ストラビンスキー ピアノ曲 「ペトルーシュカ」 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

イーゴリ・ストラビンスキーがルービンシュタインからの依頼によって、自身のバレエ曲「ペトルーシュカ」から3楽章をピアノ曲に1921年に編曲したもの。それで「ペトルーシュカからの3楽章」とも呼ばれる。

  • 第1楽章:第1場より「ロシアの踊り」
  • 第2楽章:第2場より「ペトルーシュカの部屋」
  • 第3楽章:第3場より「謝肉祭」

 

音源は、イタリアのミラノ出身のマウリツィオ・ポリーニによる演奏。1971年録音。

 

バレエ曲の「ペトルーシュカ」も素晴らしい音楽だが、このオーケストレーションをそのままピアノで表現するのは編曲者としても腕の見せ所だが、正直言って、ストラビンスキー自身が優秀なピアニストだっただけあって、超高難度の楽曲だ。ポリーニのこの演奏から、現在に至まで、この演奏を越えるものを聴いたことが無い。第1楽章の「ロシアの踊り」では、なにしろ原曲のオーケストラに負けないほどの華やかさと優美さを供えていて、躍動感も伝わってくる。第2楽章の「ペトリューシュカの部屋」は弦の響きのような抒情性を表現している。第3楽章の「謝肉祭」は、ストラビンスキーが最も得意とする抑揚のついた爆発力、細かな繰り返しによる時間の引き延ばしなどをポリーニは完全に表現している。一曲聴き終わって興奮する、というのもまずないが、この演奏はすごい。

 

昨日まで現代音楽を書いていたが、少し時代を戻す。

 

ストラビンスキーは1882年ロシア帝国で生まれ、1971年にアメリカのニューヨークで死去。前にも書いたように新古典主義派でありながら、セリエリズムを導入した作曲家・ピアニストである。

 

第一次世界停戦前の1910年にはバレエ「火の鳥」をパリのオペラ座で成功させ、翌年には早くも「ペトルーシュカ」も成功させる。1913年には「春の祭典」もまた大成功。この4年間で3作を初演し大成功を収め、一気に超一流の売れっ子作曲家となった。しかも音楽が画期的で、初めて耳にする観客はバレエの完成度さながら、音楽とバレエが一体となった芸術空間に大興奮だったようだ。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発し、その後ロシアでは十月革命が蜂起し、革命政府により選挙され、ロシアのバレエ団の活動も自粛、ストラビンスキーはロシアからの送金も止められて、苦難を強いられる。このとき彼はパリにいたが、演奏会やバレエ公演に追われることなく内省的に音楽を見直す機会を得て、新古典主義の始まりだ。それが丁度1921年。この「ペトルーシュカからの3楽章」が書かれた年。この後、ストラビンスキーはピアニストとして演奏会を開くようになる。そのためにいくつかのピアノ曲、ピアノ協奏曲を書く。正直言って、難曲だ。

 

第二次世界大戦勃発直後の1939年に渡米して、ハーバード大学で講演、講演録は本になっている。その後ハリウッドに住居を構える。アメリカ政府の意向でヨーロッパの芸術家をハリウッドに集めたのだ。当時のハリウッドは何も無い湿地帯だった。もう一人ハリウッドに移り住んだ大作曲家がシェーンベルクである。この二人仲が悪く、ハリウッドの両端に離して住まわせたらしい。また、映画音楽を作曲して貰おうとプロデューサーがストラビンスキーのところへ話しに行き、承諾を得て、シェーンベルクにも頼もうとするとストラビンスキーが書くのなら私は書かないとへそを曲げるということも度々あり、プロデューサー達は両者の動向を伝えないようにしていて、イントロをシェーンベルクで、エンディングをストラビンスキーで、ということをやっていたらしい。なぜそんなことができたかというと、二人とも映画は見ない、他人の芸術には興味が無い、ということだったようだ。噂だけどね。

 

ただ、シェーンベルクの十二音階技法はセリエリズムと相性が良いので、ストラビンスキーはシェーンベルクを高く評価していた。またシェーンベルクもストラビンスキーの詩的な音楽性については認めていたようだ。お互いにあいつはすごい、と思うからこそ一緒にやりたくない、と思ったのかもしれない。

 

日本の現代作曲家である武満徹を見いだしたのはストラビンスキーであり、後にニューヨークフィルの結成125周年の楽曲をバーンスタインが武満に委嘱したのもストラビンスキーのおかげだ。

 

2015年に驚くべき発見があり、ストラビンスキーが恩師リムスキー・コルサコフ追悼(1908年死去)の「葬送の歌」作品5(1908年作曲)がペテルスベルク音楽院で発見されたのだ。いくつかの書簡の中で「火の鳥」以前の作品の中では優れていると書かれていたので、、世界中の音楽界では注目を浴びた。何より失われていたと思っていた音楽が再現できること、または聴くことができることがなにより嬉しい。

この音源は、「葬送の歌」が発見されて、からの演奏なので初演(1909年)の次の2回目の演奏(2015年)。