るように言いました。この一くだりは寛正五年、冬十月の事でございまして」
と言いながら、指を折って数えながら、
「十七年の昔になります。赤岩殿がこのように、こともなげに言われたのですが、この後もかの麓で、度々人が亡くなりますが、今までに登山したものはあったとは、聞いていません。
(鵙平の語りは続く)
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[注1]※作者(馬琴)注:庚申山の奇絶は、人が作り出した物ではなく、近比松本楽山子の記文一編がありますので、これを合わせて読まれると良いでしょう。私がこの山へ登ろうと志してはいますが、いまのところ実現できていません。
(その6 ここまで)