南総里見八犬伝 一 第二輯第三巻第十六回 その1 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

南総里見八犬伝第二輯
巻之三
 
第十六回 白刃下鸞鳳結良縁 天女廟夫妻祈一子
 
     白刃の下に鸞鳳(らんほう)良縁を結ぶ
     天女の廟(やしろ)に夫妻一子を祈る

 このようにして、大塚番作は浅手を負ったまま、一昼夜多くの道を辿って、疲れと共に、その傷が痛み、夜中中眠られずに、枕に聞こえる松の声、谷川の音が騒がしく、眠れずに微睡んでいたところ、襖越しに話声がして、驚いて目覚め、枕を持って、耳をそばだてて聞けば、老いた男の声だった。
 
「そうだ庵主が帰ってきたのだろう。彼は何を言っているのか」
 
と耳を澄まして聞くと、すぐに女子の泣き声がして、
 
「それは聞き分けないこと、お願いでございます。衆生済度(しゅじょうさいど)は仏の教え、これはそこまでには及ばないとしても、心を汚す破戒の罪、法衣(ころも)に恥じず刃をもって、殺そうとなさるのは情けがなさすぎます」
 
と言うのは、まさしく宿を貸して、私を泊めてくれた女子である。
 
「さては庵主は破戒の悪僧、か弱き少女を妻にして、かやつを餌に旅人を泊まらせて、密かに殺して物をとる、山賊に違いない。たまたま君父の怨みを果たし、恥を雪(きよ)め、危難を逃れて、ここまできたのに、おめおめと、私は山賊の手で死ぬのか。先に動けば征することができよう。こちらから撃って出て、皆殺しにしてやろう」
 
と思い決(さだ)めて少しも騒がずに、密かにおりて帯を引き締め、刀を腰に、そっとゆっくり衾の側まで忍び寄って、建て付けの歪みから中の様子を垣間見ると、その年四十数の悪僧、手に一挺の菜刀(ながたな:野菜を切る包丁)をふりあげて、女子に対して脅し賺(すか)して、言っていることはよく聞こえないが、自分を撃とうとする面魂、女子はこれを止めようとして、髪振り乱して声を上げて泣いていた。害心(がいしん:人に危害をくわようとする心)がすでに顕れているので、まったく番作はそれを疑わず、衾をサッと蹴り開いて、庫裡のなかへ躍り出て、
 
「山賊、私を殺そうとしているな。まずお前を殺そう」
 
と罵り飛びかかると、悪僧はひどく驚いて、持っていた刃を閃かして、切ろうとするこぶしの下をくぐり抜けて足を飛ばして、腰のあたりをぱっと蹴った。蹴られて前へひょろひょろと、五六歩つんのめって、ようやく踏みとどまり、振り返って突きかかるのを、右に長し、左へ滑らし、数回かけて、悩まして疲れるところにつけいって、ついに刃を打ち落とさせると、悪僧いよいよ慌てて、逃げようとするので、番作は、菜刀をすばやくとりあげて、
 
「賊僧よ天罰だ、思い知れ」
 
と大声とともに、あびせかけた刃の稲妻、背筋を深く劈(つんざ)いた。急所の痛手に、すこしも持たず、悪僧は、「苦(あっ)」と叫んで、倒れるところ、胸先をとどめの切っ先が刺し貫いて、引き抜く菜刀を振り立てて、血を降り垂らして、刃を拭い、あわてまどってにげもしない、伏せて沈んでいた女子に向かって、眼を怒らして大声で、
 
「お前は夜中に飯を恵んでくれたおんで、一椀の恩がある。また賊僧が帰ってきて、私を殺そうとするのを止めようとした、これは惻隠の心だが、この賊僧の妻となって、これまで何人の人を殺してきたのか、私にはわからない。それは天の誅(せめ)として速やかに白状して、刃を受けよ、さあどうなのだ」
 
と問われてすぐに頭を上げて、
 
「その疑いは私の知らないところで、あなたのお心のお間違いです。私はもとよりこの者の妻ではございません」
 
というのだが、あざ笑って、
 
「浅ましいくも、言葉を左右によせて、時間を稼げば小賊(こぬすびと)等が帰るのを待って、その夫のために、復讐しようというのがお前の胸中であろう、私はだまされないぞ。白状しないなおならばこうしてやろう」
 
と打晃(うちひらめか)す菜刀の光と共に、女子は飛び退き、
 
「やめて下さい、話をします」
 
とはいえ、許さぬ怒りが切っ先を女子目掛けてつけ回すと、刃先で竹が折れたので、右手を伸ばし、左手で突くと、片膝を立てて身を反らして、後ろに逃げるので、番作は逃がさないように、撃てば開き、払えば沈み、立とうとすると頭上に閃く氷の刃、逃れ片手を懐に、差し入れる間も無く、切ろうと進む目の先に、取り出したのは一通の文をつきつけて、
 
「これを見て疑いうのをやめてください。お願いいたします」
 
と両手に引き延ばした、命毛の筆に示したその身の素性、番作はよく読んで、思わず刃を取り直し、
 
「信じられない、書状の名印である。梵妻賊婦(ぼんさいぞくふ)の艶書(えんじょ)かと思ったが、そうではなく勇士の遺書である。そうであったか、訳を申せ」
 
と体を開いて、刃を畳に突き立てて、膝折して女子をじっと見たのだった。
 
(その1 ここまで)