南総里見八犬伝 二 第三輯第四巻第二十七回 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 一方で、浜路は既に死ぬ覚悟をして、顔色には顕さず、
 
「仮にも病気であり、炎暑(えんしょ)にひどく髪が乱れているので、しばらくの間は恥ずかしい姿を見せたくない」
 
と頑張って、髪を結いあげながらも、まだ臥房を出てこないので、両親はこの様子に、
 
「今宵の婚姻は止めることはできないのに」
 
と思ってはいても、心では許していて、黄昏時はとても忙しく紛れて会うことがなかった。そうしているうちに、その日は暮れ果てて、初更(しょこう:午後八時頃)近くなった宵闇に、浜路は臥房を抜け出て、密かに何度の縁側を伝ったが、外に出るのは難しく、裏口にも人の出入りが多いので、
 
「私はどこを死に所とすべきか」
 
と思い悩んで、土蔵の間の生垣に身を寄せて、回って出ると生憎に顔に蜘蛛の巣がかかり、女雛を包む吉野紙のようになって、片方が欠けたような姿になってしまった。ここは納戸の裏庭で、崩れた築山がある。夏の樹木が茂っていて、刈り払われておらず、人が通らない場所なので、暗夜なので、ここが逃げ出せる場所だと、死出の門出を急いだのだった。すると臥房を出るときに、灯火を暗くして、蚊帳の中には臥せっているように枕に小夜着を被せておいた。これが知られるまでに、と携えて用意しておいた組紐を引き伸ばして、築垣の側の松の枝に投げかけて、急いで結んでいると、心の闇に、空の烏夜(やみ)、降(さが)る帯の端が短いが、手繰る手先が不安だが、
 
「私の身はどのような悪報で、本当の親や兄弟もあるとは聞いたが名も知らない。世に親ではない親達に養育の恩、長い年月の間受けていながら不孝の罪を犯そうとしていますが、そう思っています、二庭(ふたみち)踏(かけ)る女子の操(みさお:ここでは信乃と簸上を二庭にかけ、操を信乃に立てていること)、教えの文に背きません。それにしても、気性の激しい養親等のことです。誓いを破る不義によって、富や栄利を願っていても、人の命は限りがあります。惜しいのは死後の名ではありません。それは恨んでも生きていれば、価値のない女子なのです。たとえ一緒に寝ることがなかったとはいえ、一度親が許した妹背の契りがあり、それだけで深い歎きに身を置いて、今限りの命だと、知らせたくても知らせません。こうなるならば死ぬ時に、言うべきことがもっとあることを、言わずに別れる鶏の鳴き声を、恨んでいるときのつれなき思いは、今初更の鐘が突かれて音が聞こえてきて、亥の刻の空をまたいで行っています。私や真如(しんにょ:物の本来の姿)の影が出てきて、月夜烏が鳴いている。信乃様の一夜の言葉に露の命を惜しんで、儚くなる夢で、伝え聞いてくれれば、戻ってきて、操にはかえられませんがこの松を、妻の標石(しるし)と見做して、君の手で閼伽灌頂(あか・かんちょう:仏へ供物、水を供えること)、手向けの水を一滴、授けてくだされば、たてえ尊い聖の読経にもまして、成仏することができるでしょう。最期にいろいろ思っていまいました」
 
と思うのは夫の信乃の事、親兄弟の事も心にかかり歎きつつ、忍ぼうとするが静かに出来ず、独りで静かに涙を流して袖を濡らしながら、夏草も秋の夕べのようにそよいでいたのだった。
 
 そして左母二郎は、時刻になって蟇六が裏口から静かに入ろうとしているところに、提灯をもって出てくる人がいた。
 
「報せが遅いな」
 
と退きながら、外の方をあちこちと静かに巡って、母屋の裏に佇んで、よくよく透かして眺めてみると、築垣が朽ちてしまっったその根のあたりに、犬が出入りするような崩れたところがあったので、
 
「これは、良いところだ」
 
と密かに喜んで、すぐに小さな溝を跳んで越えて、その崩れた所から這い入ると、朽ちた築垣は柔らかく、入って行くままに広がっていった。木立の下で身を起こして、手足の土を撫で落として、家の中の様子を窺うと、とても暗かったのでよくわからず、左側の白壁だけ闇の中でほのかに見えていたので、
 
「さてはここは納戸の裏だ。あの土蔵の間を行けば、いつも浜路がいるという小座敷に近いな。そこらあたりはよくわからないが、静かに行けないことはないな」
 
と思って心を決めて、木立を伝って木下をくぐって、少し築山の付近に着くと、目の前で女子が泣く声がする。驚いて目を透かして見て、よく聞いていると、それは浜路だった。天の助けと喜んで、急には近づかずに、声を聴きながら、口実を考えて、
 
「さては浜路は今宵来る簸上宮六をとても嫌っていて、首を吊ろうとしたのかもしれない。彼女が操を立てるのは信乃のためなのか、私のためなのか。定かに聞きわけられないが、多分私のためだろう。それが誰であれ、手のひらに落ちる真玉を砕くのだ。さてと」
 
と足を忍ばせて、そっと忍び寄ると丁度良く、浜路がようやく松枝に掛けた帯の端にすがって、さめざめと泣いていて、涙の間に念仏を十遍ばかり唱えながら、首を吊ろうとしていると、声もかけずに後ろから、抱き止めて引き戻すと、
 
「あれっ」
 
と叫ぶ口に手を当てて、
 
「驚かないで下さい。左母二郎ですよ、左母二郎です。思いかけず今宵の婚姻、死のうと決心された、その心構は、私にとってはとても尊く、おそれおおいことです。親達の人でなしに、私も腹に据えかねて、どうにかしてあなたを連れて逃げようと思う誠が、むなしくて、話をしようとここへ来て、死ぬ直前を助けたのは天の縁なのでしょう。辛かったですね」
 
と慰めるのを、浜路は聞かずに体を悶えさせて、ようやく振りほどくと、
 
「ああ、無礼な馬鹿者。他人の男に連れられていくわけにはまいりません。臥房を出て命限りと私は決心したのです。無益な事を言われるのなら、そこをどいてください」
 
と息巻いて、また組帯に手を掛けると、左母二郎は遮止めて、あざ笑い、
 
「それを聞いたら、なおさら死なせるわけにはいきません。常日頃思いを伝え、それで母親があれこれと、密かに許していた事があるので、簸上を嫌うのは私の為に操を立てていたためと思いますが、旅立ってしまって帰るのか帰らないのかわからない信乃の事を忘れられずに自殺しようとしているのですか。否応なく連れて行きますよ。とにかく急いでください」
 
と手をとると、それを振り払う玉柳のような手、風で乱れる翠(みどり)の鬢(びんつら)、一緒に這いつくばって鬼蔦をくぐり、緑松に身を隠しながら、遠方へ逃れ、こちらをくぐり、闇に紛れて隠れようと思うと猟場(かりば)の雉子(きぎす:キジ)が雄と別れて草むらの蔭にいて、声も揚げず巣にも帰ることができず、内外に逼る呵責の苦しみ、追われて急に泣き出して、
 
「遅くなってしまいますよ」
 
と襟上を掴んで引き立てて、手ぬぐいを噛ませて猿ぐつわにして、小脇にしっかりと抱えてみると、浜路は病後に痩せ細っていて、木兎(づく:ミミズク)に捕まる夜の蝉は声も出せずに哀れだが、浜路はちょうどそのような有様だった。左母二郎はこのように女子を小脇に抱いていては、先程の穴から出られず、
 
「さて、どこから脱出しようか」
 
と振り返ると片頬に組帯が当たっているのを左手で取り、
 
「これは良いところに」
 
と掴んで、ひらりと上る老松の枝から伝って築垣をかろうじて乗り越えたとたんに、外へと降りたって、またぐように渡して、溝の雨蛙が鳴き止んで、履を失う事無く、予め用意していた行鞋(たびわらじ)があったが、自分の足を信じて、そのまま浜路を連れて去って行った。
(その2 ここまで)