ここにまた、管領家の退糧人(ろうにん)網乾左母二郎という若人がいる。最近まで、扇谷修理大夫定正(おうぎがやつしゅりのたいふさだまさ)に小姓として仕えていた。便佞(べんねい:言葉巧みに)利口の者だったので、一度は重用されたが、人間関係が上手くいかず、同僚に強訴されて、たちまちその非義が明らかになって、すぐに追放された。その父母は先に亡くなって、いまだ妻子もなく、遠縁のものを頼るため、大塚の郷に流浪(さすらい)て来て、糠助の旧宅を購い求めて、形式どおり足を入れた。ところでこの左母二郎は、今年二汁五歳で、色白く、眉目秀でて、田舎には稀なる美男子である。手跡(しゅせき)は大師様[注1]らしく、草書も拙(つたな)くはない。これだけであく、遊芸は今様の艶曲(ざれうた)、腰鼓、一節切(ひとよきり:尺八)など、習わなくても上手である。犬塚番作が亡くなった後、里に手跡の師匠がいなくなり、左母二郎は毎日、手習子(てらこ)を集めて生業として、また女の子には、歌舞今様を教えると、浮いた事を好むもの、都も田舎もいるもので、手跡よりも遊芸の弟子が日々集まってきて、華やかに舞うと、ここの乙女、あちらの寡婦(やもめ)と、怨まれるときもあるのだが、亀篠は若いときから、軽率にも親しんだ芸事なので、左母二郎の事だといって、早速夫の機嫌を直すように計らったので、蟇六は彼に怒りを覚えることがあり、知らない振りをして、遂に網乾を追い払ってしまった。
そしてその年の終わりに、城主大石兵衛尉の陣代である簸上蛇太夫(ひかみじゃだいふ)という者が死去した。翌年五月の頃、蛇太夫の長男、簸上宮六(ひかみきゅうろく)が亡き父の職祿を賜って、新陣代になり、その配下に軍木五倍二(ぬるてご・ばいじ)、卒川菴八(いさかわいおはち)等と共に、多くの若党や下僕(しもべ)を率いて、あちこちを巡検し、その夜は、荘官蟇六の家に許止宿(がりししゅく)していた。蟇六はあらかじめ饗膳の準備をして、佞媚(こび)賄賂(まいない)をしないということはなく、勧杯(けんぱい:盃を相手に差し出して酒を勧めること)するなど、手厚い礼でもてなした。時は庚申になったので、庚申(こうしん)になったので、亀篠は夫に勧めて、網乾左母二郎を招き寄せて、庚申守だと言うことにして、歌曲の遊びを催して、娘浜路の自慢が癖のように、ことさら派手な羅衣(うすきぬ)着せて、強引にその席に座らせて、酌をさせ、筑紫琴を奏でさせ、左母二郎には、例の艶曲(ざれうた)を歌わせて、興(こゆ)を盛り上げた。浜路はこのような席にいて、見たこともない人々に、馴れ馴れしくしゃべりかけられて、ただでさえ網乾と肘をあわせて、自分の未熟な糸の調べを、賓客等(まれびとたち)に聴かせることで、信乃の事を思う事ができず、心裏(うら)恥ずかしいばかりだったが、親と争うわけにはいかず、困ってわずかに一曲を奏でると、陣代簸上宮六等は酔顔(すいがん)蕩けて燈燭に照らされたように赤くなって、目を細くして、浜路をかえり見て、太い声で、その節奏(しらべ)を褒めて、扇を短くとって、節を拍(はや)し、鼻の下を長くして、涎が流れるのもわからず、長短細大(ちょうたんさいだい)、我を忘れて、がやがやと笑い楽しみ、
「まこと、今宵のもてなしは、美酒も、まだ美を尽くしておらず、食膳もまだ善を尽くしていないが、ただ娘子の一曲のみ、玄のまた玄、玄賓僧都(げんひんそうづ)[注2] も聴けば堕落するだろう。妙のまた妙、妙音天女(みょうおんでんじょ:弁財天のこと。琵琶を抱えている)も、合奏すればバチを捨ててしまうようだ。ああありがたい音楽ではないか。面白いものだ今の音楽は」
と訛声(だみごえ)あわせて歌っていると、浜路は恥ずかしく、そして腹立たしくなり、そこに居ることができず、大騒ぎに紛れて、消えるように退出していった。
ところで左母二郎は管領家の退糧人(ろうにん)なのだが、宮六等は鎌倉へ、在番(ざいばん:勤番にあたって出所すること)するわけではないので、互いに素性を知ることはない。網乾はその性格が浅はかで軽々しい。いろいろな遊興の座を渡り歩き、馬鹿な俳優(わざおぎ)になって、虚辨を散々媚び諂って、盃を勧めるようなことをしていた。また時々、秀句を吐いて笑いを引き起こし、宮六等を称して殿(との)と言い、檀那(だんな)と唱え、蟇六を大人(だいじん)と称し、亀篠を奥方とし、給仕の奴婢(ぬひ)を姉様と呼び、下男をすべて先生と言う、称呼(しょうこ)に繽紜(ひんうん:多くのものが乱れる)徳操(とくそう:堅固な道徳心)のない、本当に軽薄な男の習性である。すべてのこういう席には、声色を嗜まない、真面目な人は愚者のように見えてしまう。あの紂王(ちゅうおう:殷の王)が比干(ひかん:紂王の叔父)のことを不肖とし、また儵忽(しゅくこつ:南海の帝(儵)と北海の帝(忽))が混沌(こんとん:第十七回その5[注5]参照)を不具と思ったのと、これと同じである。したがって信乃はこの夜は、ひとりで部屋に引きこもって、燈下(とうか)に兵書を読んでいて、その席に入らなかったが、蟇六はこれについて何も言わず、もともと思う事があったのか、陣代には信乃の事を一言も話さなかった。そして、鶏が啼き暁を告げる頃、徐々に盃を納めて、蟇六は宮六等に、
「もったいなくぞんじます」
と敬い謝して、更に朝飯を勧めて、宿酒(しゅくしゅ)がまだ醒めていないので、誰もがそんなに食べなかったが、ではあちこちを巡りましょうと、三人が同時に立ち上がって出て行くと、蟇六は忙しくその従者の中に混じって、村外れまで送っていった。
---------------<<注釈>>-------------
[注1]大師様
書における大師流のことである。空海が唐へ留学しているときに、韓方明(かんほうみん:書論「授筆要説」があるが、ほとんどわかっていない)から後漢の蔡邕(さいよう:政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい))以来の書法を学び、帰国後、嵯峨天皇に伝授、その後、岡本宣就、藤木敦直、狩野探幽等へと受け継がれていった。
和様の書流では、平安中期に見られる三跡(小野道風、藤原行成、藤原佐理)は奈良期から平安期にかけて王羲之の書風をベースにしてできあがったものである。この三跡をベースに平安末期に法性寺流、鎌倉末期に青蓮院流、江戸期には御家流が生まれ伝承されている。
一方、唐様と呼ばれる中国の書風の流れがある。特に禅僧による手跡を墨跡と呼び、鎌倉期から始まる。墨跡は宋風で、蘇軾、黄庭堅、米芾、張即之の書のことである。これらは和様の柔らかい線とは異なり、剛健な印象を持つ。江戸期の墨跡は大徳寺、妙心寺、黄檗派の禅僧の書のことをいい、明の文徴明・祝允明・董其昌の書風が比較加味されて、武家、漢学者にも好まれた。
唐様自体は、江戸前期に中国の書法が儒学者の北島雪山、細井広沢らに伝わり発展した。江戸期の儒者や文人が好んだ。幕末期には市河米庵、巻菱湖、貫名菘翁を三筆と称し、門弟を大名などに広げて普及に尽力した。
【代表的な書流の一覧】
| 書流 | 開祖 | 系列 | 時期 |
|---|---|---|---|
| 世尊寺流 | 藤原行成 | 小野道風 | 平安中期から室町中期 |
| 持明院流 | 持明院基春 | 世尊寺流 | 室町中期から江戸中期 |
| 法性寺流 | 藤原忠通 | 世尊寺流 | 平安後期から鎌倉中期 |
| 後京極流 | 九条良経 | 法性寺流 | 鎌倉 |
| 定家様(定家流) | 藤原定家 | 法性寺流 | 鎌倉 |
| 定家様(冷泉流) | 冷泉為和 | 定家流 | 室町後期から江戸後期 |
| 宸翰様(伏見院流) | 伏見天皇 | 世尊寺流、上代様 | 鎌倉 |
| 宸翰様(後醍醐院流) | 後醍醐天皇 | 宸翰様 | 南北朝 |
| 宸翰様(花園院流) | 花園天皇 | 宸翰様 | 南北朝 |
| 宸翰様(後小松院流) | 後小松天皇 | 宸翰様 | 室町初期 |
| 宸翰様(勅筆流) | 後円融天皇 | 宸翰様 | 室町中期から後期 |
| 宸翰様(後柏原院流) | 後柏原天皇 | 宸翰様 | 室町後期から江戸初期 |
| 青蓮院流(尊円流、御家流) | 尊円法親王 | 世尊寺流、伏見院流 | 南北朝から江戸 |
| 飛鳥井流 | 飛鳥井雅親 | 上代様 | 南北朝から安土桃山 |
| 三条流 | 三条西実隆 | 青蓮院流 | 室町 |
| 光悦流 | 本阿弥光悦 | 青蓮院流 | 江戸 |
| 松花堂流(滝本坊流) | 松花堂昭乗 | 青蓮院流、大師流 | 江戸 |
| 近衛流(三藐院流) | 近衛信尹 | 青蓮院流 | 江戸 |
[注2]玄賓僧都(げんひんそうづ)
慶政(藤原道家の兄)が承久四年(1222年)に完成した仏教説話集「閑居友(かんきょのとも)」に登場する奈良・興福寺の御門僧都の玄賓のこと。文中の簸上宮六の言葉では、深い意味ではなく、「琴の弦」と高僧の「玄賓僧都の玄」を掛けただけの戯れ言である。
閑居友の第三段「玄賓僧都門をさして善珠僧都をいれぬ事」に登場する。原文を抜粋する。
今此玄賓の君のあとをみるに、あるときはつぶね(奴)となりて人にしたがひてむまをかひ、
或ときはわたしぶねにみなれざほ(水馴れ棹:船竿)さして、
月日ををくるばかりごとにせられけん事、ことにしのびがたくも侍かな。
或ときはわたしぶねにみなれざほ(水馴れ棹:船竿)さして、
月日ををくるばかりごとにせられけん事、ことにしのびがたくも侍かな。
あきはてぬれば
(「山田もる そうづの身こそ あはれなれ あきはてぬれば とふ人もなし」〔続古今〕。
(「山田もる そうづの身こそ あはれなれ あきはてぬれば とふ人もなし」〔続古今〕。
「そうづ」は「そほづ・そほど」〔案山子〕を、「秋果て」と「飽き果て」とを掛ける。)
となげき、またはけがさじ
(「三輪川の 清き流れに すすぎして 衣の袖を またはけがさじ」〔和漢朗詠集〕)
とちかひ給けん心のうち、猶々やるかたなくぞ侍べき。
となげき、またはけがさじ
(「三輪川の 清き流れに すすぎして 衣の袖を またはけがさじ」〔和漢朗詠集〕)
とちかひ給けん心のうち、猶々やるかたなくぞ侍べき。
あはれほとけのかゝる心をあたへたまひて、たゞいまもはしりいでゝ、
あとかたなくひとりかなしみひとりなげきて、そでををさへ、
なみだをながしてあらばやとなげゝどもかひなくて、としもかさなりぬるぞかし。
あとかたなくひとりかなしみひとりなげきて、そでををさへ、
なみだをながしてあらばやとなげゝどもかひなくて、としもかさなりぬるぞかし。
(その3 ここまで)