同年八月頃
●義詮が薬師寺公義を下野国宇都宮に派遣[武蔵町田文書]
公義は高師直の重臣で武蔵守護代を務めた、後直義派に寝返り、その後高野山に出家、再度復帰尊氏に帰順
★宇都宮氏綱を味方につけるための工作
●義詮が薬師寺公義を下野国宇都宮に派遣[武蔵町田文書]
公義は高師直の重臣で武蔵守護代を務めた、後直義派に寝返り、その後高野山に出家、再度復帰尊氏に帰順
★宇都宮氏綱を味方につけるための工作
同年八月二日
南朝・後村上天皇から尊氏・義詮・直義追討の綸旨を佐々木道誉が賜った[浄修坊日記]
美濃の土岐氏も同様の綸旨を受け蜂起した
同年八月三日
義詮が帰京:直義出奔による
同年八月五日
尊氏が帰京:直義出奔による
義詮が若狭国の武士本郷貞泰に対して同国に侵入した山名時氏、上野頼兼、赤松光範の討伐を命令[古証文]
同年八月六日
【講和期(五ヶ月間)の破綻】
直義の京都脱出軍が、越前国敦賀へ到着、金ケ崎城へ入城
※十五年前に越前へ没落した新田義貞と行動パターンが似ている
若狭守護山名時氏、越前守護斯波高経、越中守護桃井直常、越後守護上杉憲顕
北陸は直義派で占められていた
信濃の諏訪氏、関東の上杉氏、山陰の山名氏、九州の足利直冬とも連携可能
桃井直常の進言であり、直義自身が考えた戦略では無い
尊氏は細川顕氏(直義派から寝返った)を使者にして越前国金ヶ崎城の直義に派遣
帰洛して政務に復帰することを懇望
尊氏は南朝との講和交渉を継続することも表明
桃井直常の上洛を尊氏が拒んだため、実現せず
同年八月七日
●法勝寺恵鎮上人が北朝廷臣洞院公賢の許に使者を派遣し、尊氏の命令で自身(恵鎮)が南朝に赴いて講和を申し入れることを伝えた
この段階の交渉は「公約」の実行であり、直義打倒のための同盟交渉ではない
南朝は尊氏の講和申し入れを拒絶、恵鎮を追い出す
恵鎮は別名円観(えんかん)で、後醍醐天皇側近の僧侶だった。元弘の変で鎌倉幕府に逮捕され陸奥国へ流された。南北朝に分離すると恵鎮は北朝側について京都に留まった。足利直義に近い位置にいたようだ。南朝からみれば恵鎮は後醍醐を裏切った人物となる。また直義との交渉失敗も影響していたと思われる。南朝は尊氏、直義は不信感しかない状態だった。
同年八月十二日
●恵鎮上人が南朝講和申し入れに失敗し帰京
同年八月十七日
義詮が施行状を発給。但馬守護今川頼貞に四月八日の直義寄進状の執行を命ず[山城臨川寺重書案文]
義詮は直義を憎んでいたが、夭折した如意王の冥福を祈る直義の気持ちは理解していたようだ
同年八月十八日
尊氏は義詮と共に近江国に出陣、二百期あまり
鏡宿を本陣として設置
佐々木道誉ー秀綱 父子が近江の軍勢を連れて参戦
佐々木道誉は南朝に寝返っていたがここで尊氏派に帰参
二期義長が伊賀・伊勢の軍勢、土岐頼康が美濃国の軍勢を率いて参戦
同年八月二十日
直義が二十一日に敦賀から近江坂本に入るという偽情報が流れる
同年八月二十二日
直義が比叡山延暦寺の三門跡に書状を送った
この情報が京都洞院公賢の許に届く
「南朝軍が京都を占領する危険があるので光厳上皇、崇光天皇が冷え算に避難し保護するよう」
公賢はこの書状を「迷惑」と感想
妙法院門跡が光厳に報告したが、周章狼狽するだけで返答せず
同年八月二十三日
藤原有範が直義の使者として公式に北朝を参内
北朝を比叡山への移動を早急に要求
北朝側は帝都を出て悲劇的な最期を遂げた安徳天皇、後醍醐天皇の先例により熟慮
同年八月二十四日
北朝は直義の比叡山動座要求を受託する意向
南朝・後村上天皇から尊氏・義詮・直義追討の綸旨を佐々木道誉が賜った[浄修坊日記]
美濃の土岐氏も同様の綸旨を受け蜂起した
同年八月三日
義詮が帰京:直義出奔による
同年八月五日
尊氏が帰京:直義出奔による
義詮が若狭国の武士本郷貞泰に対して同国に侵入した山名時氏、上野頼兼、赤松光範の討伐を命令[古証文]
同年八月六日
【講和期(五ヶ月間)の破綻】
直義の京都脱出軍が、越前国敦賀へ到着、金ケ崎城へ入城
※十五年前に越前へ没落した新田義貞と行動パターンが似ている
若狭守護山名時氏、越前守護斯波高経、越中守護桃井直常、越後守護上杉憲顕
北陸は直義派で占められていた
信濃の諏訪氏、関東の上杉氏、山陰の山名氏、九州の足利直冬とも連携可能
桃井直常の進言であり、直義自身が考えた戦略では無い
尊氏は細川顕氏(直義派から寝返った)を使者にして越前国金ヶ崎城の直義に派遣
帰洛して政務に復帰することを懇望
尊氏は南朝との講和交渉を継続することも表明
桃井直常の上洛を尊氏が拒んだため、実現せず
同年八月七日
●法勝寺恵鎮上人が北朝廷臣洞院公賢の許に使者を派遣し、尊氏の命令で自身(恵鎮)が南朝に赴いて講和を申し入れることを伝えた
この段階の交渉は「公約」の実行であり、直義打倒のための同盟交渉ではない
南朝は尊氏の講和申し入れを拒絶、恵鎮を追い出す
恵鎮は別名円観(えんかん)で、後醍醐天皇側近の僧侶だった。元弘の変で鎌倉幕府に逮捕され陸奥国へ流された。南北朝に分離すると恵鎮は北朝側について京都に留まった。足利直義に近い位置にいたようだ。南朝からみれば恵鎮は後醍醐を裏切った人物となる。また直義との交渉失敗も影響していたと思われる。南朝は尊氏、直義は不信感しかない状態だった。
同年八月十二日
●恵鎮上人が南朝講和申し入れに失敗し帰京
同年八月十七日
義詮が施行状を発給。但馬守護今川頼貞に四月八日の直義寄進状の執行を命ず[山城臨川寺重書案文]
義詮は直義を憎んでいたが、夭折した如意王の冥福を祈る直義の気持ちは理解していたようだ
同年八月十八日
尊氏は義詮と共に近江国に出陣、二百期あまり
鏡宿を本陣として設置
佐々木道誉ー秀綱 父子が近江の軍勢を連れて参戦
佐々木道誉は南朝に寝返っていたがここで尊氏派に帰参
二期義長が伊賀・伊勢の軍勢、土岐頼康が美濃国の軍勢を率いて参戦
同年八月二十日
直義が二十一日に敦賀から近江坂本に入るという偽情報が流れる
同年八月二十二日
直義が比叡山延暦寺の三門跡に書状を送った
この情報が京都洞院公賢の許に届く
「南朝軍が京都を占領する危険があるので光厳上皇、崇光天皇が冷え算に避難し保護するよう」
公賢はこの書状を「迷惑」と感想
妙法院門跡が光厳に報告したが、周章狼狽するだけで返答せず
同年八月二十三日
藤原有範が直義の使者として公式に北朝を参内
北朝を比叡山への移動を早急に要求
北朝側は帝都を出て悲劇的な最期を遂げた安徳天皇、後醍醐天皇の先例により熟慮
同年八月二十四日
北朝は直義の比叡山動座要求を受託する意向
同年九月一日
北朝は朝廷の比叡山行きの中止を決定
●直義が朝廷を制御下に置く示威行為だったが、目論見が破れる
直義の光厳への裏切りと、講和交渉では両刀迭立論に後退したため、直義への不信があった
北朝側は尊氏ー義詮が近江に出陣しているため、京都に幕府が不在状態なので、南朝軍に京都を占領されてもおかしくない状態であったのは事実
ただし、尊氏はこの時点で南朝と講和交渉を進めていることを北朝は把握
同年九月二日
尊氏軍と直義軍が近江国で散発的な戦闘状態に入る
同年九月三日
丹後・但馬守護上野頼兼(直義派)が丹後国で戦死
●尊氏が二階堂行朝(朝は言偏に垔)、安威資脩(あいすけなが)を播磨国の赤松則祐の許へ派遣
則祐経由で南朝へ講和を申し入れた という情報が公賢の許に届く
二階堂行朝は直義派として直義の北陸逃亡に供奉した人物だが、この時までに尊氏に帰参している
二階堂行朝は鎌倉幕府で引付頭人を勤めていた古参の文筆官僚。室町幕府でも政所執事を務めた
安威資脩は幕府奉行人で、直義に疎まれて失脚。
興良親王の奉じて南朝方に転じ尊氏に反旗を翻した赤松則祐が九月の段階で、尊氏に接近してい南朝との同盟を仲介するほどになっている
尊氏と則祐の和解の要因は不明 ただし、直義が護良親王(後醍醐天皇嫡子)を殺害したため尊氏以上に直義への私怨があったものと思われる
二階堂行朝の娘が佐々木道誉(尊氏に寝返っている)に嫁ぎ、秀宗を出産。行朝の尊氏派入りも道誉との血縁関係によるもの。直義派の武将の引き抜きを道誉が担っているようだ
同年九月四日
南朝の結城氏の軍勢や、但馬国の悪党が丹後へ乱入
同年九月七日
直義が畠山国清、桃井直常を近江に出陣
八相山(やあいやま)に布陣
虎御前山の南尾根、戦国期に織田信長が浅井長政牽制のため城を築いた場所
同年九月十日
石塔頼房軍(直義派)が伊勢から近江へ侵入し、近江守護佐々木山内信詮と佐々木道誉の軍勢を撃破
頼房軍は八相山の直義軍に合流
同年九月十二日
尊氏軍が八相山を攻撃
秋山光政(一貫して直義派、師直一派が出家して横死した一因を作った人物)が戦死
桃井直常が継続して交戦を主張
他の武将の異議により、直義軍は越前に撤退
赤松則祐軍が播磨国伊川城に攻撃
同年九月二十日
尊氏と直義の講和交渉が始まる
同年九月二十一日
直義は越前国を出発し近江へ向かう
同年九月二十四日
尊氏ー直義との講和が成立しかかるが、桃井直常が拒絶との情報が京都に入る(偽情報?)
実際は講和交渉は順調
同年九月二十五日
細川清氏が上洛し、尊氏・直義兄弟が二十四日にいずれ面会することを伝達
同年九月二十六日
尊氏が十月一日、直義が十月二日に入洛するという予測が広まる
摂津国須磨城で合戦
同年九月二十九日
坂根・稻野で合戦
これらの合戦に参加した後藤基影に対して、後藤基影が参加、義詮が感状を発給[播磨五島文書[
この時の合戦相手は直義派
北朝は朝廷の比叡山行きの中止を決定
●直義が朝廷を制御下に置く示威行為だったが、目論見が破れる
直義の光厳への裏切りと、講和交渉では両刀迭立論に後退したため、直義への不信があった
北朝側は尊氏ー義詮が近江に出陣しているため、京都に幕府が不在状態なので、南朝軍に京都を占領されてもおかしくない状態であったのは事実
ただし、尊氏はこの時点で南朝と講和交渉を進めていることを北朝は把握
同年九月二日
尊氏軍と直義軍が近江国で散発的な戦闘状態に入る
同年九月三日
丹後・但馬守護上野頼兼(直義派)が丹後国で戦死
●尊氏が二階堂行朝(朝は言偏に垔)、安威資脩(あいすけなが)を播磨国の赤松則祐の許へ派遣
則祐経由で南朝へ講和を申し入れた という情報が公賢の許に届く
二階堂行朝は直義派として直義の北陸逃亡に供奉した人物だが、この時までに尊氏に帰参している
二階堂行朝は鎌倉幕府で引付頭人を勤めていた古参の文筆官僚。室町幕府でも政所執事を務めた
安威資脩は幕府奉行人で、直義に疎まれて失脚。
興良親王の奉じて南朝方に転じ尊氏に反旗を翻した赤松則祐が九月の段階で、尊氏に接近してい南朝との同盟を仲介するほどになっている
尊氏と則祐の和解の要因は不明 ただし、直義が護良親王(後醍醐天皇嫡子)を殺害したため尊氏以上に直義への私怨があったものと思われる
二階堂行朝の娘が佐々木道誉(尊氏に寝返っている)に嫁ぎ、秀宗を出産。行朝の尊氏派入りも道誉との血縁関係によるもの。直義派の武将の引き抜きを道誉が担っているようだ
同年九月四日
南朝の結城氏の軍勢や、但馬国の悪党が丹後へ乱入
同年九月七日
直義が畠山国清、桃井直常を近江に出陣
八相山(やあいやま)に布陣
虎御前山の南尾根、戦国期に織田信長が浅井長政牽制のため城を築いた場所
同年九月十日
石塔頼房軍(直義派)が伊勢から近江へ侵入し、近江守護佐々木山内信詮と佐々木道誉の軍勢を撃破
頼房軍は八相山の直義軍に合流
同年九月十二日
尊氏軍が八相山を攻撃
秋山光政(一貫して直義派、師直一派が出家して横死した一因を作った人物)が戦死
桃井直常が継続して交戦を主張
他の武将の異議により、直義軍は越前に撤退
赤松則祐軍が播磨国伊川城に攻撃
同年九月二十日
尊氏と直義の講和交渉が始まる
同年九月二十一日
直義は越前国を出発し近江へ向かう
同年九月二十四日
尊氏ー直義との講和が成立しかかるが、桃井直常が拒絶との情報が京都に入る(偽情報?)
実際は講和交渉は順調
同年九月二十五日
細川清氏が上洛し、尊氏・直義兄弟が二十四日にいずれ面会することを伝達
同年九月二十六日
尊氏が十月一日、直義が十月二日に入洛するという予測が広まる
摂津国須磨城で合戦
同年九月二十九日
坂根・稻野で合戦
これらの合戦に参加した後藤基影に対して、後藤基影が参加、義詮が感状を発給[播磨五島文書[
この時の合戦相手は直義派
同年九月三十日
前天龍寺重職夢窓疎石が死去
幕府内部抗争の調停を精力的に進めていた人物
前天龍寺重職夢窓疎石が死去
幕府内部抗争の調停を精力的に進めていた人物
同年十月二日
尊氏と直義が近江国錦織興福寺で対面
大高重成が若狭守護に任命[若狭守護職次第]
重成は直義派になって若狭守護を得ようとしたが、尊氏に寝返って念願の守護職を獲得(四度目)
守護代に大崎八郎左衛門入道を派遣し、前任の山名氏の直義派残党と交戦
同年十月五日
【形ばかりの講和】
尊氏と直義間で講和が成立し、直義が近江国坂本、尊氏が近江国石山に入る
尊氏は信濃守護小笠原政長に直義が関東へ向かう情報があるので進路を妨害するように命じる御判御教書を発給[勝山小笠原古文書]
同年十月七日
石塔頼房が瀬田の橋を破壊し、坂本を経由して直義本陣に向かったとの報、講和破綻の報が洞院公賢にもたらされる
夜には直義が塩津付近に滞在している報も入る
同年十月八日
直義は近江を退去して再度北陸へ[豊後竹田津文書]
同年十月十一日
直義が関東下向の意志を表明[近江小佐治文書]
直義はこの後北陸道を経由して鎌倉へ向かった
●桃井直常の進言に従っただけか
越前守護斯波高経が尊氏に寝返った
細川顕氏、畠山国清が出家の意向を示す
二人は今回の講和交渉に尽力、不和に終わったために面目を失った
尊氏が二人を説得して翻意→顕氏、国清が尊氏に帰順
※このあたりで高師直亡き後、不毛な戦争を続けるのに、多くの武将が疲れている
尊氏派の主戦派:義詮
直義派の主戦派:桃井直常、石塔頼房
同年十月十二日
二階堂行珍が上洛:尊氏へ帰順
同年十月十四日
尊氏と義詮が近江の陣を引き上げ帰京
同年十月十五日
尊氏は天龍寺に参詣し、夢窓疎石の冥福を祈った
醍醐寺の清浄光院房玄が死去[常楽記]
以前の直義と南朝の講和交渉で使者として尽力した人物
史料[房玄法印記]([貞和四年記]と[観応二年日次記(ひなみき)]の二部、[醍醐地蔵院日記]の異名も)を遺す
同年十月二十一日
若狭守護大高重成軍の本郷泰光、松田惟貞が戦死[若狭本郷氏関係文書]
★幕府で沙汰始が開催 義詮が文書に署判を行う
仁木頼章が執事に任命(二月二十六日に高師直が死去して以来、八ヶ月ぶりの執事職)
三条殿体制の継承を目論んだもの
仁木頼章は尊氏、義詮の大きな信頼を得ている武将
平安期以来初めて高一族以外から執事に任命された
同年十月二十五日
南朝が幕府の講和条件をほぼ受入る情報が京都に入った
●南朝との講和成功
同年十月二十八日
尊氏が義詮を追討するという噂が流れる
父子間の不和?
南朝との講和を義詮、則祐、道誉とともに主導していたため尊氏の意向が反映されにくかったからか
同年十一月
若狭守護代大崎入道が若狭から追い出される[若狭守護職次第]
同年十一月二日
赤松則祐が上洛、正式に幕府に帰参
南朝の使者忠雲僧正が山城国宇治に滞在し、この日入京して講和条件の細部を詰めた
同年十一月三日
●義詮が加賀親承の坊に赴き、忠雲と対面して正式に講和を締結
講和条件:①元弘一統の時代に回帰する ②直義を追討する
この講和条件を南朝後村上天皇の綸旨として発給された
尊氏は条件②に反対したと思われる
尊氏は南朝講和を直義との和解の手土産とするつもりだったので綸旨で明文化されたのは痛い
義詮は直義に反抗しており条件②は当然好都合
尊氏は幕府の存続について明言されていないことが不安
綸旨に対して「直義と直冬等については、当方に相談しながら退治する様官軍にお命じください」
→ 尊氏が軍事指揮権を握っていることの暗黙の前提として南朝に釘を刺した
尊氏は後醍醐天皇の許で幕府を開きたかった:延元の乱は不本意?
尊氏は持明院統光厳上皇は敵、北朝樹立時孝明天皇の皇太子に後醍醐の皇子成良親王を擁立
北朝への皇統一元化は北朝から幕府への積極的な働きかけによるもの
【正平の一統】南朝と室町幕府の合体成功
同年十一月四日
尊氏が直義討伐のため京都から出陣(十四五騎)
仁木頼章、仁木義長、畠山国清、千葉氏胤、武田信武、二階堂行珍等が供奉
南宗継(高一族)は後から出発
近江国石山で態勢整える
同年十一月七日
南朝から四条隆資、洞院実世が上洛
★崇光天皇、皇太子直仁親王が廃されて、北朝消滅
幕府は発給文書に正平年号を使用しはじめる
南朝方元号
興国7年12月8日(1347年1月20日) 正平(しょうへい)に改元
~正平25年7月24日(1370年8月16日) 建徳に改元
尊氏と直義が近江国錦織興福寺で対面
大高重成が若狭守護に任命[若狭守護職次第]
重成は直義派になって若狭守護を得ようとしたが、尊氏に寝返って念願の守護職を獲得(四度目)
守護代に大崎八郎左衛門入道を派遣し、前任の山名氏の直義派残党と交戦
同年十月五日
【形ばかりの講和】
尊氏と直義間で講和が成立し、直義が近江国坂本、尊氏が近江国石山に入る
尊氏は信濃守護小笠原政長に直義が関東へ向かう情報があるので進路を妨害するように命じる御判御教書を発給[勝山小笠原古文書]
同年十月七日
石塔頼房が瀬田の橋を破壊し、坂本を経由して直義本陣に向かったとの報、講和破綻の報が洞院公賢にもたらされる
夜には直義が塩津付近に滞在している報も入る
同年十月八日
直義は近江を退去して再度北陸へ[豊後竹田津文書]
同年十月十一日
直義が関東下向の意志を表明[近江小佐治文書]
直義はこの後北陸道を経由して鎌倉へ向かった
●桃井直常の進言に従っただけか
越前守護斯波高経が尊氏に寝返った
細川顕氏、畠山国清が出家の意向を示す
二人は今回の講和交渉に尽力、不和に終わったために面目を失った
尊氏が二人を説得して翻意→顕氏、国清が尊氏に帰順
※このあたりで高師直亡き後、不毛な戦争を続けるのに、多くの武将が疲れている
尊氏派の主戦派:義詮
直義派の主戦派:桃井直常、石塔頼房
同年十月十二日
二階堂行珍が上洛:尊氏へ帰順
同年十月十四日
尊氏と義詮が近江の陣を引き上げ帰京
同年十月十五日
尊氏は天龍寺に参詣し、夢窓疎石の冥福を祈った
醍醐寺の清浄光院房玄が死去[常楽記]
以前の直義と南朝の講和交渉で使者として尽力した人物
史料[房玄法印記]([貞和四年記]と[観応二年日次記(ひなみき)]の二部、[醍醐地蔵院日記]の異名も)を遺す
同年十月二十一日
若狭守護大高重成軍の本郷泰光、松田惟貞が戦死[若狭本郷氏関係文書]
★幕府で沙汰始が開催 義詮が文書に署判を行う
仁木頼章が執事に任命(二月二十六日に高師直が死去して以来、八ヶ月ぶりの執事職)
三条殿体制の継承を目論んだもの
仁木頼章は尊氏、義詮の大きな信頼を得ている武将
平安期以来初めて高一族以外から執事に任命された
同年十月二十五日
南朝が幕府の講和条件をほぼ受入る情報が京都に入った
●南朝との講和成功
同年十月二十八日
尊氏が義詮を追討するという噂が流れる
父子間の不和?
南朝との講和を義詮、則祐、道誉とともに主導していたため尊氏の意向が反映されにくかったからか
同年十一月
若狭守護代大崎入道が若狭から追い出される[若狭守護職次第]
同年十一月二日
赤松則祐が上洛、正式に幕府に帰参
南朝の使者忠雲僧正が山城国宇治に滞在し、この日入京して講和条件の細部を詰めた
同年十一月三日
●義詮が加賀親承の坊に赴き、忠雲と対面して正式に講和を締結
講和条件:①元弘一統の時代に回帰する ②直義を追討する
この講和条件を南朝後村上天皇の綸旨として発給された
尊氏は条件②に反対したと思われる
尊氏は南朝講和を直義との和解の手土産とするつもりだったので綸旨で明文化されたのは痛い
義詮は直義に反抗しており条件②は当然好都合
尊氏は幕府の存続について明言されていないことが不安
綸旨に対して「直義と直冬等については、当方に相談しながら退治する様官軍にお命じください」
→ 尊氏が軍事指揮権を握っていることの暗黙の前提として南朝に釘を刺した
尊氏は後醍醐天皇の許で幕府を開きたかった:延元の乱は不本意?
尊氏は持明院統光厳上皇は敵、北朝樹立時孝明天皇の皇太子に後醍醐の皇子成良親王を擁立
北朝への皇統一元化は北朝から幕府への積極的な働きかけによるもの
【正平の一統】南朝と室町幕府の合体成功
同年十一月四日
尊氏が直義討伐のため京都から出陣(十四五騎)
仁木頼章、仁木義長、畠山国清、千葉氏胤、武田信武、二階堂行珍等が供奉
南宗継(高一族)は後から出発
近江国石山で態勢整える
同年十一月七日
南朝から四条隆資、洞院実世が上洛
★崇光天皇、皇太子直仁親王が廃されて、北朝消滅
幕府は発給文書に正平年号を使用しはじめる
南朝方元号
興国7年12月8日(1347年1月20日) 正平(しょうへい)に改元
~正平25年7月24日(1370年8月16日) 建徳に改元
年号
1329年9月22日 元徳────────┐
1331年9月11日 │ 元弘(大覚寺統:後醍醐天皇)
1332年5月23日 正慶(光厳天皇) │
1333年7月7日 ┴ ┌──┘
1334年3月5日 建武(後醍醐天皇)─┐
1336年4月11日 延元(南朝) │
1338年10月11日 │ 暦応(北朝)
1340年5月25日 興国(南朝) │
1342年6月1日 │ 康永(北朝)
1345年11月15日 │ 貞和(北朝)
1347年1月20日 正平(南朝) │
1350年4月4日 │ 観応(北朝)
1352年11月4日 │ 文和(北朝)
1356年4月29日 │ 延文(北朝)
1361年5月4日 │ 貞治(北朝)
1368年3月7日 │ 応安(北朝)
1370年8月16日 建徳(南朝) │
1372年5月 文中(南朝) │
1375年3月29日 │ 永和(北朝)
1375年6月26日 天授(南朝) │
1379年4月9日 │ 康暦(北朝)
1381年3月6日 弘和(南朝) │
1381年3月20日 │ 永徳(北朝)
1384年3月19日 │ 至徳(北朝)
1384年5月18日 元中(南朝) │
1387年10月25日 │ 嘉慶(北朝)
1389年3月7日 │ 康応(北朝)
1390年3月26日 │ 明徳(北朝)
1392年11月19日 明徳(統一)────┘
1394年8月2日 応永(統一)
1329年9月22日 元徳────────┐
1331年9月11日 │ 元弘(大覚寺統:後醍醐天皇)
1332年5月23日 正慶(光厳天皇) │
1333年7月7日 ┴ ┌──┘
1334年3月5日 建武(後醍醐天皇)─┐
1336年4月11日 延元(南朝) │
1338年10月11日 │ 暦応(北朝)
1340年5月25日 興国(南朝) │
1342年6月1日 │ 康永(北朝)
1345年11月15日 │ 貞和(北朝)
1347年1月20日 正平(南朝) │
1350年4月4日 │ 観応(北朝)
1352年11月4日 │ 文和(北朝)
1356年4月29日 │ 延文(北朝)
1361年5月4日 │ 貞治(北朝)
1368年3月7日 │ 応安(北朝)
1370年8月16日 建徳(南朝) │
1372年5月 文中(南朝) │
1375年3月29日 │ 永和(北朝)
1375年6月26日 天授(南朝) │
1379年4月9日 │ 康暦(北朝)
1381年3月6日 弘和(南朝) │
1381年3月20日 │ 永徳(北朝)
1384年3月19日 │ 至徳(北朝)
1384年5月18日 元中(南朝) │
1387年10月25日 │ 嘉慶(北朝)
1389年3月7日 │ 康応(北朝)
1390年3月26日 │ 明徳(北朝)
1392年11月19日 明徳(統一)────┘
1394年8月2日 応永(統一)
同年十一月八日頃
尊氏は饗庭命鶴丸、朽木某を使者として義詮の許に派遣し、義詮の出陣を阻止
同年十一月十日
義詮は尊氏の制止に納得せず出陣する意向を示すが、実現しなかった
義詮の京都留守は正平の一統後の南朝動静把握、対直義強硬派の動向抑制のため
同年十一月十五日
直義軍が鎌倉へ到着 鎌倉は直義派の関東執事上杉憲顕の勢力範囲
鎌倉公方足利基氏(尊氏実子・直義猶子)が出迎える
同年十一月中頃
中賀野掃部助(直義派)が駿河国府中に侵入
同年十一月十六日
尊氏派の伊達景宗等が駿河国府中に攻撃、直義軍は久能山に撤退[美作伊達文書]
同年十一月二十六日
尊氏軍が遠江国掛川まで進出
同年十一月二十九日
尊氏軍が駿河国薩埵山に到達し、籠城
駿河守護今川範国と子息貞世(了俊)が尊氏軍に参加
直義は伊豆国府に本陣を設営
尊氏軍三千騎あまりを直義軍五十万騎が包囲[太平記]
直義軍が京都に攻め上るという噂が京都で流れ、義詮が防戦の為に東国出陣しようとした
尊氏は饗庭命鶴丸、朽木某を使者として義詮の許に派遣し、義詮の出陣を阻止
同年十一月十日
義詮は尊氏の制止に納得せず出陣する意向を示すが、実現しなかった
義詮の京都留守は正平の一統後の南朝動静把握、対直義強硬派の動向抑制のため
同年十一月十五日
直義軍が鎌倉へ到着 鎌倉は直義派の関東執事上杉憲顕の勢力範囲
鎌倉公方足利基氏(尊氏実子・直義猶子)が出迎える
同年十一月中頃
中賀野掃部助(直義派)が駿河国府中に侵入
同年十一月十六日
尊氏派の伊達景宗等が駿河国府中に攻撃、直義軍は久能山に撤退[美作伊達文書]
同年十一月二十六日
尊氏軍が遠江国掛川まで進出
同年十一月二十九日
尊氏軍が駿河国薩埵山に到達し、籠城
駿河守護今川範国と子息貞世(了俊)が尊氏軍に参加
直義は伊豆国府に本陣を設営
尊氏軍三千騎あまりを直義軍五十万騎が包囲[太平記]
直義軍が京都に攻め上るという噂が京都で流れ、義詮が防戦の為に東国出陣しようとした
同年十二月一日
義詮出陣は五日に決定
同年十二月三日
尊氏は岡本良円を下野に派遣[秋田藩家蔵岡本文書]
★宇都宮氏綱を味方につけるための工作
同年十二月七日
尊氏と義直が講和したという情報が京都に入った
義詮の東国出陣は中止
講和の情報は誤報だった
同年十二月十一日
駿河国蒲原河原で尊氏軍と直義軍が交戦 尊氏軍の大勝[勝山小笠原文書]
同年十二月十五日
下野税が宇都宮から出陣
宇都宮氏綱が公義の勧めで三戸七郎(高師親、師冬の甥で猶子)を総大将[太平記]
同年十二月十六日
直義が袖判下文を発給[筑後田代文書]
下野軍が天命宿(てんみょうしゅく)に到着 七郎自害(脳溢血か?)
同年十二月十九日
上野国那和荘で交戦 下野勢は上杉氏配下の桃井播磨守、長尾左衛門の軍勢を撃破
同年十二月二十日
下野勢が武蔵国府中に侵入、小沢城を焼き払い、金井原でも戦闘
その後相模原へ転戦
同年十二月二十九日
下野勢は武蔵国足柄山で直義軍を駆逐
甲斐国でも合戦があり、尊氏派の信濃守護小笠原政長が直義派武田上野介軍に勝利[石水博物館所蔵佐藤文書]
義詮出陣は五日に決定
同年十二月三日
尊氏は岡本良円を下野に派遣[秋田藩家蔵岡本文書]
★宇都宮氏綱を味方につけるための工作
同年十二月七日
尊氏と義直が講和したという情報が京都に入った
義詮の東国出陣は中止
講和の情報は誤報だった
同年十二月十一日
駿河国蒲原河原で尊氏軍と直義軍が交戦 尊氏軍の大勝[勝山小笠原文書]
同年十二月十五日
下野税が宇都宮から出陣
宇都宮氏綱が公義の勧めで三戸七郎(高師親、師冬の甥で猶子)を総大将[太平記]
同年十二月十六日
直義が袖判下文を発給[筑後田代文書]
下野軍が天命宿(てんみょうしゅく)に到着 七郎自害(脳溢血か?)
同年十二月十九日
上野国那和荘で交戦 下野勢は上杉氏配下の桃井播磨守、長尾左衛門の軍勢を撃破
同年十二月二十日
下野勢が武蔵国府中に侵入、小沢城を焼き払い、金井原でも戦闘
その後相模原へ転戦
同年十二月二十九日
下野勢は武蔵国足柄山で直義軍を駆逐
甲斐国でも合戦があり、尊氏派の信濃守護小笠原政長が直義派武田上野介軍に勝利[石水博物館所蔵佐藤文書]
※下野・武蔵勢の接近により、薩埵山を包囲していた直義軍は崩壊
薩埵山の仁木義長隊が伊豆国府に接近により、直義は伊豆国北条へ撤退
上杉憲顕も逃走、途中相模国早河尻で千葉氏胤の妨害を受けたが、撃破して信濃方面へ没落
薩埵山の仁木義長隊が伊豆国府に接近により、直義は伊豆国北条へ撤退
上杉憲顕も逃走、途中相模国早河尻で千葉氏胤の妨害を受けたが、撃破して信濃方面へ没落
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正平七年(1352年)正月一日
【直義降伏】
尊氏軍は伊豆国府で宇都宮・薬師寺の援軍と合流
次に信濃守護小笠原勢も合流
★直義は伊豆国走湯山権現社に撤退 ここで尊氏の勧告を受けて降伏
仁木頼章・義長兄弟、畠山国清が迎えに行く
同年正月五日
尊氏と直義が鎌倉へ入った
正平七年(1352年)正月一日
【直義降伏】
尊氏軍は伊豆国府で宇都宮・薬師寺の援軍と合流
次に信濃守護小笠原勢も合流
★直義は伊豆国走湯山権現社に撤退 ここで尊氏の勧告を受けて降伏
仁木頼章・義長兄弟、畠山国清が迎えに行く
同年正月五日
尊氏と直義が鎌倉へ入った
同年二月二十五日
直義の甥で養子の基氏が十三歳で元服
同年二月二十六日
【観応の擾乱終決】
直義死去(享年四十六歳)
直義の甥で養子の基氏が十三歳で元服
同年二月二十六日
【観応の擾乱終決】
直義死去(享年四十六歳)
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文和元年(1352年)
若狭守護が斯波家兼に交代(推定)
文和元年(1352年)
若狭守護が斯波家兼に交代(推定)
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応安二年(1369年)
楠木正儀は三代将軍足利義満の許で管領細川頼之が統治する幕府に寝返る
講和派だった正儀は、南朝上層部へ不満をもった
河内・和泉二カ国の主汚職と摂津国住吉郡の統治を認められる
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延徳二年(1490年)七月五日
足利義材(よしき:後の義稙(よしたね))の室町幕府十代目征夷大将軍就任式開催
御前御沙汰始の儀式[延徳二年将軍宣下記]
御前御沙汰の別名を恩賞御沙汰という
恩賞方衆を御前衆とも呼ぶ
評定を寺社方御沙汰ともいう
延徳二年(1490年)七月五日
足利義材(よしき:後の義稙(よしたね))の室町幕府十代目征夷大将軍就任式開催
御前御沙汰始の儀式[延徳二年将軍宣下記]
御前御沙汰の別名を恩賞御沙汰という
恩賞方衆を御前衆とも呼ぶ
評定を寺社方御沙汰ともいう