南総里見八犬伝 二 第四輯第三巻第三十六回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 「これは」
 
と驚く敵の隙を、
 
「得たり」
 
と進む小文吾が閃かした白刃の稲妻、房八は右の肩先を、ばらりずんと切り裂かれ、持っていた刀をからりと捨てて、尻からどんと倒れ込んで、再び撃とうと振り上げる、刃の下に房八は、
 
「やぁまて、犬田、言うことがある」
 
とせわしく止めて左手を突き立て、頭を揚げて、蜻蛉の息のように小さく、深手の苦痛。小文吾は訝しいとおもったのですこしも油断せず、血刀をひらりととりなおして、片膝突いてキッと睨んで、
 
「卑怯だぞ山林、言うことがあれば、もっと早くに言えただろうに、この期に及んで、何を言うのか」
 
とたしなめると、眼を瞠り、
 
「その疑いは確かにそうだが、我が本心を初めに明かせば、得に義を守る、お前がどうして俺をきることができようか。まずこの傷を」
 
と手を上げると小文吾はまだ心得ず、と思いながら刃の血糊を、拭って忙しく鞘に納め、単衣の袖を契りながら、手拭いと結び合わせて、房八の傷口をしっかりとまいて端を引き結び、
 
「おい房八、傷は浅いぞ。言うことがあるならば言え、聞くぞ。何なのだ山林」
 
と呼び掛けられて、息をつき、
 
「のうあにき、犬田殿よ。栞崎で理不尽な、我が為体(ていたらく)はかねてより、お前に怒りをおこさせて、撃たれて難儀を救おうと思ったことなのだが、上手くいかず、親の諫めと堪忍を守っていては術もなく、ありがたい大勇に、いよいよ羞じて立ち別れたのだ。といっても止むべきことではなく、我が母には予てより示し合わせていたので、沼藺の離別に託けて、甲夜よりお前の顔色をみて、今宵再びおし来て、ようやく本意を遂げにきたのだ」
 
と告げると、小文吾は眉根を寄せて、
 
「よくわからないな山林。俺は沼藺の兄といってもお前に大恩があるわけではない。それを自身を殺すまでに志を尽くそうというのは、疑いの一つである。たとえお前の心によって、空しく命を落としたとしても、虚位に迫った俺の難儀を救うことはできないぞ。これ疑いの二つ目だ。外にも理由があるのか」
 
と問いなじると、房八は聞いて、声を励まして、
 
「それこそ、その事だよ。言葉が長くなるがが聞いてくれ。輪廻の説(ときごと)、因果の理(ことわり)、物の本には書かれているが、皆自分の身上にあるとは、少しも思っていないだろう。これも果敢なき今際の懺悔さ、告げるのも合わせる顔がないが、一昨年の秋、世を去った我が父の病が危うい時に、密かに母と俺を枕辺に呼びつけて、
 
 『わたしはここの小者から、ここの主になって、一子房八は成長した。私が五十歳を超えて、一期の望みは分(ぶ)に過ぎた。しかし、こころに羞じることがあれば、戸山だけでなく、房八にも、素性を正確に教えよう。思っていることを言わずに死ねば、冥土の障(さわり)になるかもしれぬ。よって密かに告げる。そもそも我が父は、杣木朴平(そまきぼくへい)という、安房の青海巷村(あおみこむら)の百姓である。性格からか武芸を嗜み、ことさら俠気(おとこぎ)があった。これによって故領主、神餘長狭介光弘朝臣譜第の忠臣、金鋺八郎孝吉殿の武芸に頻りに景慕して、その剣法を受けようと、彼の家に仕えた事があった。そして歳を経て、佞臣山下定包が、神餘の執権たったのに、淫酒を勧めて民を虐げ、逆謀の祥を顕していたが、光弘はこれを覚ることが出来ず、金鋺八郎殿もそうであったため、諫める者は皆追われて、その家がついに乱れてしまった。我が父は義の人であった。里人等のために、金鋺氏の為に怒り憤り、なんとか定包を討とうと、同志の仲間である洲崎無垢三(すさきのむくぞう)という丈夫と相談して、かの定包が遊山するのをうかがって、落葉畷に待ち伏せして、乗っている馬を目印にして、射て落として、敵にせずに、領主光弘のもとへ走った。無垢三はすぐに撃たれ、我が父は領主の近臣、那古七郎と血戦して、七郎を切り伏せたが、その身は遂に生け捕られて、やがて、刑戮(けいりく)させられるところだた。この戦いの間違いは、皆定包の奸計を、わが父が中途半端に思い迷って、領主をおかしたことで、金鋺氏は里見をたすけて、功成名を遂げた後、禄を辞して自害した。これも我が父の為だと聞いている。そのとき私は十四歳。母はさきに死んでいた。独り安房国に亡命し、この地に漂白する程に、里人等に手引きして貰って、ここの小者になったのだ。それから年を経て、心を責めて仕えていると、先の主人に可愛がれ、そうなのかと思ったが、家督を継ぐ男子がいないので、私を婿にしてくださった。それで去年より縁者となった、房八の舅文五兵衛は、古七郎の弟であるぞ、今年初めてわずかにきくが、かれ、その婿は兄の仇である、杣木朴平の孫であることを伝え聞けば、どうしてその娘を簡単に房八に添わせるものか。取り替えされるのは間違いない。知らなければよいことだが、怨みをかくして好を結べば、最期には子孫に憂いを残すだろう。そうはいっても、沼藺は怜悧(さかし)き、人もうらやむ嫁であるし、いちはやくもうけた孫に乳房を離させて、離縁するのは、とても可哀想で、忍ぶことは出来ない。那古の弟としらないまま、縁者となったのは悪因縁、孫の拳が人並みならぬのも三瀬の後まで怨みを惹く、かの殿ばら(神餘、那古、金鋺のこと)の祟りか、と思いなやんで病み煩って、私の死期が近くなってきたのだ。人の怨みを解こうと思い、陰徳に増すものなはない。戸山も心を雄々しくして、我が子を諫め、励ましてくれ』
 
と密かに遺言されたのだ。父は義理に厚き事、既にご存じのとおりだ。俺は親に及ばないが、その子として志を継ごうと思って、祖父の汚名を雪(きよめ)るために、杣木の杣の木篇をとって下には木の字を合わせて、みずから山林と名乗っていたのは、遺言を聞いてからなのだ。それによると我が舅、文五兵衛殿親子のためには人とは異なる志を尽くして後に、親の遺言を明確に告げようと思っていたが、その時もなく、実義をあらわす方法もなかった。それで先日の八幡の相撲で、あなたと俺とが目星に指されて、修験の求めに任せてはいたが、俺は絶えて勝負を好まず、技も力もあなたには及ぶべくもなかったが、怪我してでも加藤と念じながら、結果として負けたのは歓びであり、なぜ妬んでいると思うのか。それをいろいろと言い立てたのは嫉めるものの賢しらなのだ。そして昨日は祇園会の神輿洗を観ようと、この浜に来て遊びながら、岳父(おじ、文五兵衛のこと)を訪れようと思いながら、入江橋を渡るときに、岳父は遥か水際の葦分け船の中にいて、怪しき二人の若者と語らっていて、はしたなくも呼び立てにくく、そのそばに近づいて、思わず立ち聞きしてしまい、犬塚、犬飼の値遇(ちぐ:前世の宿縁を今世で出会うこと)の不思議な話、あなたもまたその相似ている玉や痣があるということを、聞いてますます感激して、今更出るに出られず、蘆原に隠れて、独りつらつら考えながら、俺にも相似ている玉と痣があれば、かの人々の群れに入って、世の豪傑と言われるだろうかと、宿世が悪くてそういうわけにはいかず、義を結ぼうと願っても、許されるべき理由も無い。同盟の議を交わしても、当初は千葉の領地であって、許我の御所の御方である。犬塚、犬飼が捜索されて、難儀に及ぶことがあれば、密かに舅と力をあわせて、わが命を落とすとも、その危急を救おう。しかし、我が父の遺言を果たすこと、この時であると、密かに決心したのだ。そして、その日ははや暮れて、かの人々は古那屋へ、主の翁に伴われて、あなたはひとり留まって、件の船を押し流して、血付きの衣などを背負って、立ち帰ろうとすると、あまりに残り惜しければ、そっと言葉をかけようと、と蘆原から立ち居出ても言えなくて、あからさまに引き留めしたのをあなたは、曲者として、振り払う勢いに、いよいよ呼び掛けられず、しばらく挑み争う程に、俺はあばらをひどく打たれて、倒れる間にいちはやく、あなたは走り去って行った。後には落とした麻衣があった。もし他人に拾われれば、禍がそこに起こるだろうと思って、ゆっくり取り上げて、夜が更けてから宿所へ帰って、母にすらまだ告げていない、犬塚氏生け捕りの事、はや荘官より布令があった。そのとき俺は考えた、わが舅は旅籠屋だ。かの人々を匿っても人の出入りが多いので、幾度となく人がいれかわり、犬塚、犬飼も紛れるだろう。そうすれば主親子も罰せられない。しかし今更、義を結んだ人々を、追い出す必要も無い。つまるところ我が命を落として、それによって危窮を救えるのならば、それは逃れられないことなのだ。昨日入り江の蘆原で、つくづくと垣間見た、かの犬塚の面影は、わが面影に似ているようだった。そこで、俺の首をもって、犬塚殿の首級と偽り、許我の御使いに渡せば、舅父子に祟りなく、犬塚殿を逃がすことができ、都合が良いことはこれにますものはないだろう。しかし、似ていないところもある。俺は相撲を好むゆえに、額髪を剃っていなければ、その面影は似ていても、このままでは欺く事はできない、と気がついてわずかな間しかない。八幡の相撲に負けたので、生涯土俵に足踏む掛けないと、嘘を言って、今朝にわかに額髪を剃り落とさせて、鏡を取って照らしてみれば、年の程も、面影も犬塚殿によく似ている。よっていよいよ思案を決して、密かに母にしかじかと、思う事を告げた時、母はすでに垣間見て、止めることは出来ないと思ったようで、泣きつつようやく許されたのだ。我が母もまた義理に賢しく、侠気があるので、今生の暇乞いに思う事みなを皆言い尽かして、事の内容を知ると、にわかに沼藺を離別して親家(さと)へ返すと話を作って、離別のことは母に任せて、俺はこの浜に来るときに、栞崎で思いがけず、あなたが宿所へ帰っているところに出会った。たまたま行き交う人もない。俺が撃たれるには都合の良い場所である。あなたが身代わりに心なくても犬塚殿と我が面影が似ていると視る目は、誰にも変わらないだろう。俺が死んで後、我が首を持って、彼の身代わりに立てたなどと、気がつかれることはないだろう、と思えば少しも躊躇せず、浜里との確執に託けて、理不尽に罵り、蹴倒してもはお争わないのは、親を思って耐え忍んでいて、その孝心にはなすすべもなく、本意を遂げることが出来ず、別れてしまい、途中で酒を飲もうと、しつこくさそう観得を、先に立って出し抜いて、とって返して稲塚の側まで来たときに、あなたは既に難儀に巻き込まれていた。許我より犬塚追捕の大将、新堀帆太夫というやつの夥兵等に取り囲まれて、あまつさえ舅文五兵衛殿が縛られて牽かれていた。そしてあなたは虎口を逃れて家路を目指して急いで、去って行った後に、一通あった。取り上げてみれば、かの姿絵だった。麻衣といい、絵図といい、不思議に他人に拾われず、俺の手に入るのは幸いだ。今宵は必ず本意を遂げようと、思えば心に勇みが生まれた。かねて示し合わせた中宿に赴いて、密かに母が来るのを待ちながら、しかじかとささやき告げて、かの姿絵を渡したのは、あなたが心を騒がせて、今宵撃たれるためなのだ。それから宵の間は、裏口の側に忍んで、犬塚殿の大病も、あなたの苦心も、よくわかっています。願うは、兄貴の犬田殿、我が首を取って役に立てて、岳父の縄目と犬塚殿の危急を救う手立てを考えて、昔からの怨みを理解するならば、これを最期の功として、昔杣木朴平が定包を討とうとして領主を犯して、あまつさへ、那古七郎を討ち取った、かつその師であり故主である金鋺氏にもこれがもとで、腹を切ったのだが、今はその孫房八が、いろいろな義烈によって、孝子義男(ぎだん)の無実の罪と岳父の縄目を解いたのだと、人々の口に遺してくれれば、祖父の汚名を雪(きよ)むことができ、父の遺訓もむなしくなることはなく、死して栄えあるのが、俺の歓び、百年の寿を保って、富貴の人となるよりは、これに増す事があることはない。身の歓びについてなお、不憫なのは沼藺と大八。親子三人が同じ日に、同じ処で命を落とすというのも、これもまた祖父の悪報だ。妻子には少しも意中の秘密を知らせていなかったので、怒りをもって去らせたのだが、思っていても恨みは無い。俺の必死の決意を行っただけで、沼藺は年はまだ二十歳にならず、俺が死んだ後に、中途半端に後家に出させないのは難しいだろう。事にかこつけて、離別すれば、帰るのが為になるだろうと、思った故につれもなく、もてなせしたのが悔しい。こうなるのだったとあらかじめ知っていれば、どうして返したのか。大八さえつけて遣ったのは、彼が成長した後まで、伯父御の教育を頼む為だった。しかし思いは仇事によって、過失とはいっても、妻と子を手に掛けて、殺してしまい、ついに自分を殺す、輪廻応報がこうまでに、あるのか、犬田殿。この悪縁を結んだために、沼藺の横死は夫の悪事の報い、岳父の歎きも、あなたの憾みも、思いやりながら、面目なし。許してくれ」
 
と血に染まった左手をあげて、拝むように、心の誠を打ち証、たぐいまれなる孝順節義、深手に屈せぬ長物語に、小文吾は耳を側立てて、胸を打って、感嘆の目をしばたたいて涙を払い、
 
「おもいがけないぞ山林、あなたは親の遺訓を守って、旧怨を解くため、身を殺して仁をなす、心ばえはなんとも素晴らしいことだ。あなたの祖父が誤って犯した罪は重くても、子孫三世の今になって、その汚名を雪(きよむ)る孝順、和漢に多くあることだ。犬塚殿の面影はあなたとよく似ているから、累世の主君の為にも、身を殺してそのしに代わる、忠臣はとても稀なのに、あなたと私は縁者であっても、犬塚殿は知り人ではない、かつ八幡の相撲から、快く思っていなかったのは、窮難今宵に逼っても、余所にも苦しみを告げて、その知恵を借りようと思っている。ましてや身代わりの事などは、企ててできることではないが、一切思っていないので、今りゆうなく助けを得て、父の縄目を解くとしても、我が同盟の士を救う、その方法になること、以外に思って喜ばしいが、また悲しさもひとしおだ。人を殺して、人を救うのは、もとより我が願いではない。犬塚殿も、同じ心だ。しかし今更、辞退してその意に従わないのは、水に懲りて湯を辞退するように、あなたの心を犬死にさせて事に益がなくなるのをどうにかしなくてはならない。また沼藺と大八の横死もいよいよ以外の禍、哀愁の涙、胸に満ちて、遺憾、腸(はらわた)を断つというが、みな薄命のためなので、ただ嘆くだけは無駄なことだ。そうであっても妹が刃を犯して、身を殺したならば犬死ににならない。我が家に伝わる破傷風の奇方がある。男女年なお若い者、鮮血を各々五合を採って、合わせてその傷に注ぎ洗えば、よく死を起こして、生に回(かえ)し、その傷もまた癒えること、箒が塵を払うように、百泊百中過たず、例えば養由基(ようゆうき)[注1] が百歩を隔てて、柳の葉を射止めるようだ。すなわちこれが我が伯父で、那古七郎の伝方(でんぽう)であり、父に口授(くじゅ)せられたが、簡単に得られる薬ではないので、施しにくいものと思っていた。犬塚殿は、明け方から破傷風によって、命が危うくなっている。これ故に犬飼殿が、武蔵の志婆浦に良薬があると、それを求めて潜んで、今朝からそこへ向かったのだが、道遠くてまだ帰って来ない。たとえあなたの手立てに任せて、今宵の危窮を逃れたとしても、彼の人の命が終わってしまえば、何の益にもならない。しかし沼藺が横死して、図らずも男女の鮮血を手に入れることができる。不幸中の幸いなのか。天か、人か、欲するところただ塞翁が馬に似ている。これはこの犬塚殿の孝心義胆が世に優れているのを、憐れんだ神明仏陀の冥助ではないとすれば、何なのか。安心されよ山林、あなたが私と前世では、相殺したる讐敵(あだかたき)だったが、今は旧怨氷塊(きゅうえんひょうかい)して、恩義は千引(ちびき:千人で引くこと)の石より重いのだ。功徳を長く口碑に伝えて、義烈の亀鑑(きかん:模範)にしようではないか。とはいえここまで逞しい、志のある丈夫(ますらお)を、たとえかの玉がなくても、また露ばかりの痣もなくても、我らの同名に加えたいと面輪部、行末さえ頼もしく、親子三人が諸共に、ここで命を落とすことが、憾みの上の憾みになろう。賢(けん)にしてかつ、雄々しき母御であってもこのようなことを聞けば、いよよますます心を痛めて、歎きされるのは痛ましい。ああ、どうしたらよいのか」
 
とばかりに、義理にしがらむ愛哀苦(あいあいく)、現世は憂(う)しと思っていると丑三(うしみつ)の鯨音(かねのね)が遠くに響いてきて、とても哀れに感じるのであった。

--------------<<注釈>>--------------
[注1]養由基(ようゆうき)
 
 養は春秋時代の楚の武将である。荘王、共王の丈夫として仕え、弓射術に優れ、広く知られた。弓勢の強さは甲冑七枚を貫通させ、必中は百歩離れた柳の葉を射て百発百中だったという。共王が戦に敗れたとき養は殿(しんがり)をつとめたが一本の矢で複数の兵を倒し、敵を寄せ付けなかった。[史記 周本紀]

(その3 ここまで)
(第三十六回 ここまで)