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徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊


第五十九回 京鎌倉二犬士憶念四友 下毛州赤岩庚申山紀事
      京鎌倉に二犬士四友を憶念す 下毛州赤岩庚申山の紀事(きじ)

 

 

(その7 ここから)

 そして、赤岩の宿所では後妻の窓井殿が、十一月(しもつき)から身籠もって、次の年の八月頃に、また男子を産み、赤岩殿は歓んで、牙二郎(がじろう)と名づけました。一般的に世の人心では、前妻の子を継母(ままはは)が憎むというのは我が国でも外国でも多くありますが、赤岩殿はどういうわけか、次男の牙二郎が生まれた頃から、前妻が産んだ角太郎を憎むこと、たいそう酷くて、小さいことをいちいち取り上げて、幼いのに打擲(ちょうちゃく)して、周囲も心を痛めていましたが、孝心が深い角太郎殿は、打たれる杖の下よりも親の子とを思い、まわらぬ舌で詫びる言葉を放つ賢しさを、見るもの聞く者皆々が、痛ましく感じていたのでした。この時、赤岩にほど近くの犬邨(いぬむら)という場所に、また一人の郷士がおりました。元より文武の達人で、姓氏(うじ)は犬村(いぬむら)、名は儀清(のりきよ)、俗字を蟹守(かもり)といいます。この人は、赤岩殿の前妻の正香(まさか)殿の同母兄(いろね)で、角太郎の外伯父でしたので、過ちもない幼い甥が、親の愛を失ったことを、とても不便に思っていて、我が子は娘ひとりでしたので、角太郎を呼び寄せて、養子にしようと、赤岩殿に請うと、可愛くもない子の事でしたから、赤岩殿は惜しげもなく、すぐにこれを引き受けて、そのまま犬村殿に送ったのでした。これにより角太郎殿は六つの歳から、犬邨の伯父夫婦に養われて、その孝心に親疎なく、入っては養父養母に仕え、出ては実父継母を振り返って、七つ、八つの頃から手習い読書を怠らず、養家だけでなく、里人等まで、褒めない者などおりませんでした。そしてまた、犬村蟹守儀清殿は年若い頃、京都上って、文学武芸、その師を選んで、留学に年を重ねれば、文武両道の達人に成長し、故郷へ帰っては、隠逸(いんいつ)されて、他人の師になることはありませんでした。ただ、角太郎殿にだけ、力を入れて朝夕に、教えを授けると、子はまたその才を養父より増して、一を聞いて、二三を知る、下学(かがく、手近なところから学ぶこと)による上達は早く、年が十五六になるころには、文武の奥義を極めたのでした。

 さて、その頃、犬村殿は、ある日、その奥方と相談して、

 『角太郎もこの春には、十八歳になります。私の娘の雛衣(ひなきぬ)は、二歳年下の十六歳になりますので、結婚できる時がきました。生心(なまごころ、未熟な心)の者どもを、分けて置くのは必要だと思います。明日は、黄道吉日ですので、急ぎその用意をしてください』

 として、やがて子供を呼び寄せて、事の意味を教えると、子供は等しく顔を赤らめて、答えかねて立ち去ったのでした。そして、次の日には犬村殿に、まず角太郎殿の、額髪を剃って、元服の儀を執り行い、養父の諱の一字を授けて、犬村角太郎礼儀(いぬむらかくたろうまさのり)と名乗らせ、娘の雛衣殿には袖を留めさせ、歯を染めて、その夜に里人の一人を仲人に頼んで、婚姻をめでたく整えて、窓の竹が千歳に寿き、軒下の松に万代(よろづよ)を契りましょうと、とてもお似合いの若い夫婦を、親だけでなく里人等も、田舎ではめったにない事だと噂したのだった。

 このような浮世の月と花ですが、時間が経てば枯れていくというのはあたりまえで、歓びの果てはまた、悲しみも近づいていました。犬村殿の奥方は、その次の年の秋に、風邪にかかって臥せってしまい、鍼灸薬餌(しんきゅうやくじ)の効果もなく、五十(いそじ)にも足らない年齢でしたが、遂に亡くなってしまいました。このような嘆きに添うように、犬村殿もその冬から、類中(るいちゅう、身内が続けて不幸に見舞われること)とやらで、臥せってしまい、枕が上がらず、病むこと二年あまりで、これも今年の春の頃、黄泉路(よみじ)の客となってしまいました。歳は六十あまりでした。それから角太郎殿は、養父母が前後して病床につくと、昼は終日枕のそばを離れず、夜も一晩中帯も解かず、夫婦心を一つにして、看取り世話をして、療養祈祷や医師を選び、験者(げんざ、加持祈祷を行う修行者)に頼って、長き月日を怠ることなく、心の誠を尽くしたのですが、その孝行の甲斐はなく、命数の限りがきてしまいました。これより先に赤岩には、かの後妻の窓井殿は、次男牙二郎が三四歳になる頃、ある日頓死してしまいました。このことから、赤岩殿は妾を一人娶りましたが、年が経つと、その妾は、とにかく尻が落ち着かず、ある者は半年、あるいは一年、立つか立たないか、言い残して身の暇を乞う者もあり、または蓄電する者もあって、誰ともなく、置きかえられて、一昨年の秋の頃、武蔵の方から流れ来た船虫(ふなむし)という女が、とても心に訴えたのか、すぐに正妻となり、二年が経ったのでした。

 さて、犬村の宿所には、若い夫婦の世代になって、しばらく赤岩に詣でまして、親の安否を訪うと、犬村殿は豊かで遺財が多くあるという、人の噂を船虫は聞きつけて、夫(赤岩殿)にすすめて、角太郎夫婦を呼びつけて、両家を一つに合わせようとしたのは、その金を盗ろうとしたからです。そのことを知らずして、角太郎殿は、実父の招きに歓んで、大急ぎで家や田地を人に預けて、雛衣と一緒に、赤岩に来て同居したのですが、赤岩殿は会うことも無く、また、あの次男牙二郎殿は、心が頑なで、兄(角太郎)を兄とも思わないのですが、角太郎殿には逆らわず、三方四表に事のきっかけを含ませて、なお、孝悌(こうてい、ここでは兄に尽くすこと)を守っているように見せたのは、自然な人の様子でした。そして、雛衣殿は今年の夏より身重になったため、かの成り上がりの船虫が、かねてから企んでいたように、雛衣殿は赤岩殿と、情由(わけ)ありなどと言い立てて、血で血を洗う恥を思わない様子でした。もとより、そのような事はなかったのですが、角太郎殿はやむを得ず、雛衣殿に離縁状を出して、仲人の元に預けることにして、苦しい夫婦の別れをしなければならなかったのは、心の中はどうだったのでしょうか。妻は義理ある養家の娘、従母兄弟(いとこどち)にて重縁だったので、身一つだとしてもあることか、身籠もっていましたので、すでに三月四月になっていたそうです。ましてや嘆きはますますに、雛衣殿の恨みの数々、涙に袖は朽ちるとも、乾すことはできない濡れ衣は、しばし、浮世の笠やどり、急がぬものを疾く疾くと、あの仲人に引き立てられて、泣きながら家を出て行ったそうです。その涙は治まらず、角太郎殿さえも、どうにかしていただきたいと、泣き言を言いはじめて、遂に勘当させられて、犬村より持ってきた金銀調度を置き土産に、田畑さえも取り上げられて、その身一つで追い出されて、生きていくことも辛く、赤岩村と犬村の間にある片田舎の、字を返壁(たまかえし)と呼ぶ場所に、草庵を結んだのでした。そして形は半俗(はんぞく、俗体の僧侶)で、その行いは法師のようだと、そこを通る人は話していました。とても痛ましい事ではないでしょうか。私は、その初め、狩り人だったころから、赤岩殿はお得意様です。あの先生は、とても獣肉を嗜むので、月の中(うち)には幾度と、あそこへ肉を持って行きまして、良い商いをさせていただいたこともあります。今では摂政はしませんが、他の狩り人との仲買をして、今でも疎からず交流していますので、件のお話のことで、行き会わせましたので、このように詳細にお話した次第です」

 と、してやったりという顔をして、説き誇らして、得意様として甲斐の無い人事だと言うと、影さす鳥が驚かして、外の方を急に見やって、

 「あら、役に立ちませんでしたか、我ながら、庚申山の来歴から、興にまかせて、思わず、言わなくて良い事も言ってしまい、いたずらに時間を要してしまいましたが、未の半ばを過ぎるまで、あなた様の足を止めてしまいました。お許しください」

 と詫びたのだった。



(その7 ここまで)
(第五十九回 了)
(里見八犬伝第六輯巻之五上終)