南総里見八犬伝 二 第三輯第四巻第二十八回 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 時に、怪しむべき坑の側に忽然と立ち現れた者がいた。これは他の人ではない、火定で終わりを示した、寂寞道人肩柳だった。前と異なるその有様、またこれいかなる出立なのか。ただ見える肌にはことさらに、南蛮鎖を着込み、腹巻きを隙間なく着込んで、網にこもる蜘蛛に似ていた。上には唐織りの段だら筋の広袖の単衣を裾を短く着ていて、紅葉を流す滝のようである。腰には朱鞘の大刀をよこたえて、足には枎藁(ひつじわら)の厚い草鞋を履き、大平金(おおひらがね)の細密釬(ささこて)に、十王頭のすね当てをして、濃紫の円括(まるくくり)の帯、尻高く輪をねじるようにしていた。年齢はまだうら若く、二十歳ばかりになったぐらいにみえる。眉秀で、眼清々しく、色白くして、唇は朱(あか)く、耳厚く、歯は細やかで、月代のあとに長矩生えた髪が黒く、髭は蒼かった。その心は善か悪か、その行いは正か邪か。いまだよくわからないが、一癖あるらしい面構え、凡庸ではないと見える。その時、寂寞肩柳は左側右側を見返って、静かに歩み寄ると、左母二郎は息を吹き返して、敵ガ近づいたとみて、立ちながら手裏剣を引き抜き捨てて、刀を杖に身を起こして、よろめきながら攻撃しようと進んでいるのを、見下ろして少しも騒がず、ここで少し遣り違いさせて、駈けて悩まし、ツッと入って、いきなり刀を奪い取り、身を開かしてハタと斬る、拳の冴えに左母二郎は、もんどり打って倒れてしまった。肩柳はこれには目を向けず、しきりに水気が立ち上る、刀の柄を立てて、切先から鍔元まで、瞬きもせずキッと見て、
 
「たしかに音に聞く村雨の宝剣。抜けば玉散る、露か、雫か。奇妙なものだ。焼刃のにおい、そらに虹が浮かぶ様に、地に清泉が流れるものに二宛て居る。豊城三尺の氷、呉宮一函の霜[注2]、まことに世に稀なものだ。神龍はこれによって雲を呼び、鬼と化け物はこの剣によって夜も鳴かないのだ。今はかろうじてこの名刀が、私の手に入ったのは復讐の素懐(そかい:前からの望み)を遂げるべき時がきたからなのか。不思議だ、不思議だ」
 
と左手に移し、右手に返してさらに、見ても飽きが来ない称賛だけで他に余念は無いようだった。
 
 それはさておき、額蔵は、この朝信乃と別れて急ごうとするが後ろに心引かれて、歩みははかどらず、しまお盛暑の時だったので、木陰を求めてあちこちで休んで、また走って、千住河を渡る頃、日は暮れ果てて、道がとても暗かった。迷うほどではなかったが、なんとか行き抜けて、駒込村の近くまで来た。ここでようやく落ち着いて、戻ろうとすると道が壊れていた。
 
「本郷坂を横切って、小石川に向かおうか、と思うが、私の体にかすり傷を作ってでも、なかなか回り道して、突きが出るのを待つのが良いだろう」
 
と胸の内に思いながら、初更過ぎた頃に、円塚山を越えるときに、火定があったのかと道で聞いて、荼毘はいまだに消えずにあり、その辺りが明るいので、どうしたのかと見たら、血潮にまみれた男女がいた。また白刃を手に持つ、一人のくせ者が佇んでいた。
 
「なんだ、あれは」
 
と端から進まず、松の木陰に隠れて、その様子を窺っていた。

--------------------<<注釈>>------------------
[注2]豊城三尺の氷、呉宮一函の霜
 
 「豊城」は「晋書」の故事で妖気が立ち上った豊城という町を探すと宝剣を発見したもの。この宝剣のことを「三尺の氷」「三尺の雪」「三尺の玉」と呼ぶ。
 
 「呉宮」は「干将・莫耶の剣」のこと。箱にしまっていても切味が凄まじい名剣であるという意味か。

(その2 ここまで)