新潮日本古典集成別巻 二
南総里見八犬伝第三輯
巻之一
南総里見八犬伝第三輯
巻之一
第二十二回 浜路窃悼親族 糠助病思其子
浜路窃(ひそか)に親族を悼(いた)む
糠助病みて其子(そのこ)を思う
糠助病みて其子(そのこ)を思う
さて、大塚蟇六は、信乃を迎えて養い始めてから、女房亀篠と一緒になって、とても愛してもてなしているが、これは外聞を飾るだけで、心の中に刃を研ぐことが多かった。それはどのようなことかと云えば、蟇六は既に里人等を欺いて番作田を横領し、これは信乃の為に少しも使っていないが、まだ村雨の大刀を入手できていない。
「これを手に入れたなら、あの少年を片付けよう。そのときは宝刀によって、わが身はいよいよ出世するだろうから、浜路には良い婿を招いて、私はますます老楽になるのだ。しかし、考えると信乃の顔心は世の中の童子とは異なっているので、早まって事をし損ずると、毛を吹いて傷を求めるような(小さな欠点をわざわざ探して、自分の欠点をさらけだしてしまう)、結果になりかねない。今のところは真面目にもてなして、油断させるほうがよいだろう」
と腹の内に納めつつ、亀篠にだけはこの秘密を教えて、謀の方法を打ち明けた。また信乃が危ないこと、石の下に生んだ鶏卵(たまご)、薪に巣籠もるひな鳥のようではあるが、親の先見した遺訓があり、加えて才気、勇敢、あの牛若丸もしのぎ、楠木正行(まさつら)にも劣らない、希有の少年になっており、自分が置かれた状況をよく知っており、片時も心を緩めず、旧宅にいたときより、伯母の家に移った日から、例の宝刀は腰から離さず、座るときは傍らに据え置いて、寝るときは枕元によせて、護ることをなおざりにしなかったので、盗む暇がなかった。主客である信乃の様子はこのようで、一年あまりを過ごしたが、奸智(かんち)に長ける蟇六だったが、
「なまじ手を掛けて、見とがめられたら、これまでの心づくしも泡と消えて、自分のためにならない」
と躊躇する程、宝刀を盗む考えをややあきらめて、今年はどうするかと思うと、
「村雨の大刀、手にいれるといっても、信乃が安穏にここで暮らしているのならば、それを管領家へ参らすしかないだろう。たとえあの宝刀が今、自分の者にならないとしても、主も物もここにあるのだ。私の物ではなくても、私の家にあるのならば、最期には私の物になるのだ。ひたすら心早くと思っているから謀が上手くいかない、すべてが都合が悪く、なかなか危ない。娘の浜路はまだ幼いので、これから十年待つとして、そのときで遅くは無いだろう。遠く謀れば長い利がある。短慮は功を得ることができない」
と漸く思い直して、亀篠にも、その心を伝えて、しばらく盗む方法を止めて、ただ時々、額蔵に信乃の意中を探らせてみるが、便り一つも無いという。そこでまた額蔵は、この事を主夫婦に問われる毎に、信乃を誹(そし)るが、害になることは言わず、問われた事、答えた内容を、密かに告げることもなかったので、信乃はますます油断せず、彼も伯母を慕いながら、小者同様に使われていた。
このように拘引(こういん:人を欺く)荏苒(じんぜん:なすことも無く過ごす)して、春が明け、秋に暮れ、流れる月日に身をまかせているうちに、文明九年になった。この年信乃は十八歳、浜路は二つ下で、二八(にはち:十六のこと)歳の春を迎えて、花萌えて、月の前に芳ばしく、柳は翠(みどり)をまして、霞の間(ひま)にそよいでいるように見える。信乃は奇才の若人で、浜路は嬋娟(せんけん:容姿が艶やかで美しいこと)な少女である。その器、その気配、少女としては稀である。この夫にしてこの妻なければ、まことに天縁であると、里人はこれを褒めない者は無く、荘官夫婦を見る毎に、その婚姻を催促していた。蟇六と亀篠も、前々から言っていることであるので、この返答には迷惑して、害心がここで再発して、密かに信乃を殺害しようと、心を急いでいたのだが、十一二歳の時にも謀れなかった才子なので、今はすでに丈夫となって、身長五尺八九寸、膂力(りょりょく:筋肉や腕の力)もおそらく強かろう。
「二葉のときに摘まなければならなかったのに、ここまで斧を用いるとはどうかと思う。早く失う前に、悔しいが事を起こすべきかも」
と臍(ほぞ)を噛むのだが、その甲斐もなく、
「何も出来ず、これからも出来ず」
と案じて、煩わしいと思いながら、隣郷(りんごう)たちちまちのうちに騒動が起き、不慮の合戦が発生した。
事の元を調べてみると、ここに武蔵国豊嶋郡豊嶋の領主である豊嶋勘解由左衛門尉(としまかげゆさゑもんのじょう)、平信盛(たいらののぶもり)という武士がいた。さしたる大名ではなかったが、志村、十条、尾久、神宮(かにわ)など、数郷を管領し、その弟である練馬平左衛門倍盛(ねりまのへいざゑもんますもり)は、練馬の館にいた。このとき、平塚円塚(まるつか)の一族蔓延(まんえん)して栄えた名家だった。信盛兄弟は、はじめのうちは両管領に従っていたが、いささか怨むことがあって、遂に仲違いしてしまった。おそらくこの頃、管領山内家の老臣、長尾判官景春、越後上野両国を切りひらいて、既に自立する志を持っていた。そして豊嶋と相談し、信盛はすぐに味方になることを同意し、ますます管領に従わなくなった。すると山内と扇谷(おうぎがやつ)の両管領は、密かに軍議を重ねて、敵の勢いが小さいうちに、まずは豊嶋を討とうと、文明九年四月十三日に巨田備中介持資(おおたびっちゅうのすけもちすけ)、植杉刑部少輔(うえすぎぎょうぶのしょうゆう)、千葉介自胤(ちばのすけよりたね)等を対象にして、軍勢およそ一千余騎が突如表れひしひしと、池袋まで押し寄せた。豊嶋方は油断して、敵が寄せてくるとは思っていなかったが、一族がいずれも近くにいたので、鎧を投げかけ、馬に乗って走らせ、あちこちで集まり、総大将の信盛の陣に、練馬平塚円塚の軍兵あわせて三百余騎、これを江古田、池袋に急遽向かわせて、鬨(とき)をどっと合わせなだがら、征矢を射かけていたが、すぐに両軍入り乱れて、槍戦となり撃ちつ撃たれつ、火花を散らして、半日あまり戦った。豊嶋は小勢ではあったが、初戦で、千葉、植杉を切り崩し、度重なって追い立てるので、軍の準備が間に合わなかったのか、腰兵糧を携えておらず、士卒が次第に飢渇し疲れてしまい、引き退こうとすると、寄せ手の大将備中介持資は、麾(ざい:采配のこと)を振って味方を励まし、短兵急(たんぺいきゅう:短い武器を持って攻め立てること)で攻めると、豊嶋方は恐れ逃げて、撃たれるものが甚だしかった。千葉、植杉等は、これに期に、魚鱗の陣形を整えて、十文字に駈け散らし、息もつかせず、揉みだすと、豊嶋の士卒は隊列を乱して、悉く切り伏せられ、さらに信盛、倍盛も、乱軍の中で討たれてしまった。同情すべきは、豊嶋、練馬の両大将は、ほんの少しの怨みによって、強弱の軍勢を計らず、一族郎党の殆どが加勢したため、名家がたちまち滅んだのだった。
(その1 ここまで)