南総里見八犬伝 二 第三輯第一巻第二十二回 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 この合戦によって、世の中はしばらく静かにならず、菅菰(すがも)、大塚の里までも、人の心が落ち着かず、しかし、蟇六と亀篠等はこれを幸いの事と思って、
 
「これでは子供の婚姻も今年は、まず出来ないな。来年、平穏になれば、必ず浜路を妻せて、信乃を村長として譲ろう」
 
と里人等にこのことを告げ、まずは言い訳をした。
 
 ところで、蟇六の養女浜路は、八九歳の頃から両親の口から、
 
「信乃は夫ですよ。お前は妻ですよ」
 
としきりに言われていたので、本当の事と思い、物心がついた頃から、恥ずかしくまた喜ばしく感じていて、それとはなしに信乃が、しゃべっているのを聞いて楽しみ、心の中で誓っていた。しかしその両親は養女であるということを浜路には知らせておらず、ただ産みの子のようにしていたが、密かに教える者がいて、実の親は練馬の家臣、某乙(なにがし)というもので、兄弟もいることを浜路がわずかに伝え聞いたのは、十二三歳の頃だった。
 
「そういえば、今の親達が、人には愛しているように見せているけれど、口と心は表裏があって、側に人がいなければ、小さいことで罵り辱め、助けると見せて息の根を止めるようなことをしたり、幼いときは時々そのようなことがありました。私を育ててくださった恩は浅くはありませんが、今、血の繋がらない親子であると知って、それほど悲しくもありません。そもそも私の実の親は、練馬殿の家臣で、何という人でしょう。また兄弟もいるというのなら、私には兄弟姉妹の誰かがいるのでしょうね」
 
と人伝に問うが、堪えていた涙が袖を伝って、親には見せないようにして、実の親を思う心を尽くして、三里に足らない距離の故郷を思いやった。しかし、そうであっても自分にとっては、鞍馬の葛折りではないが、近くて遠い物思いをするばかりで、春の準備に引き出す、馬の背に乗せた土大根(つちおおね:大根)、練馬と聞けば恋しくなり、思いがけず辛さが増して、今年練馬家滅亡し、一族豊島平家だけでなく、従類士卒の大半が撃たれたと聞こえてきたので、浜路は悲しさやるせなく、
 
「そうであってもわが実の親兄弟は逃れられたのかしら。まだ実の母上はいらっしゃるのでしょうか。婦女子(おなご)は助けられるとも、理由も無く思ってしまいます。不安ですが、養親達は私に実父母があるのを、すこしでも話さず、襁褓のころから養われ、恩愛を仇にするつもりはありません。知らなかった日は是非もありませんが、親兄弟があるのを、わずかに聞いたのに、名前も知らず、その討ち死にの様子も知らず、弔うことも出来ない私は、これは過世(すくせ)の悪報なのでしょうか。さて、どうしましょう」
 
と考えて、啼音(なくね)も啼かない白昼の草虫のように浜路はむせび泣き、嘆きを袖の涙の露として、乾して泣き顔を人に見られないようにと、化粧を直すのだが、朝霜が溶けるように、また涙が落ちてくるのだった。
 
 そして、浜路はつくづく思った、
 
「心の苦しみは晴れることはないけれど、右を見ても左を見ても話をできる人がいません。私には犬塚様しかいませんが、まだ婚姻はしていませんが、幼きときより両親の許しを得た夫です。そのお心は精悍で、浮いたところは一つも無く、世に頼もしい人だと思っていますので、私の苦しい心を、あからさまに告げて、その智恵をお借りしたくても、実の親の姓名も、その生き死にもわからなく、また討ち死にした後、私が弔うことができないのです」
 
と思案して、どうやって話をしようかと密かに、人がいない時を窺うと、ある日信乃は、部屋に籠もって一人机に肘を寄せかけ、訓閲集(きんゑつしゅう)を読んでいた。浜路はそっと喜んで、足をそばだてて、近づいていき、口を開こうとすると、慌ただしく来る者があった。浜路は、
 
「どうしましょう」
 
と走り出ると、この足音に信乃ははじめて振り返ると、後に来たのは亀篠だった。その時信乃は机を向こう側に押しやって、立ち向かえようとしたが、亀篠は障子を開けたまま、部屋の中には入らず、走り隠れる浜路の背中を、不審そうに見送りながら、
 
「やあ、信乃よ。あなた様も前から知っているように、糠助親父が長く病気になり、昨日今日はとても危うく、薬も喉に通らないと、付近の人から今聞きました。昔はあなた様の家の隣だったので、親しくしていた者なので、息があるうちに今一度、見舞いに来てくれということだそうだ。それが葬式の事ではないので、薬師の薬礼などの事かもしれない。どうであれ貧しい人に親しめば徳もつかず、無益なだけだと思うけれど、内緒にも出来ず教えに来ただけです。見舞いに行こうと思うのならば早くいきなさい」
 
と言うのに信乃は驚いて、
 
「それは苦しい事です。前に安否を尋ねたときは、それほどまでには見えなかった。六十歳余りの人の時疫(ときのけ)であればよいのですが。急いで行って戻ってきます」
 
と答えて、すぐに刀を引き下げ、立つとみると、亀篠は納戸の方へ向かった。
 
 
 畢竟(ひっきょう:仏語の最期という意味)の糠助が、犬塚信乃に対面して、どのような言葉を遺言するのか。それは次巻で解明しよう。
 
(その2 ここまで)
(第二十二回 ここまで)
(巻之一 ここまで)