よの中よ みちこそなけれ 思ひいる 山の奥にも 鹿ぞなくなる
作者の皇太后宮大夫俊成こと藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、平安末期から鎌倉初期に生きた公家・歌人・書家である。名は「しゅんぜい」と有識読(ゆうそくよ)みされる。父は、藤原北家御子左家(みこひだりけ)・権中納言・藤原俊忠の四男である。はじめ藤原北家勧修寺流・葉室家に養子に出るが、後に実家の御子左家に戻り、俊成に改名した。最終官位は、正三位・皇太后宮大夫。千載和歌集の撰者である。
歌道の師は、藤原基俊。徳大寺家に仕えていた西行こと佐藤義清(佐藤家も藤原家一門。秀郷流武家である)とも交流があり、義清が二十三歳に出家したこと影響され、自身も出家を望んだが周囲に反対されて断念した。その結果として歌道を深めることになり、上代からの伝統を踏まえた情緒豊かな歌が多い。当世風の六条流とは対抗していた。千載和歌集は後白河院の院宣で、独りで撰歌したものである。歌道研究の文書も多く残されていて、後白河院皇女の式子内親王に奉じた「古来風躰抄」は有名である。
なによりも、歌道の指導者としては超一流で、息子の定家だけでなく、寂蓮、藤原家隆など多くの歌人を育てた。平家物語にも彼のエピソードが語られるなど、中世へ移行する歴史の分岐点で光り輝いた人物だ。
そのエピソードとは、平清盛の弟・忠度(ただのり)は武勇も歌道も優れていて、俊成に師事していた。平氏一門が都落ちした後、忠度は従者数名を従えて、京に引き返し、俊成の邸宅を訪れた。家人達は落人の来館に恐れをなしたが、俊成はかまわず忠度と対面した。すると忠度は「争乱で院宣が中止になったのは残念です。この戦が収まれば、あらためて勅撰和歌集の編纂の院宣が下されるでしょう。もし、この巻物の中にふさわしい歌があれば、一首でもよいので撰歌してくだされば、私もあの世にいて嬉しいと思いましょう。そしてあの世からお守りする者になれるでしょう」と言うと、歌百余首が収められた巻物を置いて立ち去った。忠度は翌年の一ノ谷の戦いで戦死した。置いていった巻物には、勅撰和歌集にふさわしい歌が多くあったが、忠度は犯罪人だったので、俊成はその中でも一番優れた歌を一首だけ、「詠み人知らず」として選んだ。その加護があったのか、既に七十歳近かった俊成は更に二十年余り生きた、という。
俊成の死去直前には、平氏に代わって鎌倉幕府を建てた源氏も、第二代将軍・源頼家が、御家人の勢力争いの中で落命、再び後鳥羽上皇が専制君主の世を取り戻そうと、朝廷、武家へ働き始める。これを見ていた俊成は、どのような心境であっただろうか。
さて本歌をみてみよう。初句「よのなかよ」は、伝統的な歌風の俊成にしては、不思議な詞遣いだ。最初の「よ」は「夜」と「世」で、最後の「よ」は呼びかけ、感嘆の間接助動詞である。「夜の中のような世だなぁ」という意味になる。訳してみよう。
「まるでこの世は夜の中のようで、指し示す道すらないではないかと、思っていたところ、山の奥の方から鹿が鳴いているのが聞こえてきた、ああなんとももの悲しいものか。」
第八番・猿丸大夫のところで書いたが、「鹿が鳴く」というのは表現上の景色、脚色で、実際の真情がここに隠されている。しかもこの歌では「鹿ぞなくなる」で、「無くなる」なのだ。時代は末法直前、源平の争乱、自身は出家し仏道を極めたい、こういった状況を考えれば、「鹿」は「釈迦」を意味することがわかる。しかも上句で「道こそなかりけれ」とある、これは末法の世のことで、上句全体が、末法そのものを指している。だから下句では「山の奥で、源平の争乱など無い場所でも、お釈迦様のお導きが無くなってしまったようだ」と詠んでいるのだ。再度訳してみよう。
「この世は末法となって、仏の指し示す道すら無くなってしまったように思える。京の争乱とは本来関係の無い寺社の奥でさえも、お釈迦様のお説きになった言葉さえ、通じなくなってしまっている。(なんと嘆かわしいことか)」
ここで「山」は「寺社」のことだ。源氏と平家の争いのきっかけを思い出してみよう。比叡山の知行領と北陸の知行領の争いが、戦乱の口火だった。それ以前に、比叡山は多くの武装した偽物僧侶を集め、強訴という強盗まがいの押し込みを京で行っていたわけだ。これに対抗しようと、様々な組織が武装化し、武家が台頭していく。それに拍車をかけるように大飢饉が起こり、戦乱の空白を好機と見る木曾義仲によって、再び戦火が全国を襲う。本来仏門の僧侶こそ、人身の心を安寧にして、戦を辞めるように仲介すべきなのだが、それすらせず、一緒になって争っている。本来の仏教とは何か。佐藤義清はそれを突き詰めるために出家し、西行となり日本全国を行脚しながら、模索するのだ。こういった姿に、年下の俊成が憧れたというのは、当然のことであろう。
壮年期を過ぎ、優れた歌人も育成したが、何よりも世の中に何を自分はできたのか、という達観視感がある。その想いが、どっしりとのっかっているのが、この歌である。この歌のキーポイントは三句の「おもひいる」である。「いる」に私は「永く生きすぎたなぁ」という感慨が含まれていると思う。達観していなければ「おもひつる」とか、「おもひやる」といった詞を選んでしまうだろう。「おもひいる」というのは、本当に哀しく、しかし今ここに居なければならなくて、でも居てはいけないかもしれない、そんな虚ろな「居る」に感じられてしかたがない。
折句もできている。
冠・よみおやし
沓・よれるもる
「よみおやし、よれるもる」=「詠み終やし、撚れるもる」。すなわち「もう、詠み終わろうか、世の中のよじれたものが、もぎ取られていくのだから」。自分の命はもうはかないと宣言しているわけだ。これが「達観」の真情だろう。
狂歌には人生の黄昏を詠むものもある。特にこの人は人生の頂点から、黄昏が始まっているのに気がついていたのだろうか。
八十七 秀吉 理齋随筆
狂)世の中に ちと我に似た 人もがな 生きて甲斐なき 事を語らん
豊臣秀吉が、位人臣を極め、聚楽第を建てた時、このような世になったからには、謀反など企てる者はあるまい。なぜなら秀吉に勝るものは無いからだと言って、このように詠んだという。
その時に、聚楽第の門に何者かが、
「奢れる者久しからず」(平家物語の初めにある名文句)
と書いて貼ったところ、秀吉はこれに自ら筆をとって、
「奢らずとても久しからず」
と書き加え、門に貼っておいたという。
いずれにしても、自分のようなまねはできないだろうという、大言なのだが、秀吉が信長に「さる」と呼ばれたことを思い出せば、「さるまね」など誰ができようか、という開き直りにも読めて、なかなかおもしろい。