次に鎌倉幕府滅亡後から中先代の乱集結までのタイムラインをみてみる。
五月十二日、千種頭中将忠明朝臣と足利治部大輔高氏、赤松入道円心等が次々と早馬をたてて、六波羅没落の報を船上山の後醍醐天皇に伝えていた。五月七日に六波羅探題の、北探題北条仲時と南探題北条時益が没落してはいたが、千早城攻撃の幕府方が畿内に滞在しているため、後醍醐天皇の入洛は控えられた。この間東国の情勢を窺うことになる。その後京への還幸の吉凶占いを行わせ、師卦(しのけ:軍隊・戦に関する卦)が出たため、二十二日(奇しくも北条一門が自害した日)に先立ちの塩冶(えんや)高貞が千余騎で出立し、前陣となった。二十三日に後醍醐天皇の天子軍本体が船上山を出立し、その長さが三十余里にもなったという。後陣に朝山太郎(大伴氏)が五百余騎で二十四日に発った。
天子軍は、五月二十七日に播磨国書写山に行幸する。翌日二十八日には現在の兵庫県加西市北条町にある法華山一乗寺に行幸。三十日には神戸市兵庫区門口待ちの福厳寺(ふくごんじ)で食事のため滞留したところに、赤松円心・則祐・範資・貞範の父子四人が五百余騎を率いて馳せ参じた。これに歓んだ後醍醐はこの寺で一日逗留し、六月一日に還幸の儀式を行い、正午頃に新田義貞からの早馬三騎が到着する。この時はじめて後醍醐一行は鎌倉幕府の滅亡と東国平定を知った。その後、兵庫に逗留する。
六月二日に天子軍が出発すると、楠木正成が七千余騎で参向してきた。その時、後醍醐天皇からの褒美を辞退した楠木正成は前陣を承って、兵庫を出立する。隊列はさらに延び、十八里にもなった。六月五日には京都の東寺に臨幸(お帰り)。六月六日は東寺から二条内裏に還幸が成った後醍醐天皇は、まず臨時宣下で、足利高氏が治部卿、弟直義が左馬頭、千種忠顕が帯剣役に任じられた。この間に隠れていた公家や僧侶などが退去して入洛し、さらに宇都宮公綱の五百余騎、佐々木道誉の七百余騎、土居氏・得能氏(河野氏一門)二千余騎などが入京し、京を警固した。入京に際して各軍勢の旅装束を見ようと、市民の見物があふれかえっていたという。
後醍醐天皇は六波羅、鎌倉の次は鎮西探題を滅ぼそうと六月七日に二条大納言師基を太宰帥に任じて出兵させようとしたところ、九州の菊池武重、少弐貞経・頼尚、大友貞宗(藤原秀衡の子孫)の早馬が京着して、九州の朝敵を討伐したことを報告した。この鎮西探題没落は時間を遡ると、後醍醐天皇が船上山にいるとき、少弐氏、大伴氏、菊池氏が密約したが、三月十三日午前六時頃、菊池が単独で、百五十騎で探題を攻撃した。探題の赤橋英時が自害寸前のところで、菊池を裏切った、少弐氏、大伴氏が菊池を討伐した。五月七日に京都の南北六波羅が没落し、千早城攻めの軍も南都(奈良)へ撤退した情報を入手した、少弐は驚いて大友と謀って鎮西探題を攻撃する。これが五月二十五日正午頃である。探題を守っていた九州九カ国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)の兵達は落ち失せてしまい、赤橋英時は一族郎従三百四十人とともに自害した。
もう一つ長門探題が鎌倉幕府にはあった。蒙古襲来に備えた鎮西探題に準じた組織・軍事拠点である。探題の北条時直は、五月上旬の京都への高氏軍による攻撃の知らせを聞いて、大船百余艘で瀬戸内海を東上するが、周防の大畠瀬戸で、六波羅と鎌倉が陥落し、既に後醍醐天皇の治政になりつつあると聞き、鎮西探題の赤橋英時と力をあわせようと、西下をするが五月二十六日赤間関(下関)で昨日赤橋英時自害の件を知り、それによって百余艘だった軍勢は時直の主従五十余人にまで落ちぶれた。時直は豊前国柳ヶ浦の少弐・島津軍へ降伏し捕らえられた。所領は安堵されたが、その後病没する。
さて、千早城攻めの旧幕府軍が南都へ移動したが、これらが京都を攻めるという噂が広がり、中院中将貞平を大将として五万余騎を大和路へ、楠木兵衛正成の二万余騎を河内国へ派遣した。南都の旧幕府軍は五万騎程度だったが、次々と降参していく。阿曾時治、大仏貞直、江馬公篤、佐介時俊をはじめとして平氏十三人と、長崎高貞、二階堂道蘊(どううん)、以下関東の武将五十余人が、出家し降伏した。官軍の大将貞平はこれらを捕らえて京に送った。七月九日に阿曾、大仏、江馬、佐助、長崎などの十五人が阿弥陀峰で殺される。二階堂道蘊は幕府の補佐役だったため、朝敵第一とされていたが、賢才であったので、一時は死罪一等を許され所領安堵されたが、陰謀が発覚したため殺された。
これでほぼ旧幕府・北条一門が滅亡した。
元弘三年夏、京の朝廷と鎌倉幕府の合議で決定していた政治を、京で行うことに評定して決定する。六月三日大塔宮護良親王が奈良の信貴山で募兵する。おびただしい数の軍勢で十三日に入洛するよう催促されたが、護良は引き延ばしてさらに軍勢を集めた。京の軍勢は護良の意向が判らず不安となり、これを知った後醍醐は右大弁宰相藤原清忠を勅使として信貴山に派遣。要は「天下すでに鎮まって、(中略)士卒を集めらるるの条、その要何事ぞや」と募兵を止めるように要請している。しかも「急ぎ剃髪染衣の姿に帰し」と斎殿出家を申しつけられている。もともと護良親王は出家して天台座主を務めていて、後醍醐天皇挙兵に伴い還俗した。しかし護良は、「天下が鎮まったのは後醍醐の徳によるもので、臣下である自分がめぐらせた謀功によるもので、足利高氏が、たった一度の合戦の功績で、天下を我が物としようとしている、そして今高氏の軍勢が少ない時にこれを討ったなければ、北条高時以上の権勢を高氏はふるうようになるだろう」と返答した。これに対して、後醍醐は「大樹(将軍)の位に居して、武備の守りを全うせんこと、げにも朝家のために人の嘲りを忘れたるに似たり」と募兵については理解を若干示している。しかし「高氏誅伐の事、彼の不忠何事ぞや。(中略)高氏誅伐の事にいたっては、固くその企てを留むべし」と返事をし、護良親王を征夷将軍(征夷大将軍)とした。これで納得した護良は六月十七日に信貴山を出立して、石清水八幡に七日間逗留し、二十三日入洛した。この軍勢には赤松円心・千余騎が前陣、二番に二条良忠・七百騎、三番に四条隆資・五百余騎、四番・中院貞平・八百余騎、次に兵士五百人を二列で歩かせ、護良親王の本体、最期に千種忠顕・千余騎が連なった。別の小路には各国の兵三千余騎で防御した。最終的に二十万七千余騎が三日間にかけて行軍したのだった。天台座主が征夷将軍の宣旨を被るというので、京中は壮観だった。
この頃の荘園の状況は、幕府の武威によって本所(本家)を無視して荘園を領主していた武家達が、公家の奉公人となって、荘園を管理するようになった。また諸国の幕府に任命された地頭や御家人は、奴婢や雑人に貶められていた。
元弘三年八月三日から軍勢恩賞沙汰が行われるため洞院実世を上卿(じょうけい:主席官僚のこと)に任じられた。戦功の証拠を申状として幾千万人が申請を行った。数月のうちに二十四人の恩賞を沙汰したが、公正でないとして沙汰を取り消している。そのため上卿が交代し万里小路藤房が任じられた。公正に判断をしていたが、后・妃・女官らの内奏が秘密裏に後醍醐に届けられ、恩賞沙汰を妨害する形になり、諫言に耳を貸さない後醍醐に失望して、藤房は病気として出仕しなかった。結局、雑訴沙汰までも内奏によって混乱し、恩賞施行が大渋滞となってしまった。これによって各地は混乱し、小規模の騒乱が発生していたが、取り締まる奉行がいなかった。
恩賞沙汰が大渋滞し地方行政・所領安堵が整わないまま、元弘四年正月十二日、百司位(はくしのくらい)を設置し、行政機構に多くの役人を配した。そのため諸官庁の屋敷が手狭となり、同時に内裏も合わせて大内裏(内裏と諸官庁)の建築が計画された。この為の税として、地頭・御家人の所領の利益の5%が徴収された。さらに安芸・周防を特別税の料国とした。さらに紙幣発行という貨幣制度急変革などが内田競れていた。この事業についても万里小路藤房は後醍醐天皇に止めるように諫言している。そして建武元年三月十一日の石清水八幡宮への行幸を供奉を藤房は最期だと考えていて、参内して辞表を提出し、出家した。
北条高時の実弟・泰家が、新田義貞の鎌倉攻撃の時、密かに鎌倉を落ちて、奥州に逃げたが、還俗して京都へ上り、西園寺公宗に匿われた。これは承久の乱で、西園寺公経が北条義時を助けて勝利した縁を北条の遺言としていたため、泰家は公宗を頼ったのだ。公宗は泰家を、刑部少輔時興と名をかえて、謀略をめぐらせていた。北条時興を京都大将として、北条時行を関東大将、名越時兼を北国大将として北条残党を募兵した。この謀略は竹林院公重に漏れ、急遽中院貞平、結城親光、名和長年が公宗、橋本俊季、文衡入道らの捕縛に向かった。これを北山殿謀反と呼ぶ。
畿内はある程度平定されていたが、東国の北条残党がうごめいていたため、鎌倉探題に成良親王を征夷将軍にして下向させ、足利直義をその執権として、東国政務を行わせ、法令については北条政権のままとした。これが西園寺公宗の謀略が露見して誅殺される前である。したがって、名越時兼らの軍勢五万余騎が鎌倉を攻撃した。その時には渋川義季(直義の妻の弟)、小山秀朝が武蔵で防御するが、北条時行が三方より鎌倉へ押し寄せる情報が鎌倉に入るが、直義は用意の兵数が不足していたため、七月十六日(または二十二日)早朝に成良親王を連れた鎌倉から落ちていった。これが「中先代の乱」の始まりである。
直義・成良親王が、鎌倉山内を過ぎたところで、淵辺源五という武士を呼びつけて「一旦鎌倉から去るが、美濃、尾張、三河、遠江の募兵して、すぐに鎌倉へ寄せて、北条時行を滅ぼす」と言い、「なほもただ当家(足利家)のために、始終仇(あだ)と成らるべきは、兵部御親王(大塔宮護良親王)なり。この御事死刑に行ひたてまつれといふ勅許(帝の命令)はなけれども、このついでにただ失ひたてまつらばやと思ふなり。御辺(ごへん)は急ぎ薬師堂谷(やくしどうがやつ)へ長谷帰って、宮を刺し殺しまゐらせよ[太平記]」と命令したので、淵辺は主従七騎で護良親王を殺害し、首級を落とし、捨てて本隊に復帰している。護良親王と一緒にいた南の御方(正二位中納言藤原保藤の娘)はこの後剃髪して上洛した。護良親王の首級を淵辺が持ち帰らなかったのは、戦闘中に護良が刀の切先を口で食い切ったため、中国の楚王の故事を思い出し、祟りを恐れて捨ててきたという。
さて、上洛を急ぐ直義は、駿河国入江荘(現在の清水市)にさしかかった。入江春倫(いりえはるとも、工藤氏一族)が地頭を務めており、元々得宗家の領地である。そこで入江一族は北条時行の挙兵に応じて宮方を討伐しようとしていたが、直義は春倫の許へ使者を出した。春倫は「天下が落ち着いたのは、愚かな我々の知るべき所ではない。ただ義の向かう所を思うに、(中略)今、相手の傾敗(けいはい:敗れ弱っているところ)の弊え(ついえ:衰え)に乗じて、不義の振る舞いなどできようか」として、直義を迎え参じた。ここを無難に通過した直義は、矢作宿(やはぎしゅく:愛知県岡崎市矢作町)に逗留し、京都へ早馬を出した。
ここで朝廷では、公卿達の議奏によって足利宰相高氏を関東の討手に決定した。ここで高氏が「征夷大将軍」への任官、関東管領への就任、恩賞執行の要求を出すが、後醍醐天皇は関東管領のみの要求を通し綸旨を下された。前にも述べたがここで、後醍醐と尊氏(このとき高氏から尊氏に改名)の意志の齟齬がはじまる。
ここで、なぜ征夷将軍の官職を尊氏に与えなかったのかと考えてみると。その前に後醍醐は自らの子である護良親王に征夷将軍を与えていたが、あまりの傍若無人ぶりに官職をとりあげて、鎌倉へ幽閉した。この時点で、王家では次の立太子争いがあったのではないだろうか。鎌倉に直義と一緒に下った成良親王は阿野公廉女廉子(れんし)が母で、建武親政下での内奏による政治混乱を招いた人物でもある。後醍醐天皇の皇后は藤原禧子で西園寺実兼の娘である。禧子が弘元三年(1333年)に死去し、次の皇后に後伏見天皇皇女の珣子内親王が立つ。しかし両皇后には男子が生まれなかった。後醍醐天皇の男子を産んだ女性は以下の通り。
典侍:藤原親子(五辻宗親女、中納言典侍)
皇子:満義親王
掌侍:菅原有仲女(少々内侍)
皇子:聖助法親王(聖護院)
後宮:藤原廉子(阿野公廉女、洞院公賢養女、三位局)
皇子:恒良親王(後醍醐と尊氏の内戦中に一時的に天皇に即位)
皇子:成義親王(征夷大将軍、光明天皇[北朝]皇太子)
皇子:義良親王(後村上天皇[南朝])
後宮:源親子(北畠師親女、民部卿三位)
皇子:護良親王(大塔宮、征夷大将軍)
後宮:藤原為子(二条為世女、権大納言局)
皇子:尊良親王(一品中務卿親王)
皇子:宗良親王(尊澄法親王、天台座主、征夷大将軍)
後宮:藤原守子(洞院実泰女)
皇子:玄円法親王(一条院)
皇子:最恵法親王 (妙法院)
後宮:憙子内親王(亀山天皇皇女)
皇子:恒性(大覚寺)
皇子:無文元選(遠江方広寺・開山)
後宮:二条為道女(権大納言三位局)
皇子:法仁法親王(躬良親王、大聖院)
皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮) 征西将軍
後宮:橋本実俊女(藤原氏、遊義門院一条局)
皇子:世良親王
皇子:静尊法親王(恵尊法親王、聖護院)
後宮:四条隆資女(少納言内侍)
皇子:尊真(杲尊法親王、醍醐宮)
後宮:昭訓門院近衛局(父不詳)
皇子:知良王(守永親王、宇津峰宮)
生母不詳
皇子:龍泉令淬(万寿寺住持)
皇子:賢光(光遍寺5代住職)
皇子:満義親王
掌侍:菅原有仲女(少々内侍)
皇子:聖助法親王(聖護院)
後宮:藤原廉子(阿野公廉女、洞院公賢養女、三位局)
皇子:恒良親王(後醍醐と尊氏の内戦中に一時的に天皇に即位)
皇子:成義親王(征夷大将軍、光明天皇[北朝]皇太子)
皇子:義良親王(後村上天皇[南朝])
後宮:源親子(北畠師親女、民部卿三位)
皇子:護良親王(大塔宮、征夷大将軍)
後宮:藤原為子(二条為世女、権大納言局)
皇子:尊良親王(一品中務卿親王)
皇子:宗良親王(尊澄法親王、天台座主、征夷大将軍)
後宮:藤原守子(洞院実泰女)
皇子:玄円法親王(一条院)
皇子:最恵法親王 (妙法院)
後宮:憙子内親王(亀山天皇皇女)
皇子:恒性(大覚寺)
皇子:無文元選(遠江方広寺・開山)
後宮:二条為道女(権大納言三位局)
皇子:法仁法親王(躬良親王、大聖院)
皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮) 征西将軍
後宮:橋本実俊女(藤原氏、遊義門院一条局)
皇子:世良親王
皇子:静尊法親王(恵尊法親王、聖護院)
後宮:四条隆資女(少納言内侍)
皇子:尊真(杲尊法親王、醍醐宮)
後宮:昭訓門院近衛局(父不詳)
皇子:知良王(守永親王、宇津峰宮)
生母不詳
皇子:龍泉令淬(万寿寺住持)
皇子:賢光(光遍寺5代住職)
後醍醐の目指す公家一統では征夷大将軍は公家、特に親王に与えたかったのではないだろうか。廉子が尊氏を信頼していたとしても、皇子を征夷大将軍から皇太子、そして天皇へ即位するというプランがあったように思える。これにより武家を王家の配下としてとりこめると考えていたのではないだろうか。これを裏付けるのが、足利直義が鎌倉から落ちる途中で立ち寄った元得宗家の領地である入江荘の地頭、入江春倫の言葉に「入江荘は、元は得宗の領地だったのを、朝恩によって、一族を豊かに守ることが出来た。これは天御の上にさらに義を重ねたことによるものだ[太平記]」とある。このような武士の恩義心によって王家を支えようとしたのだ。
さて、尊氏だが、即日吉良満義を先立ちとして出発させ、その五日後に出京した。駿河に到着したときは三万余騎で、直義軍と合わせると五万余騎となり、鎌倉へ進軍した。鎌倉の北条時行は、先手を打つために名越式部大輔某を八月三日夜に鎌倉から東海・東山道へ三万余騎で進撃させようとしたが、大風に見舞われて、大仏殿の中に避難していたが、建物が倒壊し、兵士が五百余人圧死。この不吉な出来事の中、名越某は八月七日に遠江佐夜(さよ、現在の静岡県榛原郡金谷町)の中山を越えた。八日午前六時に尊氏軍は名越軍に押し寄せて、仁木、細川の働きで一日で撃破、名越某の後陣は諏訪祝部(すわのはふり、諏訪神社の神官、時行が隠遁していた)の軍だったが、これも一日で撃破され、北条軍は箱根の水飲峠まで後退した。東海道の難所であるため油断していた北条軍は赤松貞範の急進によって大崩れし、相模川を渡って布陣した。このとき北条軍は二万余騎だったが、片瀬、腰越、十間坂でも敗れ鎌倉に後退していった。最終的に三百余騎となり、北条時行と主要な武将四十三人が勝長寿院(頼朝が父義朝を弔うために建てた寺)の大御堂で自害した。
これだけでなく名越時兼が北陸道で三万余騎で京都へ攻め上るが、越前と加賀の境、大聖寺(石川県加賀市)で、あっけなく官軍に討たれてしまい、これによって中先代の乱が終幕する。
(続く)