このようにして大塚の里人等は、番作のために居宅(すみいか)を探してきて、蟇六の屋敷の向かいに古くない空き家があって、
「これは、都合が良い」
と購(あがな)い求めて、番作夫婦をここへ移し、また銭を出して集めて、少しの田畑を買い、これを番作田と名づけて、夫婦の衣食が採れるようにした。是らのことは旧主の恩を思い、番作の薄命を憐れんだわけでなく、蟇六夫婦への憎しみなどの思いがもたらしたものである。剛毅木訥(ごうきぼくとつ:意志がはっきりして飾りっ気がないこと)の人は近くに居る、というように聖語(せいご:東大寺尊勝院の経蔵「聖語蔵」が現在正倉院に奉納されている。)が示す様になったのだ。そのとき番作は、里人等の好意で、富むことはないが、貧しさに苦しむ事無く、苗字は姉婿に奪われたので、今更大塚に戻すのも益が無いので、そのまま犬塚と名乗り、里の総角(あげまき:子供)等に習字の教師をして、子供らの親の恩に報い、手束は里お女の子等に、綿を摘み、衣を縫うこ技を教えて、親の恩に報えば、里人等は喜んで、野菜の初穂(はつほ:その年に初めて収穫したもの)や、あれこれとなく物を送ってくれる者も多かった。
【この頃嘉吉三年。去年安房で伏姫が生まれ、今年は義成が誕生した。その事は肇輯第八巻に書いている。】
その頃、死んだと思っていた番作が、障害を負ったとはなったが、妻さえも得て帰ってきて、里人等に尊信(そんしん:尊敬して信頼されること)されて、自分の家の向かい斜めに、住んでいるといるらしく、見もし、聞きもするたびに、妬みすること限りなかった。
「経は、私の方へ来させるか。明日は誰かに言わせるか」
と安心も出来ず、百歩の間に住んでいながら、番作は一度も姉の所に訪れなかった。今はといっても、腹に据えかねて、ある日亀篠は、蟇六と話し合って、人を遣って、番作に言伝した、
「私は女のか弱き身ですが、母を看取りは怠っていませんでした。親の遺言を黙っていることが出来ず、蟇六殿を招き入れて、絶えた家を興した事、皆が知っていることです。それなのに、貴方はおめおめと戦場を逃れ去り、鼬(いたち)のように走り隠れて、母の最期に会うこともできず、命が助かったのを幸いに、世間に広まる前に婦女子を連れてきて、里人等を詐欺(たぶら)かし、すでにその蔭(かげ)を隠して恥ともせずに、舐めた態度はどういうことでしょうか。私はとにかく、私の夫は、大塚の家督を継いでいて、すでにこの郷の長です。たとえば人としての心を少しでも持ち、胡越(こえつ:北方の胡と南方の越の国が遠く離れていることから、疎遠のこと)の思いを抱くのならば、国に貴賤の差別があるように、人にも長少(ちょうしょう)の礼譲(れいじょう:へりくだること)があるでしょう。もしこれを知らないというのならば、私たちの村には住むことは許しません。他郷へ立ち去りなさい」
との事だった。番作はこれを聞いてあざ笑って、
「私はまことに不肖ですが、父と共に籠城して、主君のために命を惜しまず、戦場にて死ななかったのは君父の最期を見るためである。そして樽井にてちちの仇を撃ち果たし、君父の首級を隠してまいり、偶然にも親同士が結んだ契りで、女房手束と名乗り会って、筑摩の御湯で手傷を治し、少しばかりは治ったものの、足下不自由になり、長旅に耐えることが出来なくなった。去年は長い病気を患い、一年を無駄にしてしまった。今年、再び思い興して、杖にすがって、妻に助けられ、やっと来て聞けば、母の終焉、私の姉の不孝淫奔、皆がよく知っていることである。姉婿に何らかの功があって、重職をうけて、大祿を賜ったのか。これは私が知らない間のことだ。私の父の遺命によって、春王君の御佩刀、村雨の一腰を預かっており、ここにある。しかしこれを鎌倉殿に献上せずにいるのは、少しも争う心が無いので、これは私の姉夫婦にとって幸いではなか。番作は、まことに不肖であるが、不孝の姉を見るに忍びず、不義の姉婿にはこびることはできない。どうしてもここから追い出そうとするならば、やむを得ないことだ。鎌倉へ訴えて、公の裁判に任せよう」
と答えた。使者は立ち戻って、しかじかと番作の返事を返すと、亀篠はいっこうに口をひらかず、蟇六はにわかに呆れて、無念に悔しがるのだが、
「毛を吹き、傷を求めるのか」
とようやく思い返して、此の後は反論できなかった。番作は杖にすがって、母の墓参りする時に、偶然に顔を会わせることはあったが、言葉を通わせることはなかった。
(その6 ここまで)