南総里見八犬伝 一 第二輯第三巻第十六回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 手束は、これをつくづく聞き、例の遺書一通を再びさらりと押し開き、
 
「前もってその名は聞いていましたが、思いがけなく、番作様と、ここで名乗り合った事は、尽きない縁(えにし)でしょう。これは私の父が切り刻まれて、死ぬ間際に残した鳥の跡のように記した返す遺書です、あなた様が事をとてもかばうのは、遺憾のように聞こえます。この契りは根拠が無く、君と親との三つの御首(みぐし)を、うめた側(そば)の新しい仏は、私の母の墓でございます。親と親が許したという、妹扶(いもせ:夫婦)というのは照れくさいですが、今日よりあなた様と共に、夫の後にしたがいましょう、他には望みはございません。どうぞよろしくお願いします」
 
と言うと顔を覆うと、番作はこれを聞いて感動し、
 
「思わず舅姑、塚を並べて両公達の遺骨を守るだけでなく、約束していた妻と夫が巡り合わせたころ、これは家主の親の亡き魂が導いたのに違いない。したがって、あなたと連れ添って深く浮世をひっそりと生きていきましょう。そして、おのおのの親の喪に入って、十三月間服した後に、また改めて夫婦となりましょう」
 
というと手束は、頷いて、
 
「私もそう思います。あなた様はすでに蚊牛法師を殺してくださって、その人柄も良くわかっております。後の禍はないでしょう。ここから、御坂の私の家にお連れするのは難しい。信濃の筑摩に、母方の所縁があります。徳にそのあたりの温泉(いでゆ)は切り傷に効能があるといいます。昔、浄見原(きよみはら)の天皇(すめらみこと:天武天皇のこと)がこの湯に行幸(みゆき)されたと、軽部朝臣足瀬(かるべのあそんあしぜ)等に、行宮(かりみや)を造らせて、今も御湯(みゆ)といわれています。ご案内しますので、一緒に筑摩の里へ」
 
と勧めると、番作はこれに従って、夜が明けぬ前に、と急がせながら、更に手束と一緒に、蓮華庵を走り出て、歩き行くことわずかに五六町(545から654m)、はるかに後ろを見返ると、道場の横に火が燃え出て、行く先にも明るくなった。手束はこれを見て驚き、
 
「ああ嫌なことを思い出しました、出るときは心慌てて火を消しませんでした。過失してしまいした」
 
とつぶやくと、番作は聞いいて微笑んで、
 
「手束だけが驚いているよ。拈華庵は山院なので、浮世には遠い佳境だけれども、乱れた世に清僧(せいそう)は稀だ。かの蚊牛は淫を貪り、何という事無く不良の心を起こしていて、彼が死んで後住(ごじゅう:後に来る住職)などなく、きっと山賊の住み家となっただろう、と思っていたので、埋火(うずみひ:火を地面に埋めて種火にしたもの)を掻き起こして、障子に簾(すだれ)を寄せ手置いてのだ。これであの庵室は、すでに灰燼となったな。蚊牛にこそ罪がある。ただ彼は欲を問えることが出来ず、そのまま私が殺したこと、憐れむこともないが、心地よいとはいえない。それで法師を火葬して、その恥をかくしてやればと、私の一片の老婆心だったのだ。あそこは君父の墓があり、これを焼くのは良くないことだが、賊の住み家とするのに忍びなかった。これはやむを得ないことだろう。私には後に大きな志を得たからには、あそこに伽藍を建立しようと、とても難しい事だろうか」
 
と諭せば手束ははじめて、理解して、かつ感じ、ため息をついて、あの火災の明かりを後にして、また先に立って、ますます道を急いで行った。
 
(その3 ここまで)