徒然名夢子 -11ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之四

 

(この2 ここから)

 そして、篙工(かこ)等は、舵を引き上げ、艪(ろ)を掛け納めて、苫(とま)を巻いて、筵(むしろ)を畳んでしまうと、訛声(だみごえ、訛りのある声)を大きく、どよめいて、家の中から若い女房が、急いで走り出てきて、

 「たった今、お戻りですか。思ったよりは早かったですね。昼飯を食べてお休みください」

 と、労って舟の椀道具と、釜を引き上げて取り込むと、依介は、

 「こちらに」

 と、その女房を近くに呼びつけて、

 「水澪(みお、女房の名前)よ、希なる客人あり。茶を良く煮て、昼膳の用意をしなさい」

 と、急がせて、

 「さあこちらへ」

 と言って、小文吾を先に立たせて、奥の方にある小座敷へ案内をしながら、とても忠実(まめ)やかにもてなして、主のようなその様子に、小文吾はあちこちと、しばらく頭(こうべ)を巡らせて見ると、昔に見た家なのだが、妙真(みょうしん)の声もせず、また大八(だいはち)の親兵衛(しんべえ)も何処かに行ってしまったのかと、深く心で訝しがって、まずはそれを問わなければと思うと、依介は一斗の土瓶の煮花(にばな、煎じたばかりの香りの高い茶)を茶碗に注いで、小文吾のそばに持ってきて、

 「今日は、皐月(五月)の猛霽(にわかわれ、雲一つ無く晴れわたること)で、今年の暑熱(あつさ)のはじめになるので、舟で煮る茶は鉄気(かなけ)の味がして喉の渇きを止めることはできません。まずこちらをお飲みください。まもなく飯を持って参ります。」

 と言うのを小文吾は遮るように、

 「いや、茶も膳もいりません。大家(ははご、妙真のこと)は何処へ行ったのでしょうか。親兵衛を伴っているのでしょうか。先に、ここの為体(ていたらく)を話すと言っていたのは、どういことでしょうか」

 と問うと、依介は、膝を近づけてきて、

 「そうそう、その事でございます。忘れもしない昨年の六月(みなづき)の二十四日の事です。貴方は深く契りを交わした友人を送ると言って、武蔵へお向かいになってから、日数を数えていましたが、お戻りになられなかった。行徳でも、ここ(市川)でも、皆がたいそう待ちわびて、心配しておりましたところ、丶大道徳(ちゅだいひじり)という者が、私は大塚で亊の様子を見てこいと、七月二日の夕暮れの船に乗って走らせたところ、これもまた、いつまでたっても返事がありませんでした。したがって、行徳の大旦那も妙真様も、不安に思い、蜑崎(あまさき)様と、
 『とやら、かくやら』
 と、長く話し合いをなされました。そして、その月の五日になりましたて、貴方もかねてからご存知かと思いますが、悪者の舵九郎(かじくろう)が、ここの親方夫婦の身の上を、いつの間にか嗅ぎつけて、弱みにつけ込んで押しかけてきて、
 『妙真様の入り婿になりましょう。それができないのでしたら、岡の新しい墓を曝(あば)いて、御上に訴えて、罪を償って貰いましょう』
 と手強い難題を振りかけてきました。側に人がいなかったので、もつれた糸を解くことが出来なかったのか、ほとほと困ってしまって、文五兵衛様とご一緒に、蜑崎様が来たときに、是非も言わさず舵九郎に掴みかかって、投げ懲らしめたので、事件は終わったのだと思いましたが、後難は予測ができませんでしたので、蜑崎様の意見に任せて、妙真様と坊様(親兵衛)は、しばらく安房へ連れ立って、彼奴の毒気を避けようと、その夕暮れに慌ただしく、文五兵衛様は坊様を背負いながら、道に出てきて、とても精悍に送りなされ、私はまた、必要な物をが多く入れられた風呂敷包を背にして、不安ばかりの主従五人が、自宅を出て行くと、待ち伏せしていた舵九郎、仲間の悪者が多数いて、たちまち道を横切り、搦め捕ろうと競うように襲ってきて、蜑崎様がこれを引き受けて、防ぎ戦いになられ、文五兵衛様と私も、敵に当たる暇も無く、黄昏時の大厄難でした。これ、御覧下さい、額の古傷は、私があっというまにここの辺りを打たれて、気を失いかけて倒れたのでした。すると舵九郎は、隙を窺って、妙真様が抱いていた坊様を、さらって逃げながら、
 『自分の心のままにならないならば、このガキを殺してやろう』
 と、手頃な石を振り上げて、残忍非道に押しつぶそうとして、妙真様の嘆きはひどく、蜑崎様も文五兵衛様も、悪者達を撃ち退けて、皆一斉に集まっていましたが、すでに人質をとられただめに、なんとかする方法も無く、
 『さあ、どうする』
 と嘲る舵九郎、再び小石を取り上げて、坊様を一度撃つと、微塵に壊れて、一朶(いちだ、ひとかたまり)の村雲(むらくも)が天から引き降りてきて、風が凄まじく砂塵を巻き登らせて、また舵九郎も巻き上げて、臀(いさらい、腰または尻)から鳩尾(みぞおち)まで、破竹のように引き裂けて、骸(むくろ)がドッと落ちてきました。こういう状況なので、思いかけなく強敵を滅ぼせましたが、緊急なのは坊様の行方ですが、そのまま不明となり、妙真様のお嘆きは例える物がないほどで、蜑崎様も文五兵衛様も、
 『あの親兵衛は、神隠しといったものに、あったのではないだろうか。そうならば行方不明といっても、舵九郎諸共に殺されたわけではないだろう。戻ってくる日を待とう』
 と、頻りに慰めて、その夜の宿を急ぎまして、この時、私はようやく息ができて、幸い傷は浅く、妙真様のお供をして、そのまま安房に向かいました。文五兵衛様は、その夜に市川までお帰りになり、貴方の安否を知るため、夜船に乗って武蔵の大塚へ向かわれました。さて、これまでのお話は、はじめは私は知らなかったことですが、時期が来て後に妙真様から、お聞きしたことでございますので、このように事細かに説明できるのです。そして、文五兵衛様は、次の日の六日の巳の時頃に、大塚にたどり着き、かの額蔵(がくぞう)のことを里人等に聞いてまわりましたが、この人の罪が決まって、すでに二日に、庚申塚のほとりで刑罰にされるところを、額蔵の友達という犬塚信乃等あわせて三名が刑場に乱入して、卒川菴八(いさかわいおはち)、簸上社平(ひかみしゃへい)等を斬り殺し、素早く額蔵を奪い取って、戸田の川端まで、逃走し、陣番の丁田町進(よぼろだまちのしん)が大勢を率いて、追いかけて取り囲み、あまりにも犬塚等は素早かったので、丁田氏は水中で、敵によって撃たれました。しかし後詰めの仁田山晋五(にたやましんご)が、新手の部隊で取り囲みながら額蔵や信乃等を討ち取ったとして、その首級をさらしておいたのですが、その夜に曲者によって、番卒等が殺され、この首級が盗み取られ、行方不明になりました、と語っていますが、肝を潰したのは、文五兵衛様で、その嘆きは、そうとうひどいものだったと想像してください。そうこうしているご自身の生き死に、定かに知る事ができるようになると、なお、さりげないような顔色で、件の里に宿泊して、世の風聞を探られますと、あのさらされていた首級共は、信乃や額蔵ではなく、味方の兵士で討ち死にした者の首をもって、云々、と、上司を欺く仁田山晋五は、器用な者と密かに誹る者もあり、疑いはますます解けなかったのでした。
 そのにせ首級は何人煮鳴るのかと、探ってみますが定かにはわからず、もし、貴方ではないならば、と思う心を言いたいのですが、言えないまま苦しい心のまま宿で日を過ごしておられまして、貴方の安危(あんき)もあの人々と、丶大道徳の行方すら、そこでは知る事もできなければ、逗留五日ばかりで、その九日の夕方に、行徳に戻ってこられましたが、語らう相手もおらず、膝を抱いて日を過ごして、妙真様にも、蜑崎殿にも、ことの次第を報告しないまま、同じ月の十一日に安房へお向かいになりました。そして貴方に恙なく、ここまで相伴(ともない)こられて、歓びについて、本心からの事がほとんどで、さて、貴方は去年より、何処にいらっしゃったのでしょうか。その事を、詳しく、お伝え聞かせて下さいませんか。」

 というと、驚いている小文吾は、聞くこと毎に嘆息しながら、体が前のめりになるのも気が付かず、聞き漏らすまいと耳をそばだてていて、たちまち、小膝をパンと叩いて、

 「どういうあわけか、飛ぶ鳥のイスカ(アオトリの仲間)の嘴(くちばし)が食い違っているように、思っていることと異なっています。去年のその日に犬塚等を、送って武蔵に向かっているときに、神谷河原(かにわかわら)の辺(ほとり)で、姥雪矠平(おばゆきやすへい)と呼ばれている、漁翁(すなとりおきな)に出会い、犬塚、犬飼と共に、額蔵の荘助(そうすけ)が無実の科(とが)である事の理由を、つぶさに聞いて、残念に思う気持ちに耐えられず、道の辺に退いて、荘助を救うべき計画を話し合っていた時に、犬塚、犬飼の言葉は同じで、私には行徳に急ぎ帰って、親や人々にも理由を告げるようにと言われたのですが、それを聞かずに思ったのは、その犬川荘助は、一度も顔を合わせた友ではないのですが、同胞よりも強い因果があると、大厄を余所にして、何処かに戻るべきでしょうか。今、行徳は無事ですが、ここには火急の大事があります。まず荘助を救って後に、親に報告し、また人々に知らせるという事で、遅くはないでしょう、と思案しながら力をあわせて、ついに、犬川荘助が殺される直前に救い得て、このような姓の異なる兄弟で、志は同じだったことに、そのような予想をしたわけではありませんが、故郷にもまた暴風(あかしま)の禍が起こって、大八の親兵衛が、行方不明になっていたのを知らなかったのは、あそこで一人の犬士を得て、こちらで一人の犬士を失ったことになります。これは塞翁が馬ならず、というよりも牧家の牛に似ています。これらのことから、我が父を不安にさせたのならば、私の罪をどうしましょうか。その事の果てには、様々な煩わしさにまとわれて、今日まで帰ることができませんでしたが、理由を知られなかったから、そのようには恨みを持たれたのでしょう。言葉だけでは益の無いのはあたりまえですが、さあおいで下さい、貴方に話をお聞かせして、お心を鎮めましょう。その、荘助は云々」

 と蟇六(ひきろく)と亀篠(かめささ)が狂い死にした事から、犬川荘助が主人の仇を討った顛末、簸上兄弟、菴八等の事、また矠平の侠気(おとこご)、音音(おとね)の孤忠(こちゅう、ただ一人の忠義)、力二(りきじ)、尺八(しゃくはち)の精忠孝友(せいちゅうこうゆう)、曳手(ひくて)と単節(ひとよ)の貞操節義、そして犬山道節(いぬやまどうせつ)が君父の仇に報いたこと、犬塚、犬飼等と共に、彼の人を助け、助けられた荒芽山での奇遇、白井(しらい)という大敵、そこを切り抜けて逃げるとき、曳手、単節を伴って、合鞍に乗せたときに、馬が撃たれた日の怪談、終に犬山、犬塚等の四犬士と別れて、ひたすらその馬の後を追って日を重ね、遠く武蔵の浅草付近から阿佐ヶ谷畷(なわて)を通り過ぎたとき、手負いの猪にでくわして、それを差し止めた事の有様、また並四郎と船虫(ふなむし)が、隠匿した事の理由、この事件に関わって、石浜という千葉の権臣(きりもの、勢いのある家臣)馬加常武に捕まって、去年の秋からここに留まり、命も、かなり危なかったのを、犬坂毛野胤智という義勇の少年の助けによって、辛うじて石浜を脱出して、あの隅田河を歩いて渡ろうとしているとき、それは犬坂毛野が、乗った舟を追おうと思ったからで、それからおよそ今朝のことまで、その概要を摘まみ、言葉忙しく話すと、依介はしきりに驚いて、無意識に太い溜息をつく迄、感嘆する様子はしばらく止まず、額にしていた手を下ろして、

 「いやいや危ない事でしたね。そのような事になっているとは知りませんでしたので、昨日まで疑っていたのは、とても疎かだったと思います。侠(おとこ)を磨き義を守るという心がけは格別で、いろいろ言う事ではありません。それにしても恙なく、命を大切にして帰られたこと、このようにお供ができたことは、私にとって面を起こす、歓びでございます」

 とその言祝ぎを述べると、小文吾はそれを聞いて、

 「しかし、図らずとも貴方の助けによって、故郷近くに帰り来ておきながら、少しも親に顔を見せないのは、不孝ではないだろうか。急ぎ行徳に向かいましょう。草履を一足貸してください」

 と言いながらゆっくりと体を起こすと、依介は急にそれを押し止めて、

 「未だ、お話しておく事がありますので、しばらくお座りください。ああ、神ではない貴方の何事をも、知らないままでいるのに、嘆きの種を申し出るのも憂鬱で、大変言いにくいことばかりで、言わなければ叶わない物語は、大旦那の事でございます」

 と言うと、小文吾の胸は騒いで、

 「それは何事なのか。不安だ。さあ、話してくれ。どのようなことなのか」

 と忙しく問われて、依介は鼻をかんで、

 「まず、話の糸口を、先程解きだしてみましたが、その後、文五兵衛様は大塚での事件を知らせようと、安房に向かい、妙真様と対面して、云々と報告されると、搗ちて(かちて、一緒になって)加わった愁嘆悲泣(しゅうたんひきゅう)で涙にまみれて、お進みになりました。これより先で、里見殿は、蜑崎殿によって、云々と聞いていたので、犬士達の奇異天縁(きいてんえん)、親の房八(ふさはち)夫婦の勇敢義死(ゆうかんぎし)、また坊様の事までも、仔細を詳らかに聞かれて、御感尤浅からず、

 『なるほど、犬江親兵衛の祖母妙真をここに留めて、少しであるが扶持を進ぜよう』

 として、奴婢(ぬび)を二三人を貸し付けて、厚くもてなしながら、

 『なんとかその親兵衛の生き死にを見極めて、無事ならば四犬士の信乃、現八、小文吾、荘助を一緒につれて参れ』

 と蜑崎殿に御命令なされて、その時に大塚の事件が伝わってきたので、さらにまた驚かれて、

 『そうならば、十一郎は丶大法師に再会して、犬塚、大川の四犬士の生死を正確に捜索して、無事かどうか、報告いたせ』

 と今度は、究竟な夥兵(くみこ)を五七人を若党につけて出され、蜑崎殿に従うようにされると、文五兵衛様もまた、

 『倅(せがれ)と孫の行方を捜索します。お供に加えてください』

 と、ひたすらにあせりになって、妙真様も、

 『私も一緒に』

 と、身の暇を乞われたのですが、里見殿は許されず、

 『志はよくわかるが、足弱の老人と婦女子が果てしない、旅宿(たびね)をするということは、労しても功など無く、よけいに禍となるであろう。十一郎を遣わせるので、安否を知る事ができるだろう、ここで便りを待ちなさい。文五兵衛は神が与えた忠臣、那古七郎由武(なこのしちろうよしたけ)の弟であることを伝え聞いている。ゆえにまた行徳に戻って市井の生業をするのは本心では無いだろう。妙真とともにここにいて、その子が参るのを楽しみに、静かに老いを養うよう。そのための扶持は十分用意させる』

 と、里見殿の目先に召し出されて、殿自ら慰められたので、文五兵衛様も妙真様も、ただ感涙にむせびながら、御前を退出したのでした。これは今年の秋、七月(ふつき)下旬の事です。これから旅立ちの願いが立ち消え無い妙真様は、文五兵衛様と密かに話し合って、ある日、私を招き寄せて、事細々とお話になり、

 『このように、私達は、この地にどのくらい逗留しなければならないかわからない。よって、犬屋の舩家業は、お前に譲ろう。お前は長年まじめで、ここまで伴をしてくれて、心ばえに見所がある。勤めて家を守っておくれ。船橋は妙真の親里だけれども、両親が亡くなってから、今はさほどの親類もいない。ただ、水澪(みお)というひとりの姪がいある。いまだに結婚もしていないので、年頃も過ぎているから、近い血筋の者なので、お前に嫁がせようと思うが、どう思うか』

 と問われました。思いがけなく懇ろなお話で、胆(きも)が潰れてしまい、ハキハキと返事もできず、困っておりましたら、文五兵衛様が、

 『妙真刀除(みょうしんとの)には良い姫がいるのだ。私にはそのような親族はいないので、また小文吾は市井の人ではないから、他人の子を養って古那屋を嗣がせるしかないのだ。蔵や家を失って、将来不安になることを思えば、お前は早く戻って、このことの用意をしなさい。かの舵九郎と同類がどのように、立ち居振る舞うのか、それも心にかかっているのだ。私たちが思うことを、里見殿に申し上げてから、お前の後に続こうと思う。わかったか』

 と繰り返しながら、諭されると涙がこぼれて、言葉を受けながら、その明け朝に、一人でその地を発って、日暮れ前にここに帰り戻って、また行徳にも赴いて、文五兵衛様の言い付けを、村長(むらおさ)殿にも伝えましたが、あそこは特に穏やかで、この市川も舵九郎や同類がいませんでした。そして十日あまり経つ頃に、文五兵衛様と妙真様は、里見殿が付けた若党下僕をたくさん率いて、行徳に帰っていらっしゃいましたので、里人等は驚き、かつ不思議がって、巷に立って見物するものが多くありました。そして例の従者(ともひと)を逗留のうちに留め置いて、まず、船橋へ飛脚を使って、件の姪御を呼びだして、云々と示されて、そして私を元の親方である房八様の後継となされて、姪御の水澪(みお)を妻として、村長にはありがままに、

 『房八と沼藺(ぬい)は世を早く去り、さらに孫の大八は、神隠しに遭い、その日から行方不明になりました。このような不幸な私ですが、どのように世帯を維持したら良いでしょうか。そこで依介を養子にして、犬江屋を譲りたいと考えました。私は安房の親族の元で、二三年留まって、浮世を心易く送ろうと決心したのです。年は若い夫婦ですが、よろしくお願いいたします』

 とおっしゃると、村長殿も四隣(あたり)の人も、異議を唱えることはありませんでした。悼む者あり、言祝ぐ者もあり、授受(ゆずりわたし)を取り持って、事はたちどころに整いました。これは、しかしながら妙真様のお気持ちがとても広い洪恩(こういん)によるものです。言葉を尽くした文五兵衛様は、行徳にお戻りになって、これもまた村長殿へ、

 『小文吾は、ご存知のように、市井の生業を嫌って、親の後を嗣ぐことはできません。彼は近頃鎌倉へ、縁(縁)を求めて向かいましたので、帰る日が来ることは測がたく、私は既に老いぼれてしまい、家業も辛くなってきました。そこで、安房の親族に身を任せようと思いました。ついては旅籠屋の営業、家や蔵ともどもを、望む人に売り渡したいと思いました。この義について、納得してください』

 と話をすると、異議も無く、

 『そのようにせよ』

 と答えられたそうです。そして、期待していた人が急いで出てきて、談合はすでに成立していたため、沽券(こけん、売主から買主に支払われる為替)の金額は百あまりで、さらに五十両を加えて、その中から百両を残しておいて、二十両は、三世の父母と房八と沼藺のために、近々寺などに奉納し、三十両は里の貧民、乞食牛馬にいたるまで、漏れなく施行に遣ったのでした。人は皆、最高の功徳だと感謝しました。これは去年の秋、九月(ながつき)の半ばの事です。ここもあそこも、思いのままに事が終わったのだと歓んで、文五兵衛様はさらに、この市川に立ち寄って、妙真様を待って、あの多数の従者(ともひと)を率いて安房へ戻って行かれました。これから後、文五兵衛様はこの数ヶ月、心の動きがお疲れになって、老病が次第に身に潜んできましたが、さほどの苦悩の様子もなかったのですが、臥したら枕から頭を上げることもできなくなりました。このことを里見殿がお聞きになり、医師に命じて療養の術を尽くさせたのですが、命数は既に限りがあることがわかり、病みが癒えることはなくなりました。妙真様は驚き憂いて、いつも看病をなされ、頼みになるものは少なくなったと思われて、この春二月(きさらぎ)の初旬に、ここに飛脚を送って、事の次第をお知らせいただいて、私は、その消息に驚いて、物も取り敢えず飛脚と共に、日をおかず、安房に到着し、妙真様にお会いして、さらに詳細を聞きまして、ますます不安になり、文五兵衛様の病床に近づいて、何事かと問いますと、文五兵衛様はそれを聞いて、

 『依介殿か。よくぞ来てくれた。さあこちらへ』

 と間近くに寄らせて、枕を上げて、こう仰りました、

 『私は、老病が身にせまっているので、対面もこれが最後だろう。私の息子、小文吾、孫の親兵衛の行方もわからないまま、長き別れになってしまった事は、まことの心ではないが、つらつらと考えると、彼らは伏姫(ふせひめ)様と宿世(すくせ)のある八行八字(はっこうはちじ)、八犬士の一人だと思えば、鬼神もあえて害することができず、ましたえや怨敵残賊に命を奪われる事はないだろう。一時は不幸にも窮厄(きゅうやく)の中にあるといえども、八人が揃った日に、里見殿に仕えて、名を揚げ、家を起こすこと、おそらく、そのようになるだろう。愚案のようかもしれないが、彼らは遠く父祖に優る、未然の功徳を行って、親に安らかに養っておられる里見殿に値遇(ちぐ、前世の宿縁で現世で出会う事)するだろう。去年の秋から国守の洪恩(こうおん、大きな恵み)、奴婢さへこのように私につけられて、座して食事をし、自ら衣を仕立てる必要も無く、着の身着のままで暮らしていて、心地は常のようではなく、初めから名医、良薬を恩命なされて、冥加(みょうが、神仏の恵み)があふれて感涙し、袖を濡らす日も多くあったのだ。そして余命を貪って、この世の名残を惜しんでいるのだよ。年齢もすでに六十(むそじ)となった。よい死に時だと思う、もし小文吾が後に聞いたとしても、親の死に際に会わなかったからといって、怨んではいけない、とそのように伝えてくれ。さしたる形見はないが、行徳の家を売った一包みの金がここにある。小文吾が元気で、かの友達と一緒に帰ってくる日があれば、長き旅宿の借財で借金などがあれば、この中の十金を貴方(依介)にもらっていただいて、残りをすべて小文吾に渡してくれないか。時が来るまで、貴方に預けておくから』

 と遺言を細やかに述べられて、お応えするだけで慰めることもできず、塞がる胸の苦しさに、体を起こして振り返ると、側にいらっしゃった妙真様も涙にむせび泣き声を袖に包んでいらっしゃいました。この日から看病ををして十日後、その二月十五日に、文五兵衛様は苦痛も無く、眠るように息を引き取られました。仏滅涅槃(ぶつめつねはん)の会日(えにち)のような終焉はとても愛でたいと心のある人は言っていました。このことを里見殿がお聞きになり、葬式の事、四十九日の法要など、たいへんな式典をご用意いただき、私は二月下旬に、かの地をたって帰る時に、妙真様は心細く、留まるように仰ったのを、思い出しても痛ましく、くだくだ申し上げても、上手く伝わりません。お察しください」

 と告げるのを聞いていた小文吾は、愀然(しゅうぜん)として、しばたく瞼にあふれる涙の雨、猛き心も湿っているようで、胸を叩きながらかきむしって、

 「なんと悲しい事か、昨日まで親の命日を知らないまま、今もなお故郷は無事でいらっしゃると思っていたので、夢が覚めた悔しさが、言葉にしてもどうすることもできず、去年の七月に曳手等と一緒に故郷に帰っていれば、このような後悔はしなかっただろうに、自分は石浜城に捕らわれて、交信すべき方法もなく、たまたま帰る遠虚潟(とおひがた)、波が寄せる水江で、浦島太郎の七世の孫に逢ったという話にも似て、懺悔後悔がつきないのだ。人伝に聞く、亡き親の遺言は悲しいものだ。たとえ名を揚げ、家を起こして、俸禄をこの身に頂いても、貧しいままでも親と一緒に仕えた方が、なによりも優ることだろう。年来の親不孝を許していただきたい」

 と詫びながら東に向かって、佇まいを唯して伏して拝むようにすると、依介はこれを慰めるように、

 「貴方様のお嘆きはよく分かりますが、今、千も万も元には戻りません。まずは先程お話しした、一包みの形見をお渡しいたします」

 と言うと後ろを振り返って、

 「水澪よ、みおよ」

 と呼び立てると、女房は次の間に、物語を聞いており、答えながら間の簀戸(すと)を、ほんの少し開いて、顔の片側を表すと、それを依介は見て、

 「やぁ、お水澪よ、この春、そなたに預けていた、御形見の金(かね)を持ってきてくれないか。これを持って行きなさい」

 と腰を探って、鍵の束を投げ出すと、手を伸ばしてそれを取って、急いで納戸の方に向かい、件の金を持ってくると、依介はこれを受け取って、

 「そなたも、しばしここにいなさい」

 と留めて、小文吾に向かい合うと、

 「既に伝えましたように、これは大旦那の形見でございます。数を検めて納めてください」

 と言いながらゆっくりと差し出すと、小文吾はこれを手に持ち、胸に抱いて、

 「去年、蜑崎照文殿が、里見殿からの賜ったものと、贈られた砂金すら今なお過半も残っているのだが、路用に足りなくなることは無かったけれども、慈しみがこめられた親の遺産と聞いたからには、別日に使うべき時に使うようにします。そうであればこの中の十両は、貴方に与えられたのではないでしょうか。それをそのまま手を付けずにいたのは、律儀な心ばえで、感心するにかあまりあることです。こちらへ」

 と言いながら、包みを開いて、十両をとり、更に十両を加えて、依介に分け与えて、

 「この十両は、私の親の遺言によるものです。また十両は私が隅田河でどうしてよいかわからない時、助けてくれたお礼です。受け納めてください」

 と言うのを、聞いた依介は、

 「それは思いかけない事です。文五兵衛様から賜った十両はとにかく、こちらの十両は必要ありません」

 と辞するのを小文吾は押し返しながら、言葉を尽くして受け取るようにすすめると、依介はようやく受け頂いて、妻と一緒に、歓んだのだった。


(この2 ここまで)