ルイジ・ノーノは1924年イタリアのヴェネツィアで生まれ、1990年ヴェネツィアで死去した現代音楽作曲家。ヴェネツィア音楽院でビバルディの校訂者として有名なマリピエロに師事し楽理を修得する。ドイツ人のヘルマン・シェルヒェンに作曲を学び、トータル・セリエリズムを取り入れる。その後、ブーレーズも参加したゲルムシュタット夏期現代音楽講習会に参加し、複数の作曲家と交流するが、全て決別し、独自の路線を模索し始める。
この音源は、ルイジ・ノーノの「ゲルニカの勝利」 1954年作曲。管弦楽と合唱による。
「ゲルニカの勝利」の作曲時点ではセリエリズムは肯定されたままだ。彼の初期の作品である。
その後、点描主義のまま音楽の完全性の固執し、セリエリズムを否定し始める。これによりシュトックハウゼンやブーレーズから批判され、逆に彼らをノーノは批判する。
イタリア共産党に入党してから、有産階級を批判する音楽を作り出す。この反発精神が彼の音楽の前衛性を鋭くすることになる。事実、政治体制批判的な要素を含む作品を発表し、国際的な名声を上げていくのも、この頃だ。第二次世界大戦後にはダイナミックで攻撃的な作品が目立つようになる。
彼の発想の面白いところは、音楽が入った様々なレコードまたはテープを切ってつなげて一つの楽曲にするという手法だ。現代絵画などで行われていた手法を音楽に適用したのだ。これを「テープ音楽」と呼んでいる。次に彼が実践したのがライブ・エレクトロニクスという技法だ。これは生の楽器の音を一旦マイクロフォンで拾い、電子回路で変調等を行って発声させるものだ。これが1980年頃行われていて、ノーノの音楽を聴いて、飛び上がるほど胸を驚かせていた。
この音源は「No hay caminos, hay que caminar... Andrej Tarkovskij」(1987年作曲・初演)て、日本初初演。タイトルの和訳は「進むべき道はない、だが進まねばならない...アンドレイ・タルコフスキー」
タルコフスキーはソ連の映画監督で「映像の詩人」と呼ばれた名監督だ。イタリアの映画監督フェリーニの脚本家としても活躍し、表現の自由を求めて母国から出ようとする。1984年ロンドンにいたタルコフスキーにモスクワからの帰還命令が出るがこれを拒否。事実上亡命となり、世界を沸かせた。「え、タルコフスキーが亡命?」と驚いた。しかし亡命しなくても1985年はゴルバチョフがペレストロイカを本格的に開始するので、のらりくらりと待っていれば、自由に活動できたのだが、亡命したが故に祖国に帰ることができなくなった。そこでゴルバチョフが名誉回復し、帰国を促している最中に1986年パリで死去。1987年にパリのアレキサンドル・ネフスキー寺院で葬儀が行われ、友人の反体制派のロストロポーヴィチがバッハの無伴奏チェロ組曲を演奏し捧げた。
この楽曲は日本からの委嘱でタルコフスキーに捧げられたものだ。
ノーノは音楽大学などで教鞭をとるようなことはなかったので、弟子が少ない。ポーランド人のシェッフェルはノーノの右腕のような人で、ポーランドにおける現代音楽の父とか呼ばれている。