南総里見八犬伝 二 第三輯第四巻第二十七回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 しばらくすると、蟇六の家の台所には、式の土器、饗膳の調理包丁が整っていた。そのとき蟇六は、書院の床の間に筒花を立て、掛け軸を掛けわたすなどしていると、初更の鐘の音が聞こえてきた。
 
「時が近づいたな」
 
と思い、亀篠を呼んで、
 
「婿殿がいらっしゃるまでに、後一時(ひととき)ぐらいしかない。夏の夜はすぐに更けるから、いつまで言わなければならないのか。浜路にはよく説得して、衣装を着けさせなさい」
 
と言うと亀篠は頷いて、
 
「私もそう思っておりました。いろいろとあって暇がなかったので、暮れてから臥房には立ち寄っていませんが、湯漬けを少し食べたと女どもは言っておりました。髪さえ結び揚げれば、着替えさせるのは簡単です。ああ、急がしいこと」
 
と言いながら、そのまま臥房へ赴いたが、すぐに走り戻ってきて、
 
「大変です、大変です」
 
と呼び立てると、蟇六は驚いて振り返る、
 
「これは、うるさいぞ、何かあったのか」
 
と問う間も無く、亀篠は目を大きく開けて、
 
「困りました、これが落ち着いていられますか。浜路が蚊帳を抜け出して、どこかに行って姿も見えません。もしかして厠に行ったのかと思い、湯殿の隅々までくまなく探したのですが、見つかりませんので、逃げ出したのかもしれません」
 
と告げると、蟇六は思わず、持っていた花瓶を落として、流れる水が袴の裾に掛かったが、それを拭いもせずに身を起こして、
 
「それは大変なことになった。そうはいっても騒いではだめだ。出て見よう」
 
と言いながら、紙燭(ししょく:小型の照明器具)を持って、庭に出てみると、亀篠も一緒に木立の間をあちこちと、探し回って、土蔵の間を過ぎて奥まった、裏庭に来てみれば、そこから出たのだと思われる、組帯が松に結び下がって、足場にしたのだろうと、垣の上に泥の足跡が所々にあった。もしかしてと思って探していると、つないでいた綱が切れて沖方に漂う船のように、跡形もない状況に、蟇六は顔色が水より青くなって、呆然とした表情で、亀篠もまた嘆息して、
 
「髪上したばかりなのに、謀られて暗くなったのに護っていなかったのは、綟子籠(もじこ:目の粗い籠)に蛍を入れて飛んで逃げられたようなものだわ。たぶん浜路は前から約束していたことがあって、信乃の奴が誘い出したに違いありません」
 
と言うと、蟇六はしばらく考えて、
 
「信乃はいつも仲がよくない額蔵と二人でいるはずだ。たとえ理由があったとしても、簡単に道を引き返して、何かをできることはないだろう。怪しいのは左母二郎の方だ。ちょっと来なさい」
 
と先に立って、元の場所に走り入り、気の利いた小者を呼んで、
 
「左母二郎が家に居るかどうか、提灯もって、よく見て来い。急げ、急げ」
 
と苛立って、
 
「わかりました」
 
と答える間も無く、飛ぶように走り去っていった。しばらくしてその小者が喘ぎながら走り帰って、
 
「左母二郎殿の家へ行って、呼びましたが応えがありませんでした。扉を押し開けて見てみると、左母二郎殿はもちろんのこと、家具などひとつも無い空き屋となっていました。その様子からおそらく、逐電したに違いありません」
 
と告げるのを聞いて、蟇六夫婦は酷く遺恨に耐えられなくなり、急いで男や子供を呼び集めて、
 
「このような事があった。その密男は左母二郎の奴だ。遠くにはまだ行っていないと思うが、急いで追いかけて引きずって連れてこい。もしお前達の手に余るようであれば、浜路だけでも奪い、逃がしてはならぬ。灯火をもてばおそらく奴に知られて逃げられるだろう。人を追うには闇のほうが良い。背介は老いて、足が弱いだろうが、今宵ばかりはがんばってくれ。誰であれ功によって、褒美は過分にとらせよう。お目達は東の方、お前達は西の方へ、抜かる事無く、急げ、急げ」
 
と三人を一隊(ひとくみ)にして、すぐに四方へ手分けさせて、あっというまに悉く出して遣ったが、とにかく夫婦の心は安まることはなかった。亀篠は頭痛になり、自ら押し揉んでいる額を擡げて、
 
「このようなことになるとは思っても居ませんでした、前に信乃との間を裂こうとして左母二郎を引き入れたのに。しかし浜路は一筋で他へ心を移さなかったと、思っていたのが間違いで、盗人が隙をねらって護れなかったのは、こちらの怠り、悔やまれることをしてしまいました」
 
と人も自分も恨んでいると、蟇六もまた嗟歎して、
 
「過ぎたことは悔いても戻っては来ない。まずは、さしあたって今宵の婚姻のこと、すでに婿入りの頃合いだ。それまでに浜路を連れてこなければ、どうなることやら」
 
とくよくよしながら、亀篠と同じように頭痛の病になってしまった。
 
 このような時に、土太郎は、以前蟇六に相談され神宮河で人に知られないように、信乃を殺そうとしたが、その水練には叶わず、謀が失敗し、働いたのに功がないため、蟇六はこれを不足として、辛苦銭(ほねおりちん)を多くは与えなかった。それで土太郎は、夕べの樗蒲(ちょぼ:楕円形のサイコロ。ここでは博打のこと)でツキが無く、鐚一文(びたいちもん)も無いままで、元々乱暴なくせ者だったので、
 
「あの荘官をいたぶって、少し酒代でも奪ってこよう」
 
と思って、夕涼かけて訪れて、裏口から入ると、蟇六は、すぐに見てたちまち心喜んで、
 
「土太郎か、良いときに、よく来てくれた」
 
と立って迎えると、
 
「いえ、そうはよくはありません。あの夜の辛苦銭、思ったより少なかったですよね。せめてもう少し、酒代ぐらいいただけませんか」
 
と言うのを蟇六が止めて、
 
「今頃そんなことを言うのか。しかしまた改めてお前に頼みたいことがある。今夜は不慮の難儀が起きている。それはこのような事」
 
と言葉忙しく説明し、
 
「わが娘を連れて逃げた密男は、お前も知っている。神宮河で同船していた、網乾左母二郎というものだ。今夜この家の老若は残り無く、追っ手として放ったが、彼らだけでは心もとないのだ。今、呼んでも居ないのにお前がやってきたので、助けを頼むのには幸いなのだ。これで私の運もより頼もしく感じる。急いで追止めて引きずり帰れば、辛苦銭は不満の無いほど払おう。とにかく頼む」
 
と夫婦シテ、拝むように説得すると、土太郎は聞いて頷いて、
 
「確かに今此処に来る道で、昔から知っている行轎夫(たびかごかき)、加太郎、井太郎等が、行客(たびびと)を乗せながら、足を話してがやがやと、そのまま舁も揚げていなかった。闇の中だったので、それをよく見なくて、ただ井太郎等に言葉を言いかけたが、立ち休まずにすぎてきたが、その行客がこの件の左母二郎だったにちがいない。轎子(かご)に乗ったのは、お嬢様でしょう。道はまさしく礫川(小石川)、本郷坂へ向かうところです。すぐに追って止めてきましょう」
 
と裾をとり揚げて、出ようとすると、蟇六は急いで呼び返して、
 
「左母二郎は武士の浪人で、その武力はわからないので、素手で追えば危ないだろう。これをもっていきなさい」
 
と差し替えの一刀(ひとこし)を、すっと出して、渡すと土太郎は腰に帯びて、
 
「これでますます、安心ですね。歯を食いしばって、あっというまに二人を連れて帰ってきましょう。酒を温めて待っていて下さい」
 
「ああ頼もしい。急げ、急げ」
 
と急がせる夫婦を振り返らず、さらに宵闇に稲妻が消えるように走り去っていった。

(その3 ここまで)