吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)五月 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年

五月

 

 十日(庚酉・かのえとり)

   下河辺庄司(しもこべのしょうじ)行平(ゆきひら、下河辺氏は秀郷流藤原氏で下総国下河辺領の管理人(庄司=荘司)として源頼政に仕えていた)が源頼朝に使者を送り、源頼政(源三位、源三位入道、入道三品、三品禅門、馬場頼政などの別名を持つ。平家の専横政治の中で、それまで正四位下までの位階しか与えられなかった清和源氏で、従三位に叙せられ、公卿となった。中央政権で源氏の長老として発言力もあったが、四月九日の記事にあるように以仁王と連動して平家打倒の令旨を発した。)が挙兵の準備をしていることを伝えた。

 十五日(丙寅・ひのえとら) 曇

  以仁王を土佐国へ配流する宣旨が出される。

  宣旨は上卿(しょうけい・公卿が任じられる)に三条大納言実房、職事(しきじ・蔵人が任じられる)に藤原行隆(右少弁)によって行われた。

  平家追討の令旨が下されたことが露見したためである。

  戌の刻、検非違使源兼綱と源光長が隋兵を率いて、三条高倉(以仁王の住居・御所)に向かった。

  以仁王は、直前に源頼政から連絡を受けて、既に脱出していた。

  検非違使は住居を捜索したが、発見できなかった。

  その間に、長谷部兵衛尉信連(はせべひょうえのじょうのぶつら)は太刀を手にして、検非違使と戦い、源光長の郎党五六人が負傷した。

  その後、源光長は、長谷部信連と以仁王の家司(けいし)を一人二人、女房三人を捕らえて帰った。

 十六日(丁卯・ひのとう) 晴

  朝、再び検非違使が以仁王の御所を取り囲み、建物を壊しながら捜索したが、発見できなかった。八条院の女房である三位局(さんみのつぼね・高階盛章の娘)が産んだ、以仁王のご子息である若宮が八条院にいたので、平頼盛(池中納言)が使者として精兵を率いて、八条院御所に向かい、若宮を六波羅に連れて帰った。

  洛中(京の中心部)は終日騒がしく、京外で数々の騒動が発生した。

 十九日(庚午・かのえうま) 雨

  以仁王は十五日に、密かに三井寺に入り、三井寺の衆徒によって法輪院を以仁王の御所にしたという噂が京中に広まった。そこで源頼政は、近衛河原の自宅に火を放ち、一族郎党を率いて以仁王のもとに向かった。

 二十三日(甲戌・きのえいぬ) 雨

  三井寺の衆徒が城郭を構え、溝を掘って、平氏を追討しようと議論した。

 二十四日(乙亥・きのとい)

  源頼政の自宅の中山堂と山荘が焼け落ちた。

 二十六日(丁丑・ひのとうし) 快晴

  卯の刻、以仁王は奈良へ向けて出発した。源頼政の一族と三井寺の衆徒がお供した。

  対して、平知盛(たいらのとももり・左衛門督朝臣)、平維盛(たいらのこれもり・権亮少将朝臣)をはじめとする平清盛の一族は、二万騎の官軍を率いて、競うように以仁王一行を追った。

  そして宇治の辺りで合戦となった。源頼政とその子息・源仲綱・兼綱・仲家、そして足利義房(判官代)が殺された。しかし源頼政の首は贋物だったという噂がたった。以仁王もまた、光明山の鳥居の前で最後を遂げた。享年三十歳。

 二十七日(戊寅・つちのえとら)

  官軍(平清盛軍)の兵が、三井寺の衆徒が城郭を構えていた、宇治の御室戸(園城寺の末寺・御室戸寺)を焼き払った。

  諸国の源氏や興福寺・三井寺の衆徒の中で、以仁王の令旨に応じた者すべてに攻撃を加えることを高倉院(高倉上皇・安徳天皇の父、治承三年の政変で後白河院が幽閉されると、治承四年二月に安徳天皇に譲位し、自身は太上上皇として一時期政務を執った)の御所で決定された。