南総里見八犬伝 一 第二輯第三巻第十六回 その5 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 さて、大塚番作一戍は、先に行く手束に伴われて、信濃の筑摩にたどり着き、ここで湯治をしたことで、手足の傷は癒えたのだが、足のふくらはぎの筋肉が縮まっていて、歩くことが自在にできなかった。それでそのまま筑摩に留まり、一年近くを送り、父の喪が終わったのに、まだ武蔵の母に会えていなかった。今年は杖をついてでも大塚に戻ろうと、思っていたのだがこの夏に、瘧疾(わらはやみ:おこり病、熱病)にかかって、秋末まで起き上がることが出来なかった。苦しい中に年月がたって、嘉吉もはや三年になった。世の中での狭い身を顧みず、なお大塚と名乗っていることは、はばかりが無いとはいえないが、筑摩に足を留めた日から、大塚の大の字に一点を加えて、犬塚番作(いぬづかばんさく)と名乗りはじめ、定めた仕事もないまま、手束は麻衣の浅糸から織り紡ぎしてわずかに稼ぎ、台所の煙も細く立てて、仮の生活として三年も流浪したので、蓄えすでに尽き果て、どうしようかと思う時、春王安王の御弟永寿王成氏朝臣、長尾昌賢の計らいで、鎌倉の武将と仰がれて、戦死した家臣の子供らがあちこちに潜伏しているのを召し出せという、筑摩の温泉に湯治する、旅人等が話して聞かせてくれた。この噂は大変なことであり、番作夫婦はとても歓び、
 
「今は、いつ行動するのか時を待とう。たとえ足が不自由であっても、とにかく武蔵へ向かい、母と姉に対面して、すぐに鎌倉へ推参し、春王丸の形見、村雨の佩刀を成氏朝臣に献上して、父匠作の身上だけでなく、舅の井直秀(ゐのなおひで)の忠死の次第を報告し、私の進退を主君に任せよう。それでは」
 
と夫婦で急いで、旅行の準備をして、長い間住んでいた所縁の里人等に別れを告げて、武蔵野大塚に向かっていった。
 
 そのまま番作は、足が弱って、杖に力をかりて、女房の手束に助けられて、数町行っては休み、三四里(り)行くと日が暮れる、と思いのほかに日数がかかり、八月(はづき)に信濃を出て、十月(かんなづき)の末になって、ようやく古里近くにたどり着いた。番作は、今のところ、母の身上が不明で、郷より少し離れた場所の、白屋(くさのや:白い茅でふいた貧しい家)に立ち寄って、
 
「大塚匠作という人の、妻と娘は元気にしているか」
 
と他人のように問うと、亭主(いえぬし)と思われる翁が、稲扱きをしながら夫婦を見返って、
 
「さては、あなたがたは、彼のお方さまの成出でたことをお知りにならないのですね。母親は亡くなって、二年あまり、三年にもなるでしょう。その病気を看病もせず、女の子が不孝で淫奔(いたずら)は、お話しするのも、おかしくてたまりません。その婿の弥々山蟇六は嫌悪されて、破落戸(いたづらもの)でしたが、適当に由緒を申して、八町四反の荘園を賜って、刀さえ許されて、村長になり、今では大塚蟇六と名乗ってます。その屋敷は並桐(なみきり)の向こう、あの辺りにございます」
 
と丁寧に、教えてくれて、番作は期聞きながら、驚いて、姉の亀篠の為体(ていたらく)、蟇六の人となりも、詳細を問い聞き、外へ出ると、手束もともに言葉を失って、頻りに涙をながしてしまった。しばらくして番作は、杖を止めて、ため息をつくと、
 
「体の病気とは言ってはいたが、情けないことに筑摩に留まって年を重ねて、母の終焉に会えなかった。これだけでなく、父の忠死を蟇六という奴に掠め取られ、大塚の苗字を穢されてしまった。今、このことを訴えるには、村雨の宝刀(みたち)が私の手元にあり、勝利することは間違いないと思うが、栄利のために姉と争い、骨肉牆(かき:人と人との垣根)を鬩(せめ:互いに争う)ぐようなものは、私はしない。したがって、この御佩刀も、鎌倉殿に献じるのは難しい。私の姉は不孝の人である。婿の蟇六は不義によて富んだ。頼りに出来ない姉夫婦に、かける言葉も見つからない。そうではないか」
 
とつぶやけば、手束は涙を拭うだけで、何か理屈をも言いかねて、慰めることもできず、目をあわせて、お互い嘆くことしかできなかった。
 
 これより番作は、蟇六に会わず、古老の里人等を訪れて、自分の身上、妻の身上について正直に話をして、志として、親の墳墓を守り、この地に住みたいということを示した。里老(さとのおとな)は番作が薄命だったのを憐れんで、快く引き受けて、あちこちの人を呼び集めて、このことを知らせると、皆聞いて憤りを得て思わず、
 
「我が村は昔から、大塚氏の領分だった。一旦断絶したが、本領安堵の今に至って、実子が日影の花のようにしぼみ、姉婿とはいいながら、いたずら者の蟇六に、すべて横領されたことは、これは本当に不孝なことだ。といっても今更争うのは、一般常識からいって、証文(あかしぶみ)の出遅れで、労して功のない訴えになってしまう。弱きを扶(たす)けて、強きを折(くじ)くのは、東人(あずまうど)の生平(つね:本来持っている意志)である。憎いと思う蟇六の面当てに、番作殿をともこかう、当村中が引き受けて、養っていこうではないか。足は萎えても、手が折(くじ)けても、安心してください」
 
と一人が言うと、皆がうなずいて、騒がしいほど頼もしく、たちどころに皆の意見がまとまって、番作夫婦をもてなしたのだった。

(その5 ここまで)