吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)十二月 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年(1180年)
 十二月小

  十六日(甲午・きのえうま)
   鶴岡若宮に鳥居が立てられ、また長日(ちょうじつ)の最勝王経(さいしょうおうきょう)の講讃(こうさん)が始められた。源頼朝が参詣した。水干の装束で、馬に乗っていたという。

  十九日(丁酉・ひのととり)
   右馬允橘公長が鎌倉に到着した。子息の橘太公忠、橘次公成を伴っていた。橘公長は左兵衛督平知盛の家人である。去る二日に、蔵人頭平重衡朝臣が東国を攻めるために出陣した際に、前右大将平宗盛の指示で従軍していた。弓馬が巧で、戦場に挑んだときの知謀が、人より優れていた。しかし、橘公長は現在の平家の有様を考えて、すでに良い運が傾きかけている。また先年、粟田口の辺りで長井斎藤別当実盛や片切小八郎太夫景重(かつて源為重の御家人だった)と喧嘩になった時、源為義がきっと朝廷に訴えるだろうと恐れていたが、ただ怒りを抑えるだけでなく、斎藤と片切の二人を戒めた。橘公長はその時の恩を忘れず、その志がずっと源家にあったのだ。そのため大将軍の夕郎(せきろう、五位の蔵人の唐名、この場合平重衡を指す)を嫌って、縁者を尋ねて、まず遠江国に下向し、次に鎌倉の到着した。同じ所で同僚だった加々美次郎長清を通じて、源頼朝に事情を伝えたところ、御家人になることを許された。

  二十日(戊戌・つちのえいぬ)
   源頼朝の新造した邸宅で、三浦介義澄が椀飯(おうばん・いわゆる宴会で、目上の人を饗応すること)を行った。その後、御弓始(おゆみはじめ)があった。これは事前に定められていなかったのだが、橘公長の子息が特に弓が巧みだという話があり、その腕前を試すことになった。酒宴の時に源頼朝がその場で命じた。

    射手
     一番 下河辺庄司行平  愛甲(あいきょう)三郎季隆(横山氏の流れ、弓の名手)
     二番 橘太公忠     橘次公成
     三番 和田太郎義盛   工藤小次郎行光(甲斐国の住人で、父・景光と共に頼朝挙兵から随行している弓の名人)

   今日、御行始(おなりはじめ・家臣の邸宅を主人が訪問すること)の儀式が行われた。安達藤九郎盛長の甘縄(現在の鎌倉市長谷)にある宅に、源頼朝が訪問した。安達盛長が馬一頭を献上し、佐々木三郎盛綱が轡を取った。

  二十二日(庚子・かのえね)
   新田大炊助(おおいいのすけ)入道上西(義重)が呼ばれて参上した。しかし、すぐには鎌倉に入ってはならないと言われていて、山内の辺りに留まった。これは新田上西が軍士達を集めて、上野国寺尾館に引き籠もる噂があったため、安達藤九郎盛長に調査を命じていたからである。上西は、
   「心中では決して反抗していません。しかし、世の中で戦闘が行われていたとき、軽々に城を出るべきではないと、家人達が諫言するので、どうしようかと思っていたところに、参上せよとの命を受けましたので、大変恐縮しています」
   と言った。安達盛長がこれを特別に執り成して伝えたところ、この弁明は聞き届けられた。また、新田上西の孫である里見太郎義成が京都より参上した。日頃は平家に賊していたが、源家の繁栄を聞いて参上したのだった。その誠意は祖父と異なっていたので、すぐに源頼朝の側近くで奉公することを許された。里見義成が次の様に話をした。
 「石橋合戦の後、平家方がしきりに作戦会議を開き、源氏に類する者全てを誅殺するよう、内々に準備していたので、関東に行って武衛源頼朝を襲うと、私(里見義成)が偽って言ったところ、平家は喜んで下向することを許可しました。そしてやってくると駿河国の千本松原で、長井斉藤別当実盛や瀬下四郎広親たちと会い、彼らが言うには、『東国の勇士は皆、源頼朝に従っており、頼朝は数万騎を率いて鎌倉に到着された。しかし我々二人は先日、平家と約束した事があるので、上洛しているのだ』。里見義成はこれを聞いて、鞭を揚げて急ぎ駆け付けました」。

  二十四日(壬寅・みずのえとら)
   木曽冠者源義仲が上野国を去って、信濃国に向かった。源義仲は自立の志があり、さらに上野国多胡庄は亡父の遺領であるため、入部したのだが、武衛源頼朝の権威がすでに関東で輝いていたため、帰国の行動をとったのだった。

  二十五日(癸卯・みずのとう)
   石橋合戦の時に、源頼朝が巌窟に納めになった小さな正観音像を、専光房良暹(りょうぜん)の弟子の僧が、閼伽桶(あかおけ:仏に供える水を汲み入れる桶)の中に安置して捧げ持って、今日鎌倉に到着した。去月に命じられたものだった。数日山中を探し、巌窟を見付け希有にも見付け出した。源頼朝は手を合わせて、直接受け取られた。信心はますます強くなったという。
   今日、平重衡朝臣が平相国禅閤の使いとして、数千の官軍を率いて、南都の衆徒を攻めるために出陣した。

  二十六日(甲辰・きのえたつ)
   佐々木五郎義清が囚人として兄・佐々木盛綱に預けられた。佐々木義清は早河(早川)合戦の時、渋谷庄司重国に従い、反抗したからである。

  二十八日(丙午・ひのえうま)
   出雲福田時沢を源頼朝の雑色(ぞうしき・蔵人所の下級職員、この時代に人員数が定められていたかどうか不明)に命じられた。朝夕、祗候(しこう・奉仕すること)する雑色は多くいたが、出陣の時に、出雲時沢は他より優れていたため、雑色職に任じられたという。
   今日、平重衡朝臣が南都(現在の奈良)を焼き払った。東大寺や興福寺の邸内にある建物はひとつも残らず焼けて、仏像、教典も同様に焼けてしまった。