なけけとて 月やはものを 思はする かこちかほなる 我涙かな
俊成があこがれた西行法師とペアにするというところが、定家の気の利き加減になんともいえず、賞賛するばかりだ。西行は、俗名・佐藤義清(さとうのりきよ)で、平安末期から鎌倉初期の武士・僧呂・歌人である。私が好きな歌は、次の一首である。
続古今)願わくは 花のもとにて 春死なん その如月の 望月の比
この歌に比べて、定家が撰歌した歌は、かなり奇妙である。「なけけとて」、「かこちかほ・なる」という音が、なんだか切迫した気分にさせる。詞、詞が映す景色だけでなく、詞の音で、歌を作り上げるという技術が平安末期には完成していた。その流行の手法を西行が全国に流布させたわけだ。その代表が、この歌である、と定家は主張しているようだ。
初句「なけけとて」は「嘆気とて」、「嘆こうという気持ちになって」の意味である。「月やはものを思はする」は「月夜は物(者)を思い出してしまう」である。「かこち・かほ・なる」は「物事を他のせいにした恨み顔になる」で、「われなみたかな」は「自然と私は涙が出てしまう」という意味である。訳してみよう。
「嘆き悲しみというのは、月の夜にふと思い出させるものだ、この悲しみを誰かのせいにしている、己の顔にいやけがして、さらに嘆いて涙してしまうとは。」
この歌は、初句「なけけとて」と下句「かこちかほなる」が密接につながっているところが魅力的である。「なけけ」と「かこち」が奇妙に、やや窮屈な感じがするが、長い間この歌に触れていると、その感触が変わってきた。それは涙の「味」のことなのだ。
初句が「なけけ」で、「嘆きの気持ち」と「泣けと思い込んで」という詞が重なっている。そこから派生して、下句で、「かこちかお」と「われなみだ」に分かたれる。
「かこち」は現代語では「かこつける(託ける)」ことで、理由もなく何物かのせいにしてしまうことだ。自分の不遇を嘆いて、それを世間のせいにしたり、他人のせいにしたりすることで、不幸を正当化する。そんな時の人間の顔は、悪魔のようにゆがんでいるのだろう。当時は悪魔という詞はないから、鬼か。さしずめ夜叉(夜叉)というところだろう。
藤原俊成が第八十七番の歌で、末法の世、導きが無いと嘆き、ある種の達観を吟じているが、この第八十八番の歌では、その嘆き自体も、勝手気ままな人間の思いなのだと諭している。多くの風流人や修行僧が、西行に憧れ、西行のように全国を行脚し、仏教という思想だけでなく、人の思い、苦しみ、悲しみ、喜び、憎しみをその基本原理から諭していく。この僧呂による地上移動(水平移動)は戦国期、江戸期でも継続される。修験道者は山家(さんか)族との結びつきで、全国の山々を駆け回っていたが、それとは別の話だ。
俊成の諦観と、西行の死生観。この二つが和歌を通じて、その後の日本人の文学的美意識へと波及しているのは、周知の通りだ。それらを国学として研究したのが荷田春満(かだのあずまろ)で江戸中期の人である。門人に賀茂真淵(かものまぶち)がいて、さらに純度を上げていく。賀茂真淵の弟子が本居宣長(もとおりのりなが)である。宣長は荻生徂徠(おぎゅうそらい)や契沖(けいちゅう)の影響も受けていて、国学の研究を幅広い視点から行う。国学と言っても、日本の古典文学の理解である。理解したからこそ、当時の日本人に欠けているのは、上代〜中世の美意識だと鋭く説く。これに応じたのが平田篤胤(ひらたあつたね)である。篤胤は、復古神道という神道の古道を再構築した人物で、幕末の攘夷思想に大いに影響を与えた。篤胤は松山藩士でありながら、武士だけでなく、一般民衆に向けても啓蒙活動を行った。講談風に口述し、それを記録させ、製本し出版する。島崎藤村が小説「夜明け前」で馬籠宿において、近くの伊那の平田学派について子細を記述して、有名になった。武士が切腹する際に辞世の句を詠むというのは、西行や俊成の死生観によるものだ。もう少し学のある者、たとえば長州藩の吉田松陰などは、漢詩を詠んだ。
狂歌には次の一首がふさわしいだろう。
八十八 本居大平
狂)人のつら かむばかりもの いひし人 今日(けふ)逢ひみれば にくくしもあらず
本居宣長の「古事記伝」に付録していた服部中庸(箕田水月)の「三大考」は平田篤胤を大いに魅了する宇宙観を伴った解釈本だった。中庸は、篤胤に会い、古道の本義を教えて欲しいと願う。また弟子で宣長の跡継ぎ(鈴屋一門)である本居大平に会い、篤胤は師弟関係を結ぶ。しかしこの「三大考」については大平と解釈の齟齬があり、宣長にしてみれば弟子同士の喧嘩に映ったであろう。
しかし宣長の死後、中庸を初め多くの者が篤胤こそ宣長の跡継ぎと考えていたのだが、鈴屋一門は大平を押していた。その中、篤胤が鈴屋を訪問した。そのとき、篤胤は斬新な著作を次々と発表し、反篤胤派は、解釈のこじつけを行って、強引に反論していた。そんな中で、篤胤が単身鈴屋に乗り込むと、大平は門人の一人として、もてなすことにした。訪問に先立って、篤胤が鈴屋に次のように詠んだ歌を送った。
狂)武蔵野に 濡れ落ちてあれど 今更に より来し子をも 哀とは見よ
鈴屋は京都の大店である。そこに東国からやってきた弟子の自分を哀れと思ってくれ、と謙っている。そして、鈴屋一門の代表本居大平が、返歌として第八十八番の狂歌のように詠んだ。篤胤の歌の方が上手いとは思うが、返歌の大平がわざと、本音で対応した、というのがこの歌合の面白さだ。
第八十八番狂歌の意味は次の通りである。
「人の面を噛んでばかりの物言いしかしない人なのに、今日逢ってみれば、憎らしくはないものだ」
しかし、隠されたシナリオもある。「人のつら」は「人の連」、「かむ・ばかり」は「神・許」、「ものいひし」は「詞にする人」。上句は、「国学の流派で、神道の本道ばかりを説いてきたあなたが」となる。下句の「にく・くし」は「辱・奇し」で、「我々の流派の思想を汚す物でも、奇妙な物でも」ない、ということだ。おそらく篤胤は、この歌を受け取って、さすが鈴屋一門の大人(うし)よ、と感じたに違いない。