吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)六月 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年

六月

 十九日(庚子・かのえね)

  三善康信(散位)の使者が北条に到着。

  源頼朝(武衛)は密かに対面し、三善康信の考えを聞く。

  「先月二十六日に以仁王が戦死。以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討する命令が出ている。あなたは源氏の正統なので、特に注意が必要。早急に奥州へ逃げよ」

 

  注)四月二十七日の官軍の議論では「以仁王の令旨に応じた源氏と興福寺・三井寺の衆徒をすべてを攻撃する」としたが、この三善康信の考えでは「以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討する」と、攻撃対象が拡大解釈されている。現時点では源頼朝は挙兵していない=以仁王の令旨に応じていない、ので官軍から見れば要注意人物ではあろうが、攻撃対象になっていない。

 

  三善康信の母は源頼朝の乳母の妹である。そのため三善康信の志は源家にあり、様々な障害を乗り越えて、十日に一度、毎月三回使者を送って、洛中情勢を伝えていた。そして源氏追討の命令が出されたので、弟・三善康清と相談して、病気として朝廷への出仕を休み、使者として伊豆に来た。

 二十二日(癸卯・みずのとう)

  三善康清が帰京。源頼朝は詳しい手紙を書き、三善康信の功績に感謝を示した。この手紙は藤原邦通(大和判官代)が執筆し、源頼朝が一筆加えて、花押を据えた。

 二十四日(乙巳・きのとみ)

  源頼政が敗北した後、三善康信が伝えた全国の源氏追討の下知は、噂として聞き流すわけにはいかず、源頼朝は逆に平氏を追討しようと考えた。そこで御書を源氏累代の御家人達に送って呼び寄せることにした。安達藤九郎盛長(魚名流藤原氏、配流された源頼朝の側近)を使者として、中原小中太光家(これ以降、源頼朝の近習)を副え人として使わせた。

 二十七日(戊申・つちのえさる)

  三浦義明の二男の三浦次郎義澄と、千葉常胤の六男・千葉六郎大夫胤頼が北条の地に参上した。

  「ちかごろ京都に祗候(しこう・貴人に仕えること)しており、先月中旬に帰国しようとしたところ、宇治で合戦があり京都に留められていたが、遅れましたが、不安や心配を晴らすために参上しました」

  と源頼朝に話した。二人は大番役(京都の警護職)を務めていたため、源頼朝と密かに会話をした。