新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五上冊
第五十九回 京鎌倉二犬士憶念四友 下毛州赤岩庚申山紀事
京鎌倉に二犬士四友を憶念す 下毛州赤岩庚申山の紀事(きじ)
(その1 ここから)
再びお話しましょう。犬田小文吾は、依介夫婦に別れを告げてから、市川の宿を出て、まず行徳へ立ち寄って、亡き両親に旅立ちの告別(いとまごい)をしようと、笠を深く被って急ぐと、すでに香華院(ぼだいしょ)に到着すると、用意していた花を携えて、寺門に入りながら、墓所の入口で、手桶を探して、水を汲み、閼伽井(あかい、仏前に供える水を汲み上げる井戸)の釣瓶(つるべ)の箍(たが)は緩み、水が漏れて袖をひどく濡らし、嘆きは霧の籬(まがき、竹や柴で編んだ目隠し)のようで、外の卒塔婆も偲ばれる憂き事にまみれた体ではあるが、心ばかりはしっかりと、巻柏(いわひば)ではなく、雨後の苔、洗い流した手向けの水に、映る影も亡き人も、名をのみ遺す石塔に、打ち向かいながら、額ずいて、回向(えこう)に時間をかけたのだった。さて、そうこうしているうちに、やや身を起こして、外面(とのかた)へ、退き出ようとして、考えた、
「万里の逆旅(ぎゃくりょ、げきりょ、旅行すること)に向かいながら、確かに行方を、まだ定めていないが、繋がぬ舟の楫(かじ)を折ってしまい、寄るべき岸が無いに等しい。さきに、犬山と犬塚等と別れたときは信濃路へ、逃げようと思ったのだけれども、曳手と単節に逢おうと、一人で東へ戻って、すでにこの月になってしまった。そのようにして今更、また有るわけも無いだろう。また、今更彼の地に到って、生き死にをさらに知る方法がない。そして、どこかを心当てとして、例の四人の友を探そう。心に思い浮かべるのは、墨田河で、本心ではないながらも別れてしまった犬坂毛野の事である。私は胆勇知略(たんゆうちりゃく)に及ばないので、多くの得難い少年であるから、彼が生まれた里の名である犬坂をもって氏としたので、枯れもまた私も同じ因果の犬士ではないだろうか。この推察が間違っていなければ、形は牡丹の花に似た痣もあり、玉も持っているだろう。問わなければ知る事はできないと思ってはいるものの、我が身の危険が迫っていたので、その事は言い出せず、別れてしまって彼らの行方は解らなくなってしまった。残念な気持ちで、どのようにしょうかと思い悩みしていると、鎌倉という所は犬坂が、成長したという里だから、母親の墓があると聞き、どこかの折りに、密かに鎌倉に立ち帰ることもあるだろう、たとえその地に潜むことができないとしても、今は他の郷にいたとしても、二月、三月となれば、私がまずその地を訪れて、密かに里人等に、探り問えば、彼らの在処を、知る事ができるかもしれない。再開の日に意中を告げて私の推測が間違っていないならば、同因同果の犬士という証拠が明らかになるのは、去年から無駄に過ごした月日も、これで報われようというものだが、それは孤雁(こがん、連れの無い雁)がさらに伴をを得て、北地へ帰る歓びだろう。さて、犬坂と一緒に、また犬塚等の四人の友を捜索することで、石浜に囚われたことでめぐり逢い、抑留されていた自分の事を正しく知らせる証人なのだ。そして、曳手等を失ったとしても、また一人の犬士に伴うことができれば、あまりにも有名になることになるだろう。ああ、そうしよう」
と胸の中で決心して、引き下げた笠をかざして、急ぎ寺門を出て、賑わっているだろう(薪樵る)鎌倉を目指して進むと、次の日の七つ頃に、すでにその地に到着し、米町の旅籠屋で草鞋を解いて逗留しながら、毎日街に出て、茶店、立ち食い酒屋、など人が集まる場所で、世の雑談に耳をそばだてて聞き、またほとんど知らない人の言葉に相づちをうつように、
「このあたりに、名だたる女田楽の旦開野という者がいるそうだが、宿所はどこだろうか」
とよそよそしく尋ねると、
「知らねえよ」
と答える者もあり、また仇討ちの体裁で伝え聞いた者がいたが、
「憚りがあるので」
と確かなことは話さなかった。その中で一人の老人が、小文吾の問いに答えて、
「お尋ねの旦開野は、多くの人を殺した時、武蔵の石浜から逐電して、二度とここには戻ってきません。恐らく、石浜の千葉殿は管領家と疎遠ではないので、こちらにも、その事件を告げたのでしょう。しかし、沙汰はまだ聞こえてきませんが、彼もこの事を察して、その身の追捕をおそることなく、薪を抱いて火に近づくような、この地へ帰って来ることはしないでしょう。真実は定かではありませんが、その旦開野は女子ではなく、親の仇敵を討とうと、幼きときから姿を変えて、幾万人も欺いたという、世に凄まじい者だそうです。この地に忌みがあることは、このような理由が原因でしょう。貴方はそのような事は知らないと思いますが、漠然と旦開野の宿所を尋ねても、今は答えなど得られず、もし悪者に疑われてしまえば、同類として訴えられて、言い逃れることが難しくなるでしょう。そこら辺は用心しなさいな」
と押し止めながら囁く、この人の実意(まこと)に小文吾は、たちまち理解して、そして驚いたが、流石に望みを失って、この日も空しく、旅宿に戻り、ひとり熟々と思い悩み、
「今日(こんにち)、里の人達が言われるように、実に鎌倉の管領は、あの千葉氏の恩のある家で、水火(すいか)を互いに、押しつけ会うような間ではあるのですが、常武が撃たれた事も報告されたでしょう。それでも、自胤(よりたね)は邪正(じゃしょう)を弁解すること無く、是非の境で迷うこととして、なお犬坂を憎いと思えば、かの胤智(たねとも)の事だけに、自分の事のように、云々と、告げて、追捕を命じたのでしょう。その事ははっきりとはわかりません。しかし、この地に何日も逗留すれば、労は多くして、功の無い私のことですから、凶多くして吉は少ないと言えます。心を尽くして訪れた人に、逢いたいとは思っていますが、残り惜しとは思いませんので、去年より三方へ三度も訪れましたが、別れた知己は男女七人、その一人とも出会う事ができず、また思い付くまま何処かを、明日から訪ね歩こうと思っています。世に物を思う人はありますが、秋から次の秋への十三ヶ月、一日も胸は安らぐことなどありません、私に何ができるのでしょうか。」
と思い沈んで、ことわざで言う所の、独商量(ひとりだんこう)果てしなく、膝を抱いて暮らす日は、壁に向かって幾度か、嘆息の他は出ることがなかったが、急にキリッと思い返して、
「日本の六十六国、広いといえども、限りがあります。ほとんどが舟や車が通っていて、足跡がある場所は、東西南北、四維八荒(しいはっこう、囲まれた国の果て)まで巡っていけば、必ず逢うことができるでしょう。さあ、遅くなってはいけない。」
と志を励ますと、胸の欝也蒙也(うやもや)がやや晴れて、慰めているような月が窓から見え、夜が明ければ、この地を出発しようと、用意をしはじめたのだった。
(その1 ここまで)