南総里見八犬伝第六輯 巻之三 第五十五回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之三 第五十五回

(この3 ここから)

 その時、籠山逸東太縁連(こみやまいつとうたよりつら)は、既に例の曲者等が、笛と両刀を奪い取ったところを、遠くから見ており、『あっ』と思ったが、金吉銀吾と鎬を削っていた最中であり、心は慌てて、拳は乱れて、金吉の討つ大刀に、小鬢(こびん)を三寸ばかり浅手を負って、既に危うくなったところから、縁連の従者等四五人が走り来て、金吉銀吾を前後左右に押し込めて、攻めつけると、遂にずたずたに斬り倒して、ようやく首を取ることが出来た。こうしているうちに、粟飯原胤度の従者等は、討たれ、逃亡し、一人もいなくなったのだが、縁連は極めて大切な事だった、笛も宝刀(みたち)も曲者に奪い去られたので、さすがに不安になり、
 

 『どこにいったのか捜索するぞと思うのだが、もはや日は暮れてしまっていた。しかも他領で

の事なので、後難もまた起こるかもしれない』
 

と思い返すと慌ただしく、味方の死骸も捨て置いて、胤度主従の三人の首だけを携えて、道を逆に引き返し走りながら、その夜に岩槻の近くにある古寺で夜を過ごして日が明けるのを待ち、つくづくと考えていた。


 『私は胤度を討ちとったのだが、肝心の笛と両刀を、曲者に奪われてしまい、申し開きが出来なくなった。ましてや討ち漏らした胤度の従者等が、私より先に帰って、ありのままに訴えてしまえば、私が私怨によって、胤度を捕縛するのではなく、だまし討ちにしたと言われるだろう。そうなってしまえば、私の罪は命で贖うことになるだろう。つまるところ、赤塚へ帰るのは甚だ危なく、戻らなければ安全ということだ。父母はすでに世を去っているし、いまだ妻子もない。今の世で人を雇うというのは、いずれの国でも、その国の主だ。赤塚だけが日が照る場所ではないのは明らかで、三十六計逃げるにしかず』


 と心の内で決心し、その日の明け方にただ一人で行方知らずになったのだった。従者等はこれを知らず、夜が明けてから驚いて騒ぎ立て、しばらく議論をしていたが、如何様にも術が無く、三つ首を携えて、赤塚へ皆、おめおめと帰り着き、云々(しかじか)と粟飯原胤度主従が討たれた有様、ならびに嵐山の尺八と小篠落葉の両刀を、その折りに曲者に奪われたことについて。また籠山縁連は、未明に旅宿より逃亡したことを漏れなく報告したところ、自胤(よりたね)は驚いたが、是非を考える間も無く、密かに馬加常武(まくわりつねたけ)を招いて事件の様子を打ち明けて、そして、


 『あの笛を紛失したのならば、守の咎めは強いものになるだろう。どうしたらよいだろうか』
 

 と問うと、常武もことさら驚いた面持ちで、
 

 『まことに、これほどもない凶変です。結果として笛の紛失も、みな胤度が起こした事件の結果ですから、彼の妻子を誅殺して、公に申し開きすることで、あなた様へのお咎めは、なくなくのではないでしょうか。私がよく調べて計らいましょう。さあ、おまかせ下さい』
 と答えて、退きながら、実胤、自胤の両下知を受けて、胤度の長男である粟飯原夢之助という今年十五歳になる美少年に腹を切らせ、ならびに自胤の妻稲城(いなき)と五歳になる女児(むすめ)を、同じ日に殺したのだった。ただこれだけではなく、親族や妻の縁戚までも罪を被って、国を追われ、または閉じ込められて憂い死にするものも多くあった。誠に邯鄲一炊(かんたんいっすい、邯鄲の夢:唐代、沈既済の小説で、盧生という青年が、邯鄲で道士呂翁から不思議な枕を借りて寝たところ、立身出世して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱(こうりょう)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事から、短く儚いことを示す)の粟飯原氏の栄枯得失、騒ぎが収まって、夢之助の死を惜しむ者が多かった。その騒ぎの中で、胤度の妾に調布(たつくり)という者がいた。身ごもって三年を立つが、未だ出産することなく、医師もこれは病気ではないかと思うが、判断がつきかねて、血塊の病として急ぎ治療を始めようとしていた。しばらくして、常武は、かの妾の調布には、胤度(たねのり)の遺児があると聞いていたので、これも合わせて殺そうとしていたら、相哀れむものと悲しみを告げて、医師を証人として、


 『決して妊娠してはいない。血塊に間違いありません』
 

 と、様々な方書(ほうしょ)を引用して、医師も共になだめると、常武はよけいに疑って、調布に堕胎の薬を、三日続けて飲ませたのだが、はっきりとした効き目がなかったため、
 

 『やはり血塊だったのか』
 

 と、遂に追放したのだった。これは今より十五、六年前の昔、寛正六年乙酉(きのとのとり)の冬、十一月(しもつき)の亊だった。そして、追放された調布は、小さな所縁をあてが、相模国足柄郡の犬坂(いぬさか)という山里で、病悩は血塊ではなく、その年の暮に、子を産んだため、それから三年すぎた後、応仁元年丁亥(ひのとのゐ)の秋頃、誰がいったという事ではなく風聞を、常武が聞いて、驚き怪しみ、


 『これは大変な事だ』


 と、老僕(おとな)の柚角九念次(ゆづのくねんじ)を犬坂へ使わして、事の虚実を探らせたところ、子を生んだのは確かであるが、今はそこには住んでおらず、行方知れずとなっていたため、常武は靴の中の足の痒みのような気持ちで、なおあちこちと捜索させたが、まったく発見できなかった。また、かの籠山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)は、千葉家恩顧の郎党で、その家柄もたいそうな身分で、年齢はまだ若いが、胤度の次に据えられて、赤塚殿の覚えも良いが、欲深く知恵は浅く、胤度と年中仲が悪かったので、常武に賄賂を贈り、主命をきちんと守らず、忠信篤実(ちゅうしんとくじつ)である胤度をだまし討ちにしてみたが、冥罰(めいばつ)がたちどころに自分の身に降りかかり、もったいないほどの俸禄を自分から捨ててしまい、谷影の日陰者に落ちぶれて、素性を知ってる者も知らぬ者も皆が、憎み嘲り笑ったのだった。そこで、石浜である実胤(さねたね)は、寄る年波で多病であったため、すべての事柄を常武ひとりに、任せてしまい、この頃は遁世を頻りに願い、自身の所領を弟の自胤(よりたね)に譲ってしまい、自身は美濃に隠退してから、数年も経たないうちに、世を去ってしまったのだった。このため、鎌倉の両管領より、二郎自胤を千葉介(たいばのすけ)に補任し、石浜城を居城として、武蔵七郷(1)、葛西三十数カ所の荘園を管領より賜って、今に至って繁栄したのだった。
 

 そこで、馬加大記常武は、全ての事を自ら思いのままに謀り、その権勢は肩を並べる者などなく、主人の自胤も常武を重く用いて、はじめの頃のあらし山の笛の亊も、実胤から咎めもなく、家督をまでも嗣いでしまったので、皆、常武の徳だと思い、勢いに手を貸すようだと思うと、胤度が討たれたとき、常武は密かに地元の悪党である並四郎と話し合って、件の笛と両刀を盗ませたに違いない。その時の賤婦(しずのめ)は、並四郎の女房である船虫(ふなむし)だったのだ。その後で笛と両刀は並四郎が取得して、小篠落葉(おささおちば)の両刀だけを、密かに他の土地に持ち込んで、高値で売ってしまおうと思ったが、嵐山の尺八は古く良い物だったため、今の笛とは異なっているから好んで買う人もいないだろう、かつ蒔絵をした歌などを、けやき(欅との語呂)にはばかって、手元に長らく隠していたが、どうにかしたいと、去るところの途中で、阿佐ヶ谷(あさや)の村長(むらおさ)等を襲って、船虫を奪って走り、何人もの曲者も、馬加殿の回し者も、一つ洞穴の狐どもと同じである。場合によっては、船虫が責められて苦し紛れに白状してしまえば、こちらの悪だくみも露見してしまうだろう、と思ったからだ。ならば、自身を隠して、辛い中に閉じこもるのも、そのような疑念があるからである。このように長々しく、かの人の年来の悪だくみを誰も知っている者はいないが、狙渡増松(さわたり・ましまつ)という扈従(こしゅう・小姓のこと)の若党は、馬加殿の腹心の家来で、機密に携わり、ことある毎に貫禄(かつけもの)のある者どもに、多少なりとも恨んでいて、機密情報をある人に云々(しかじか)と漏らし、語り継ぎ、伝え聞いて、今では知らない人はいなくなったので、この威勢にはばかって、話を繋いでしまうと、守(かみ)にも同時に伝わってしまうのだ。馬加殿は万事疑い深い性格であるから、あの増松が口をきいて、毒を盛られてある夜に眠りながら死んでいったのだった。それで、自分の朝夕の食事にも用心して、謀が進まなくなった。」

 と囁くと、男童が、すでに夕膳を持ってきていて、いつのまにか後方へ退き、長物語に聞きほれて、小文吾の袂(たもと)を引いて

 「夕餉(ゆうげ)の箸をとらないのですか」

と聞かれて、小文吾は振り返り、共に品七も驚いて、慌てふためき箒(ほうき)をとって、ちりとりを網片方に提げて、折戸の側に立ち、

 「ここを開けてください」

 と呼ぶと、外から人が来て、鎖(とさし)をひらいて、品七を出して、しっかりと再び閉じたのだが、確かに人の口に戸は立てられず、

 「ああ、天言の声はなくて、よくいわれているように、隠し事は、完全には覆うことはできない」

 と小文吾は密かに呟くと、そのまま夕膳に向かったが、箸をとる事が物憂げで、ため息ばかりが出てくるのだった。



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用語解説
(1)武蔵七郷:平安期から室町期にかけて、武蔵国を中心として、周辺の下野、上野、相模にまで勢力拡大していた七党【横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)】が治めていた郷里のことである。横山党は八王子市、猪俣党は児玉郡美里町、児玉党は本庄市児玉郡、村山党は多摩郡村山郷、野与党は加須市野与庄、丹党(丹治党)は入間郡・秩父郡・児玉郡、西党(西野党)は日野市、を治めていた。また、この七党、七郷という呼び名は鎌倉末期に定着したようである。この七党以外にも、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)があり、正確には九党、九郷である。


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